2013年12月28日

「森(La selva)」(パヴェーゼの神話論より)

 以下に翻訳したのは、パヴェーゼが『レウコとの対話』の執筆を始める3か月前に記した「森(La selva)」という表題の短い神話論です。1年半、断続的な仕方で取り組み続けたこの小論の理解がようやく深まり、翻訳することができたので発表します。表題の「森」の原語「La selva」の「selva」は「森」だけでなく「数の多さ」を意味する言葉であり、さらには「野性」の原語「selvatico」の響きも含むと思われますが、以下の翻訳では「selva」の訳語は全て「森」に統一しました。その理由は、パヴェーゼが「都会」を、人間の意志という樹木で生い茂る森、「人間の森(selva umana)」とみなしていることを明示するためです。この小論を読むと『レウコとの対話』の全体像がはっきりと見えてくるかと思います。パヴェーゼの『レウコとの対話』は、ユイレとストローブの映画のイメージとは異なり、徹底的に「都会」的な作品なのです、『美しい夏』のような。どうぞお楽しみください。(本年最後のブログの更新になるかと思います。皆さま、良いお年を!)


 僕たちの興味をひく野性(selvatico)は、自然、海、森(selva)ではなく、僕たちの仲間の人間の心の中にある予想できないもの(imprevisto)である。それはただ注意力を集中させるだけで、確固とした意志となる野性だ。都会と女性は僕たちに残忍な態度をとるが、全ての荒れた畑は残忍さの象徴(simbol)に過ぎない。不運や悪天は僕たちの諦めを知り、僕たちに死を与えるが―僕たちの中の野性を爆発させることはない、情熱と情熱を対立させる確固とした意志がそうするようには。野性は言葉を発明し、言葉の中で明晰になろうと苦労するが、その後、言葉は僕たちの中で化膿し、僕たちの胸を引き裂く。最初は自然だけが存在する。都会は風景で、断崖や高地や空や不意に開かれる森の空き地であり、女性は獣や肉欲や抱擁である。その後、自然は言葉になる、自然物は象徴に過ぎなかったのだ、僕たちは真の野性を知り、悲鳴を上げずにいられない。

 これまでに誰が、事物を前にして悲鳴を上げただろうか? 森の茂みの暗闇や、悲しげな風の襲撃や、熱を払いのけることの不能は、豊かな神秘―苦悩と危険の神秘であるように僕たちには思われ、それに対して僕たちは、言葉を与えたい気持ちに駆られる、より一層、神秘を知り、所有するために。ところが、言葉を与えることが意味するのは、神秘を人間や都会の基準に適合させること、そこからまさしく、不明瞭で、残酷で、増殖する森、人間の森(selva umana)を表現し、示すための言葉を作ることなのだ。自然の事物の中には神秘はなく、同様に危険もない―存在するのはせいぜい象徴である。と言うよりもむしろ、都会や女性の―他者と共にある人生(vita in comune)の―固有性は、確固とした意志が姿を現す場合、象徴から成り立つことに存している。象徴との衝突によって僕たちの意志もまた緊張する、そして徒に、僕たちは不能のまま捨て置かれるのだ、神秘―我慢ならない唯一の真の神秘、意志の対立という神秘の前で。

 僕たちはなぜ女性について、象徴でもって語る傾向にあるのだろう、すなわち女性を自然の事物に変じ、例えば、彼女が熱や突風や森の茂みであると言い合うのだろう? 僕たちはそうすることによって、僕たちの身を守るのだろうか、広場や連なる屋根を風景に変じたり、人の群れに、それが川であるかのように身をゆだねることが、防御であるように? しかし、言葉は奇妙な生を歩む。それはただちに受肉し、あの女性は実際に熱や森の茂みに、人の群れは実際に川に、そして都会は風景になるだろう、言いかえれば、僕たちにとって無感情な(impassibile)ものに。その時、僕たちの情熱は再び燃え上がる。意志はもがくのだ、あの象徴とあの言葉の下に、抵抗する対立的な意志が存在し、それ自身が永遠の神秘であることをよく知りながら。この神秘の中で僕たちが尽きることはありえないし、この神秘が僕たちの中で尽きることも決してありえないだろう。真の野性はここに存在する。森林の中、麦畑の中での孤独は恐ろしいものでありえるし、人を殺すこともありえるが、人間のようには、情熱的な意志のようには、僕たちを怖がらせないし、殺すこともない。それができるのは、ただ他者だけだ―他者、隣人、女性、仲間、僕たちの娘や息子。彼らと向かい合い、都会と向かい合い、僕たちはいつも苦しむ、徹底的に苦しむ。僕たちは象徴や言葉を交わし、殴打を交わし、互いに手を差し伸べ、交互に汗を拭き合うが、一日の終わりに、ぐったりしながら、僕たちは気付くのだ、僕たちと共にいてくれる人は、誰もいないことに。それなのに僕たちは知っているのだ、僕たちの全ての苦労には、この唯一の目的、僕たちを手ぶらのままで捨て置かない、という目的があったことを。こうしたことを人は受け入れられるだろうか?

 僕たちはそれを受け入れなければならない。一日の終わりが、翌日が、将来が、どんなであるかを考えてみれば十分だ、もし象徴が消失したら、もし神秘が消滅したら、もし僕たちの夜が孤独でなかったら。僕たちは死者以上に死んでいるだろう。僕たちは何かを欲することを知らないだろう。僕たちは、隣人―都会と女性―が、ただ神秘の状態でありながら、僕たちの殴打と手を待ち望んでいることに、自らの苦悩と神秘の前に立たされながら、目を覚まされ苦しめられることを待ち望んでいることに気付かないだろう。もし象徴を、すべての象徴を壊滅させることが可能だとしたら、僕たちはただ僕たち自らを壊滅させることになるだろう。象徴に関して僕たちは、いつもよりももっと豊かな、もっと繊細な、もっと真なる象徴を見出すことができる、取り替えることができる、否定することはできない、その下にある意志を、対立する意志を、森を。その中に僕たちの血、息、飢えがある。人は森から逃れることはない。森もまた象徴である。

 このことを忘れて、甘い夢―女性と都会は、血、息、飢えではないという信頼―に身をゆだねる者は、目覚めた時、やはり孤独な状態にあるだろう、これまで以上に孤独な状態に。しかし、彼は、自分自身をも失ってしまっているだろう。全世界を征服しても、その後に自分自身を失ってしまうのであれば、それが人にとって何の役に立つのだろう? 彼は力が足りてくると、さて自分はどこにいるのか、知らざるをえない。飽満の中、恥辱の中、死の中だ。しかし、森の外ではない。

 僕たちは象徴を―各人の神秘を―受け入れなければならない、人が自然の事物を受け入れる際の、冷静な確信とともに。都会は僕たちに、田園が僕たちに果実を与えるように、象徴を与える。しかし、誰もその樹木(pianta)を知らないし、所有していない。それは別の世界から来るのだ。まき散らされ、切り取られる、打ち倒され、燃やされる、しかし、誰が言うことができるだろう、その樹木が自分のものだと? 誰が言うことができるだろう、他者の意志の奥底に到達したのだと? 時々、壊滅させることが唯一の手段であるように思われることがある。それは結構なことだ。しかし、たった一つの意志、たった一本の樹木を壊滅させることは、たとえそれが可能だとしても、全くもって何事でもない。もう一つの意志、さらにもう一つの意志へと移り渡る必要があるだろう、そして、そのようにして無限に進んで行くのだ。馬鹿げている。手に入るのは、誰もいない世界、大草原(steppa)だ。それは要するに、森のもう一つの名前に過ぎない。それよりも、神秘を受け入れ、都会に象徴を、そして田園に存在(presenze)を住まわせるほうがいい。そして、こういったこと全てを愛するほうが―絶望的なまでの用心深さで。
(翻訳・持田 睦)
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2011年09月15日

『レウコとの対話』全27話、下訳終了!

 パヴェーゼの『レウコとの対話』を翻訳するために、イタリア語の勉強を始めてから5年が過ぎ、ようやく全27話の下訳が終了しました。最後に翻訳した第6話の「野獣」は、他の対話と比べ文章の量が多く、また内容の把握にも手こずったため、4か月近くの時間を要しましたが、なんとか昨日、目処をつけることができました。

 もちろん、これは下訳ですので、今後、誤訳箇所の修正や、訳語の統一を行い、翻訳の精度を上げていかなければなりませんが、こうした仕事は、下訳のときほどは過酷でないのではないかと予想しています。森の中で『レウコとの対話』を声にする「自然の中での対話」の活動も再開しながら、最終的には、僕らの目標のひとつである『レウコとの対話』の公演台本に、仕上げることができたらと思っています。

 翻訳を始めた頃は、『レウコとの対話』の日本語全訳は出版されていなかったため、私の翻訳が『レウコとの対話』を全て読みたいと思っていらっしゃる方のお役に少しでも立てたらと思っていましたが、その後、岩波書店から「パヴェーゼ文学集成」が出版され、その第6巻上に『レウコとの対話』の全訳が『異神との対話』というタイトルで掲載されたため、私の翻訳の意味は小さくなりました。

 ただ、翻訳を読み比べていただけたら分かりますように、河島英昭氏の翻訳と私の翻訳との間には、同じパヴェーゼの原文からの翻訳であるにもかかわらず、大きく異なる点が少なからず存在します。河島氏の『異神との対話』を読み、退屈に感じた方、違和感を感じた方、理解が困難に感じた方はぜひ、私の『レウコとの対話』をご一読いただけたらと思います(その逆もまた然りです)。

 最後に、インターネット上で私の翻訳をお読みくださり、見ず知らずの私に、温かいお言葉を早い時期からかけてくださった、nosさま、二宮さま、三千代さまのお三方に、お礼を申し上げます。翻訳の作業が軌道に乗ったのは、自らのブログ「daily report from mt.olive」上で私の翻訳をご紹介くださったnosさま、イタリア語のご相談にものってくださった二宮さま、貴重な資料までお貸しくださった三千代さまのおかげです(二宮さま、三千代さまのブログ「週間イントラモエニア」は、パヴェーゼの『レウコとの対話』に関する記事をはじめ、魅力的なイタリアの話題で満載です)。このご恩は生涯忘れません。

(持田 睦)
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2011年05月16日

第6話 野獣

 以下に掲載するパヴェーゼの『レウコとの対話』の第6話(1945年12月18日-20日筆)は、ストローブの映画『アルテミスの膝』として映像化されています。
(持田 睦)


野獣(修正中)
(2012年11月14日更新)

 エンデュミオンとアルテミスの愛が、肉体的なものでないことは、私たちの確信するところであります。これはもちろん、ふたりのうちの、より精力的でない方*1 が、血を流すことを強く望んでいたという可能性を否定するものでは―まったくもって―ありません。処女神―野獣たちの女主人であり、怪物のような*2 地中海の、言い表わしようのない、神々しい母たちの大群の中から世界に現れた女神*3―の温和でない気質は、よく知られています*4。同様に男*5 のほうも、眠っていないときに眠りたいと思い、永遠に夢を見る男としてその名を残すことが、よく知られています。

*1 エンデュミオンのこと。
*2 原文では「mostruoso」。この語をパヴェーゼが、オリュンポスの神々よりも「古い神々」を形容する言葉として用いていることは、第2話「キマイラ」及び「パヴェーゼの日記(1947年2月24日)」における「mostruoso」の使用例からも明らかである。
*3 「大群」は原文では「una selva」。この語は「森」という意味も持つが、この箇所でパヴェーゼが言おうとしているのは、アルテミスが「森の女神」であるといったような単純なことではない。彼はオリュンポスの神々の一員である彼女の起源を、フレイザーの『金枝篇』に書かれているように、オリュンポスの神々以前の原始的な「豊穣・多産の女神たち」の内に見て取っているのだ。(なお、河島英昭氏はこの箇所を「言い表しがたい神聖な母親たちの森から、怪物たちの地中海世界へ出現した存在であること」と翻訳している。)
*4 「処女神=少女と母親」というテーマは、第8話の「母親」でも扱われている。
*5 エンデュミオンのこと。


(以下、未修正)

(エンデュミオンと流れものの対話)

エンデュミオン: 聞いておくれ、通りすぎていくものよ。流れものであるきみにだったら、ぼくはこうしたことを口にできる。ぼくの気狂いの目にぎょっとしないでおくれ。きみの足をつつんでるぼろ切れは、ぼくの目みたいに汚いけれど、きみって男は、そうしたければ、じぶんの選んだ土地で落ちついたり、その土地で、避難所や仕事や家屋を手にするような、きちんとした男に見えるね。でも、ぼくにははっきりわかってるんだよ、きみがいま歩いてるのだとしたら、そのわけは、きみには、きみの定めしかないからだ。そしてきみは、夜明けのこんな時間に、道をあちこち歩きまわってる−だからきみは、ものがやっとのことで真っ暗やみのなかから出てきて、まだだれにも触られずにいるときに、もののなかで眠らないでいることが気に入っているんだ。あの山が見える? ラトモスの山だよ。ぼくはね、夜になんども登ったんだ、山がもっと黒かったときに、そして、そのブナの木のなかで、夜明けを待ってた。それなのにね、ぼくは、山に触るなんてことは一度もなかった、そんな気がしてるんだ。
流れもの: だれが口にできるってのさ、じぶんがその横を通りすぎていくものに、これまで触ったことがあるだなんて?
エンデュミオン: ぼくはときどき思うんだ、ぼくたちは、手触りのないまま流れていく風みたいなものなんだって。ああ、眠りについている人の夢みたいなものだ。流れものさん、きみはお昼に眠るのは好き?
流れもの: なんであろうと眠るさ、眠たくってたまらないときには。
エンデュミオン: 眠りのなかで、きみは−道をあちこち歩きまわってるきみは−、風でさらさらする音や、小鳥たちや、池や、虫がぶんぶんする音や、水の声に、耳を傾けてみたことはないの? 眠りながら、もうひとりぼっちじゃない、そんな気になることはないの?
流れもの: さあ、どうだかね、友よ。おれはいつもひとりぼっちで生きてきたから。
エンデュミオン: ああ、流れものさん、ぼくはもう、眠りのなかに安らぎを見つけることがないんだよ。じぶんではいつも眠ってたって思っているのに、本当はそうじゃないってことが、分かってるんだ。
流れもの: あんたはおれには、年頃の、じょうぶな男に見えるぜ。
エンデュミオン: ぼくはそうだもの、流れものさん、ぼくはそういう男だもの。それでぼくは、お酒の眠りを知ってるし、女のひとのとなりで眠る深い眠りを知ってるけれど、こうした眠りはどれも、ぼくを助けてはくれないんだ。ぼくの寝床から、今、ぼくは耳の感覚を広げて、いつでも飛び起きられるようにして、こういう目を、真っ暗やみのなかをじっと見つめてるみたいな、こういう目をしてる。ぼくはいつも、そうやって暮らしてきた、そんな気がしてるんだ。
流れもの: おまえはだれかがいなくなって、さびしくなってしまったのか?
エンデュミオン: だれかだって? ああ、流れものさん、きみは思ってるのかい、ぼくらが死すべきものだなんて?
流れもの: おまえはだれかを亡くしてしまったのか?
エンデュミオン: だれか、じゃないよ。流れものさん、ラトモスの山を登るとき、ぼくはもう、死すべきものじゃないんだ。ぼくの目を見ないでおくれ、どうだっていいものなんだから。ぼくが夢を見ていないってこと、ずいぶんと眠っていないってことは、分かってるんだ。崖の上のあのブナの木の、丸く開かれたところ(訳注・原文では「le chiazze」。「chiazza(大きな丸い染み)」には「area vuota(何もない区域)」の意味もある)が、きみには見える? 昨日の夜、ぼくはあそこにいて、彼女を待ってたんだ。
流れもの: だれが来ることになってたのさ?
エンデュミオン: ぼくらは彼女の名前を口にはしない。ぼくらはそれを口にしないよ。彼女には名前がないんだ。あるいは、たくさんある、そうなんだ。道づれの男であるきみ、きみは、森がどんなに恐ろしいか、そのなかで夜の空き地がひとつ(訳注・原文では「una radura nottura」)開かれるとき、どんなに恐ろしいか、知ってる? それとも、知らないか。きみが日中、目にし、通り抜けた空き地、そこではきみの知ってる花、小さな丸い実が、風で揺れてて、この小さな丸い実、この花は、すべての野生のもののなかで、ひとつの、野生の、触ることのできない、死すべきものであるのだけれど、そうした空き地を、夜になってから思い出すとき、どんなに恐ろしいか、知ってる? きみにはこういうことは分かるの? 一匹の野獣みたいに咲いてる、一輪の花のことが? 道づれのものであるきみ、きみはいままでに、おそるおそる、そそられながら、雌狼の、牝鹿の、蛇の自然(訳注・原文では「la natura」)を目にしたことはあるかい?
流れもの: おまえがほのめかしてるのは、生々しい野獣の性(訳注・原文では「il sesso」)のことなのか?
エンデュミオン: うん、でもまだ続きがあるんだ。きみはいままでに、一つでありながら多くのもの(訳注・原文では「molte cose in una」)である人(訳注・原文では「persona」)、じぶんの持ってるものがとても多いので、その人の行いのすべて、そのひとについてきみが思い浮かべる考えのすべてには、きみの地べたときみの空にある果てしないものが含まれ、それから、言葉が、思い出が、きみがまるで知らないはずの過去の一日一日が、未来の一日一日が、確実なものごとが含まれ、それから、きみにはじぶんのものにする資格のない、もうひとつの地べたともうひとつの空(訳注・人間界とは別の領域を指していると思われる)とが含まれる、そうした人と知りあったことはあるかい?
流れもの: そういう話なら、耳にしたことがあるぜ。
エンデュミオン: ああ、流れものさん、そして、この人が、野獣であり、野生のものであり、名前のない、触ることのできない自然なのだとしたら?
流れもの: おまえはさ、ぞっとするようなことを話題にしちまってるぜ。
エンデュミオン: でもまだ続きがあるんだ。きみはぼくの話を聞いてるね、聞かなくっちゃ。それに、もしきみが道をあちこち歩きまわってるのならば、地べたはすっかり、神々しいものと、ぞっとするようなものであふれかえってることが、きみには分かってるでしょ。ぼくがきみと話をしてるのはなぜかと言えば、ぼくらだって、旅する人たちや、正体不明の人たちみたいに、少しは神々しいところがあるからなんだ。
流れもの: 確かにな、おれは多くのものを目にしてきたさ。それから、ぞっとするようなものを。でもな、遠くに行かなくってもいいんだぜ。もしおまえのお役にたてるのだとしたら、おまえにはこう言ってやろう、不死なるものたちってのは、暖炉の煙突の通り道ってものを知ってるんだって。
エンデュミオン: それじゃあ、きみには分かるんだね、そしてぼくのことを、信じることができるんだね。ぼくはある晩、ラトモスの山で眠っていました−夜のことでした−ぼくは遅くまでぶらぶらしていました、そして座りながら、木の幹にもたれかかり、眠っていました。ぼくは月の下で、目を覚ましました−夢のなか、ぼくはそこに、森の空き地のなかにいることを思い浮かべると、ぞくぞくしてきました−そして、彼女を目にしたのです。ぼくのことを、あの少し釣り上がった目、その中身が、揺れることのない、透きとおった、大きな目で見つめている、彼女を目にしたのです。そのときは分かりませんでしたが、次の日になっても分かっていなかったのですが、ぼくはすでに、真ん丸のなかに、彼女の目の、彼女が支配する空間の、森の空き地の、山の、真ん丸のなかにふさがれて、彼女のものになっていました。彼女はぼくに、ひかえめな微笑みであいさつしてくれました。ぼくは彼女に言いました、「女主人さん」と。すると彼女は眉をひそめたのでした、まるで、少しばかり粗野な少女のように、まるでぼくが驚いているのが分かっているように、そして、ぼくが、彼女のことを女主人と呼んだことで、あたかもぼくの中の肝(きも)がつぶれてしまったかのように。その後、ぼくらのなかには、あの驚きがいつも、残っていたのでした。
 ああ、流れものさん、彼女はぼくに、名前を呼びかけ、近づいてきて−きものの丈(たけ)は、彼女のひざにあたらない短さ(訳注・丈の長いきものでは、狩りがしづらいため)だったっけ−手を伸ばしながら、ぼくの髪の毛に触りました。ためらいがちに、ぼくに触りました、そして、彼女に浮かんでくるのは、微笑み、信じられないような、死ぬかと思うほどの微笑みだったのです。ぼくはひれ伏しながら、倒れかけていました−彼女の名前のすべてを思い出していたのです(訳注・アルテミスは、弓射に関係する異名を複数持っている。エンデュミオンがひれ伏したのは、彼女の弓で射られることを恐れたためだろう)−が、彼女はまるで、子どもに対してそうするように、あごの下に手を当てて、ぼくが倒れないようにしてくれたのでした。ぼくが大きくてじょうぶなのは、ごらんの通り、彼女は荒々しく、あの目のほかには何も持っていませんでした−やせっぽちの、粗野な女だったのです−が、ぼくはまるで、子どものようでした。「あなたはもう二度と、目を覚まさなくていいのよ」、彼女はぼくに言いました。「あなたはもう二度と、動かなくていいのよ、わたしがまた、あなたを見つけにくるんだから」。そして、彼女は、空き地を通り抜けて、立ち去っていったのでした。
 ぼくはその夜、ラトモスの山を歩きまわりました、夜が明けるまで。ぼくは月のあとについて、ありとあらゆる谷のなか、茂みのなか、山のてっぺんを、進んでいきました。ぼくは耳を広げましたが、その耳は、海辺の水で満ちあふれているかのように、あの少しかすれた、冷たい、母親みたいな声で、なお満ちあふれていました。すべてのざわめき、そしてすべての物影が、ぼくを立ち止まらせました。野生の生きものについては、その逃げていく姿を、ちらっと目にするだけでした。光−少し青白く、もやがかかった光です−がさしてくると、ぼくは、高いところから平らなところを、流れものさん、ぼくらが進むこの道を見つめ、もう二度と、人間たちのなかでは暮らしていけないことが分かったのです。ぼくはもう、かれらのうちのひとりではありませんでした。ぼくは夜を待っていました。
流れもの: おまえは信じられないようなことを口にしてるぜ、エンデュミオン。でも、信じられないのはな、おまえがたしかに山のうえに戻ったあとも、いまだに、生きて、歩きまわってるってこと、それから、野生の女、いくつもの名前をもつ女主人が、おまえをまだ、自分のものにしてないってことなんだ。
エンデュミオン: ぼくは彼女のものだよ、流れものさん。
流れもの: おれが言いたいのはな…。おまえは、犬たちにずたずたにされた羊飼いの話を知らないのか、あの軽はずみな男、鹿-男(訳注・アルテミスの水浴びを目にしたため、あるいは、自分はアルテミス以上の狩りの名人だと自慢したため、牡鹿に変身させられ、みずから狩猟に連れ出した五十匹の猟犬に刻みつくされたたアクタイオンのこと)のことを…?
エンデュミオン: ああ、流れものさん、彼女のことならぼくはみんな知ってるよ。だってぼくらは、話しに話したもの、そして、ぼくは眠っているふりをしたんだ、いつだって、くる夜くる夜、そして、ぼくは彼女の手に触ったりはしなかった、まるでメスの獅子や、沼の緑の水に、あるいは、最高にぼくらのものであり、ぼくらがこころのなかに携えているものに、ひとが触ったりすることがないように。聞いてちょうだい。ぼくのまえに、彼女はいる−やせっぽちの女の子、微笑んではいない、ぼくのことを見つめてる。そして、大きな、透きとおった目は、ほかのものを見てた。まだ見てる。ほかのものとは目のことだ。この目のなかに、小さな丸い実と野獣が存在する、叫びが、死が、むごたらしく石と化してしまうことが、存在する。ぼくは知ってる、流された血を、八つ裂きにされた肉を、食いしんぼうな地面を、ひとりぼっちであることを。彼女にとって、野生の女であることは、ひとりぼっちであること。彼女にとって、野獣とはひとりぼっちであること。彼女のなでたりさすったりは、ひとが犬や木の幹にする、なでたりさすったり。でもね、流れものさん、彼女はぼくを見つめるの、ぼくを見つめるの、そして短い丈のきもののなかにいるのは、やせっぽちの女の子、たぶん、きみが、きみの田舎で見かけたような、女の子。
流れもの: おまえの人間の暮らしのことは、エンデュミオン、おまえたちの話題にのぼらなかったのか?
エンデュミオン: 流れものさん、きみはぞっとするようなことをいくつも知ってて、野生のものや神々しいものが、人間を消してしまうことを知らないの?
流れもの: おまえがラトモスの山にのぼるとき、おまえはもう死すべきものでない、そんなことは知ってるさ。でもな、不死なるものたちってのはな、ひとりぼっちでいることができるんだ。そしておまえは、ひとりぼっちでいることを望まない。おまえは獣の性を探し求める。彼女といっしょになると、眠ったふりをする。それじゃあ、いったいなんなのさ、おまえが彼女に求めたものってのは?
エンデュミオン: 彼女がもう一度、微笑んでくれること。そして今度は、血が、彼女のまえで流されたらいいんだ、肉が、彼女の犬の口のなかに入ったらいいんだ。
流れもの: で、彼女はおまえになんて言ったんだ?
エンデュミオン: 彼女はなにも言わない。彼女はぼくを見つめる。彼女は夜が明けると、ぼくをひとりぼっちにして置いていく。そして、ぼくは、ブナの木のなか、彼女を探し求める。日の光は、ぼくの目を傷つける。「あなたはもう二度と、目を覚まさなくていいのよ」、彼女はぼくに、そう言ってくれてたっけ。
流れもの: ああ、死すべきものよ、おまえがほんとうに目を覚ますその日に、分かるだろう、彼女がなぜ、おまえに対し、彼女の微笑みを、ひかえていてくれたのか。
エンデュミオン: 今、この場で、ぼくは分かった、ああ、流れものさん、ああ、まるで神さまみたいなしゃべりかたをする、きみ。
流れもの: 神々しいものやぞっとするようなものは、地べたを走りまわるもの、で、おれたちはといえば、道のうえを歩いてる。そう口にしてたのは、まさしくおまえだぜ(訳注・エンデュミオンの11番目の台詞のなかに「それに、もしきみが道をあちこち歩きまわってるのならば、地べたはすっかり、神々しいものと、ぞっとするようなものであふれかえってることが、きみには分かってるでしょ。」という言葉がある)
エンデュミオン: ああ、旅する神よ(訳注・この呼びかけから明らかになるように、流れものの正体は、旅の神のヘルメスである)、彼女のものやわらかさはね、まるで夜明けみたいなんだ、明るんでくる地べたや空みたいなんだ。そして、神々しい。でもね、ほかのものにとっては、ものたちや獣たちにとっては、野生の女である彼女は、短くくすっと笑って、じぶんたちを滅ぼしてしまう命令の持ち主。そして、だれひとり、これまでに、彼女の膝に触ったことは、ない。
流れもの: エンデュミオン、おまえの死すべき心のなかで、あきらめをつけるんだな。神も人間も、彼女に触ったことがあるものはないのさ。彼女のかすれた、母親みたいな声、それだけが、野生の女がおまえに与えることができる、すべてなんだ。
エンデュミオン: でもね。
流れもの: でもね?
エンデュミオン: あの山が存在するあいだは、ぼくはもう、眠りのなかで安らぐことはないんだろうね。
流れもの: ひとりひとり、じぶんにやってくる眠りがあるのさ、エンデュミオン。そして、おまえの眠りは、声や叫びで、それから、地べたで、空で、日々で、果てしがない。勇気をもって、その眠りを眠るんだ、おまえたちには、ほかにいいものなんて、ないんだから。野生的にひとりぼっちであることが、おまえのもの。それを愛するんだ、彼女がそれを愛するように。じゃあ、そろそろ、エンデュミオン、おれはおまえを置いてくことにするぞ。今夜、彼女をおまえは目にするはずだ。
エンデュミオン: ああ、旅する神よ、きみにはお礼を言うよ。
流れもの: さらば。でも、おまえはもう目を覚まさなくていいってこと、よく覚えとくんだぞ。

(翻訳・持田 睦)
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2011年05月08日

第8話 母親

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第8話(1945年12月26日-28日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。(ジャン=マリー・ストローブの映画『母』はこの対話を原作にしています。男神であるヘルメスを女性に演じさせているのは、ストローブならではのことです。)
(持田 睦)


母親(修正中)
(2012年11月14日更新)

 メレアグロスの人生は、彼の母アルタイアからその息子が産まれた時に、彼女がかまどの火の中から取り出した木片と結びつけられていました*1 。専制的な母であり、メレアグロスが、イノシシ*2 の毛皮の分け前を強く求めてきた自分のおじ*3 を殺した時に、彼女は怒りの衝動に駆られ、木片を再度かまどの火の中へ投げ入れ、それが灰になるまで放っておいたのでした。

*1 産後のアルタイアのもとに三人の女神が現れ、木片をかまどの火の中に投げ入れると、「木片の長さと同じだけの寿命をメレアグロスに与えよう」と告げて、消えたと言われている。
*2 メレアグロスの父であるオイネウス王から受けた侮りに対する復讐として、女神アルテミスが野に送った巨大イノシシのこと。
*3 アルタイアの兄弟プレクシッポスのこと。


(メレアグロスとヘルメス*4 が対話している。)

*4 アポロドロスの『ギリシア神話』によれば、ヘラクレスが冥府でメレアグロスの霊と出会った際、ヘルメスもその場にいた。

メレアグロス: 僕は炭のように燃えてしまったよ、ヘルメス。

ヘルメス: でも大して苦しみはしなかったさ。

メレアグロス: それ以前の苦悩や情熱のほうがひどかったから。

ヘルメス: それならば、ほら、よく聞くんだ、メレアグロス。お前は死んでしまった。炎も、ひりひりした痛みも過ぎ去ってしまった。お前はあのかまどの火から離れて行った煙ですらない。ほとんど無のようなものさ。諦めるんだ。それに、お前にとっては、この世の事物も、朝も、晩も、土地も、ひとつの無さ。辺りを見回してみるんだ、ほら。

メレアグロス: 何も見えない。それに、そんなことはどうでもいい。僕はまたもや、一本の真っ赤な炭火なんだ。君はこの世の土地について、何て言ったの? ああ、ヘルメス、君のような神さまにとってはきっと、この世はきれいで、様々で、いつだって甘いもの。君には君の目がある、ヘルメス。でも、僕、メレアグロスは、ただの猟師で、猟師の一族の息子で、僕の森の外に出ることもなく、かまどの真ん前で生きていて、生まれた時にはもう、僕の運命は、僕の母親がかすめ取った大きな燃えさしの中に閉じこめられていた。僕が知っていたのは、幾人かの仲間たちと、野獣たちと、僕の母親のことだけだった。

ヘルメス: お前は、男が、どんな男であれ、他のこと*5 をこれまでに知ったことがあると思っているのか?

*5 原文では「altro」。直前のメレアグロスの台詞の中の「幾人かの仲間たちと、野獣たちと、僕の母親のこと」とは「他のこと」を指している。

メレアグロス: 分からない。でも、僕は聞いたんだ、山の、それから川の向こうでの自由な暮らしについて、海を渡ることについて、島がたくさんある海について、怪物や神々との出会い*6 について話しているのを。僕よりも強くて、若くて、奇異な運命によって定められてしまった、男たちについて。

*6 原文では「incontri con mostri e con dei」。この箇所は、第27話「神々」の最後の台詞「Quei loro incontri.」という一文の理解の助けになるだろう。

ヘルメス: 男にはみんな、母親がひとりいたのさ、メレアグロス。それから、やり遂げなきゃならない労役もあった。それに、死がひとつ、みんなを待ちかまえていた、誰かの情熱*7 を原因とする死が。誰ひとり、自分の主人でもなければ、他のこと*8 をこれまでに知ったこともなかったのさ。

*7 「誰か」とは「母親」、さらに言えば「女」のことである。
*8 直前のメレアグロスの台詞の中の「怪獣や神々との出会い」等を指している。


メレアグロス: 母親がひとりか…誰も、僕の母親のことは知らない。誰も、彼女の手の中に自分の人生を知り、自分が焼けているように感じることが何を意味しているのか、かまどの火に据えられたあの目が何を意味しているのかを知らない。なぜ、僕が生まれてきた日に、彼女は炎から大きな燃えさしを奪い取ったのか、灰になるまで放っておかなかったのか? それから、僕は大きくなって、あのメレアグロスになり、泣いて、遊んで、猟に行って、冬を見て、季節を見て、男にならなければならなかった―でも、僕は、他の物事*9 を知り、心の中にあの重苦しさを運んで、彼女の顔の中に、僕の日々の運命を探らなければならかった。ここに苦悩がある。敵*10 は何でもありはしない。

*9 「他の物事」とは、「男になる」こととは「他の物事」、すなわち「母親のこと」、さらに言えば「女のこと」である。
*10 イノシシのこと。


ヘルメス: 奇妙なものさ、お前たち、死すべきものたちは。自分たちが知っていることに、驚いたりするのだから。敵が重きをなさないなんてことは、分かりきったことだ。ひとりひとりに母親がひとりいるのと同じことさ。それで、一体どうして、彼女の手の中に自分の人生を知ることが、受け入れられないことなのさ?

メレアグロス: 僕たち猟師には、ヘルメス、ひとつの協定*11 がある。山に登ったら、僕たちはお互いに助けあうんだ―ひとりひとりが、他の人の生命を掌握しているけれど、仲間を裏切ることはない*12

*11 「男になる」とは、こうした協定を男同士で結ぶことであるが、メレアグロスはこの男同士の協定を、ある女が原因で、破ってしまう。
*12 こうした男のあり方に対し、女が男を裏切る存在であることは、メレアグロスの母親が、掌握していた息子の生命を、不意に奪い去ることからも明らかである。


ヘルメス: ああ、馬鹿な奴だ、人は仲間だけを裏切るというのに…でも、そんなことはどうでもいい。お前たちの人生はいつでも、大きな燃えさしの中にある、それに、母親はお前たちをかまどの火の中から奪い取った、それで、お前たちは半焼けのまま生きているんだ。それから、お前たちにおしまいをもたらす情熱もまた、母親の情熱だ。お前たちがもし、彼女の肉と血でないのだとしたら、他の何だっていうのさ?

メレアグロス: ヘルメス、彼女の目を見る必要がある。その目を子どもの頃から見ておき、見慣れたものと感じ、君の足取りや身振りの全てが、何日も何年も、じっと見つめられるのを感じておき、それから、その目が古くなるのを、死んでいくのを知り、それから、そのことで苦しみ、そのことで心を痛め、その目を傷つけるのを恐れる必要がある。そうすると、そう、大きな燃えさしに目をやりながら、かまどの火をじっと見つめることが、受け入れられなくなる。

ヘルメス: お前はそうしたことまで知っていて、驚くのか、メレアグロス? でも、その目が古くなり、死んでいくということは、そうこうするうちにお前は男になり、その目を傷つけると知りながら、他のところへ、生き生きとした、本物の目を探しに行くことを意味しているんだ。それで、もし、お前がそうした目を見つけたら―いつだって見つかるものさ、メレアグロス―そうした目を持っているものは、またもや、母親だ。それで、お前はそうなると、誰を相手にしなければならないのかがもはや分からなくなり、ほとんど満ち足りてしまうのだが、彼女たち―あの老女と娘たち―が分かっていることは確かなことだ。それで、誰も、生まれつき、かまどの火とともに指し示された運命から、逃れることができるものはいないのさ。

メレアグロス: 誰か他の者が、僕の運命を持っていたの、ヘルメス?

ヘルメス: 全ての男がさ、メレアグロス、全ての男が持っていたのさ。全ての男を、ひとつの死が待ちかまえている、誰かの情熱を原因とする死が。ひとりひとりの肉の中、血の中で、母親がうなり声をあげている。本当のことさ、大多数の男が臆病だというのは、お前よりも*13

*13 メレアグロスは死者であるので、もはや死すべき者たちのように臆病にはならない。

メレアグロス: 僕は臆病ではなかった*14、ヘルメス。

*14 メレアグロスは、直前のヘルメスの台詞が、死者になる以前の自分のことを述べていると勘違いしている。

ヘルメス: 俺はお前に、影に話しかけるように話している、死すべき者に話しかけるようには話していない。男は、分かっていない間は勇敢なのさ*15

*15 男は、自分が母親の(あるいは女の)血と肉であり、死すべき者であり、怪物や神々との出会いを果たすことができない存在であることが分かっていない間は勇敢である。

メレアグロス: 僕は臆病ではない、辺りを見回してみても。僕は今、たくさんのことが分かっている。でも、彼女も―あの娘も―あの目のことが分かっていたとは思えない。

ヘルメス: 彼女はあの目のことが、分かっていなかった。彼女があの目であったのさ。

メレアグロス: ああ、アタランテ*16、君もいずれ母親になるのかな、そして、かまどの火の中を見つめることができるようになるのかな。

*16 メレアグロスの一行とともに、女神アルテミスが野に送った巨大イノシシの退治に参加した少女。メレアグロスが褒美として彼女に与えようとしたイノシシの毛皮が原因で、メレアグロスは自分のおじであり、母親の兄弟であるプレクシッポスを刺し殺すことになる。

ヘルメス: 彼女が口にした言葉を覚えているかどうか、考えてみるんだ、イノシシを虐殺した夕べのことだ。

メレアグロス: あの夕べ。協定を結んだ夕べ。僕はそれを忘れることはない、ヘルメス。アタランテは、僕が野獣を雪の中で逃がしてしまったので、激しい怒りの頂点にいた。彼女はまさかりを僕に投げつけ、僕の肩につかみかかってきた。一撃は、僕をかすめる程度の感触だったが、僕は彼女よりも激しく怒り、怒鳴りつけた、「家へ帰ってくれ。女たちといっしょに家へ帰ってくれ、アタランテ。ここは少女たちの気まぐれな思いつきのための場所ではないんだ」*17。そしてその夕べ、イノシシが死んだ時、アタランテは仲間たちの間を、僕といっしょに歩き、それから雪の積もった野原の上、ひとり探しに戻ったまさかりを、僕に手渡した。僕たちが協定を結んだのはその晩のことで、狩猟に行く時は、ふたりのうちのひとりが順番で武器を持たないようにしよう、そうすれば、他のひとりは、怒りにそそのかされることはないだろうから、という協定*18 だった。

*17 この箇所でのアタランテの気まぐれな行いは明らかに、「山に登ったら、僕たちはお互いに助けあう」という男の協定に反する行いである。
*18 この協定は、「男同士の協定」ではなく、「男と女の協定」である。


ヘルメス: それで、お前にアタランテは何て言ったのさ?

メレアグロス: 僕はそれを忘れてはいない、ヘルメス。「ああ、アルタイアの息子さん」彼女は言った、「イノシシの毛皮は、私たちの新婚の寝床のうえに敷くことになるのでしょう。それはまるであなたの血の代償みたいになるのでしょう―それから、私の血の」。そして、彼女は微笑んだ、そうやって、自分のことを許してもらうために。

ヘルメス: 死すべき者は誰も、メレアグロス、自分の母親を少女とみなすことはできない。でも、お前は、そんなことを口にしている者が、かまどの火を見つめることができるようになると思っているんだな? 老女のアルタイアだって、血の代償として、お前を殺したのさ*19

*19 『レウコとの対話』において、少女の残忍さはしばしば女神アルテミスと結びつけられる。メレアグロスの死を招く騒動の源となった巨大イノシシは、アルテミスが野に送った獣であることを思い起こしておきたい。

メレアグロス: ああ、ヘルメス、そうした全てが僕の運命だ。でも、死すべき者たちだって存在した、自らの日々を掌握する者が誰もいないまま、飽きるほど生きた者たちが…

ヘルメス: お前は誰かそうした者を知っているのか、メレアグロス? その者たちは神々だろうに。ある臆病者は、頭を隠すことはできたけれど、彼にだって母親の血は流れていて、それだから、憎しみや情熱や怒りが、彼の心の中だけで燃えあがってしまった。人生のある晩、彼もまた、自分がまる焼けになるのを感じたんだ。お前たち全てが―なるほど―このようにして死んだわけではなかった。お前たち全ては、分かってくると、死人の人生を過ごすようになるのさ*20。俺の言うことを信じろよ、メレアグロス、お前にはつきがあったんだ*21

*20 ヘルメスの9番目の台詞に含まれる「男は、分かっていない間は勇敢なのさ」という一文と対比して理解したい。
*21 死に脅えて生きる「死人の人生」を過ごすことなく、早死にできたことが幸運だとヘルメスは言っているのである。


メレアグロス: でも、僕の子どもたちを目にすることもなく…僕の寝床を知ることもほとんどなく…

ヘルメス: つきがあったんだ。お前の子どもたちはこれから生まれてこない。お前の寝床には人がいない。お前の仲間たちは、お前がいなかった頃と同じように、狩猟に行く。お前はひとつの影であり、無なんだ。

メレアグロス: それで、アタランテは、アタランテは?

ヘルメス: 家なら空っぽさ、夜になって、お前たちが狩猟から遅れて帰ってきた頃のように。お前をそそのかして、仕返しをさせたアタランテは、死んではいない。ふたりの女は、言葉もないまま、いっしょに暮らしているんだ、お前の母親の兄弟がばたりと倒れ、お前が灰と化した場所、かまどを見つめながら。恐らくふたりは、憎みあうことさえないだろう。お互いのことを、知りすぎているから。男がいなければ、女たちは何でもありはしないのさ*22

*22 「私たちがいなかったら、あなたは何でもありはしないんでしょうね」という対称的な台詞が第12話「慰めようのない男」にある。

メレアグロス: でも、それならばなぜ、彼女たちは僕たちのことを殺したの?

ヘルメス: 彼女たちがなぜ、お前たちを作ったのかを尋ねるんだ、メレアグロス。

(翻訳・持田 睦)
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2010年12月08日

第20話 家族の中で

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第20話(1946年2月21日-24日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


家族の中で
(2011年4月9日更新)

 アトレウスの王家に災いをもたらした痛ましい事件の数々は知れ渡っている。ここでは王位の継承のいくつかを思い出しておけば十分だろう。タンタロスからペロプスが生まれた(訳注・タンタロスは、息子のペロプスを神々の食卓にのぼせたという逸話で知られている)。ペロプスからはテュエステスとアトレウスが生まれた(訳注・アトレウスは、弟テュエステスの三人の子どもたちをテュエステス本人に食べさせたという逸話で知られている。なお、この出来事の遠因は、アトレウスが女神アルテミスを欺いて、黄金の羊を我がものにしたことにあるようだ)。アトレウスからはメネラオスとアガメムノンが生まれた。この最後の者から母親殺しのオレステスが生まれた。アルカディアと海の女神アルテミスが、この家族の中で格別な崇拝を受けていたことは(父親によって試みられたアトレウス家のイピゲネイアの人身御供が思い起こされる〔訳注・アルテミスの怒りによってトロイアへの船隊の出航を妨げられたアガメムノンは、自分の長女イピゲネイアをこの女神に捧げ、許しを請うた〕)、それについて書き記すもの(訳注・筆者であるパヴェーゼ自身のこと)によって確信されているが、それは昨日今日に始まる確信ではない。

(カストールとポリュデウケス〔訳注・白鳥と化したゼウスが人間の女レーダーとのあいだにもうけた双児神ディオスクロイ〕の対話)

カストール: 覚えてるかい、ポリュ、ぼくらがテーセウスの手から彼女(訳注・メネラオスの妃ヘレネーのこと。美青年パリスとともにトロイアへ去り、トロイア戦争のきかっけをつくった美女)を奪ったときのことを?
ポリュデウケス: 骨の折りがいがあったっけね…
カストール: あのころ彼女は女の子だったね、それにぼくは思い出すんだ、夜のなかを走っているときに、ぼくは考えていたなって、彼女がテーセウスの馬の背中のうえで、ぼくらに追いかけられながら、あの森のなかで感じなければならなかった、不安のことを。ぼくらはお人好しだったよね。
ポリュデウケス: 今、彼女は安全なところにいるね。
カストール: 今、彼女はプリュギア人とダルダノス(訳注・トロイア王家の祖)の子孫たちの力をわがものとしているからね。彼女は、ぼくらとのあいだに、海をはさんだんだ。
ポリュデウケス: ぼくらは海だって渡らなくちゃ。
カストール: それなら、ぼくはうんざりだよ、ポリュデウケス。もうぼくらのかかわることなんかじゃないよ。今ではアトレウスの家の問題なんだ。
ポリュデウケス: ぼくらは海を渡らなくちゃ。
カストール: 納得しておくれ、ポリュ。骨折り損のくたびれもうけなんだ。お人好しでいたら駄目だよ。アトレウスの家にまかせておこう−今後のことは、彼らに関係してくることなんだから。
ポリュデウケス: でも、彼女はぼくらの妹だよ。
カストール: ぼくらはわかっておかなければいけなかったんだ、彼女がスパルテー(訳注・メネラオスの領土)にとどまりつづけるなんて、ありえなかったということを。彼女は王宮の奥に隠れて暮らすような女のひとではないんだ。
ポリュデウケス: それで、彼女はほかになにが欲しいんだろうね、カストール?
カストール: 彼女はなにも欲しくない。まさにそれなんだよ。あの頃の、女の子のまま。夫とか家とか、まじめに受けとめる能力がないんだ。でも、彼女を追いかけても無駄だよ。きみはそのうち、彼女がぼくらといっしょに帰ってくるところを目にするだろうね。
ポリュデウケス: アトレウスの家は、血族の名誉を取り戻すために、これから何をしでかすことやら。侮辱を耐え忍ぶような人たちではないもの。やつらの誉(ほま)れは、まるで神さまたちのものみたいなんだ。
カストール: 神々を引き合いにだしてはいけないよ。やつらは過去に、やつらどうし、たがいの肉体を食らいあった家族なんだ。息子をごちそうとして並べたタンタロスにはじまり…
ポリュデウケス: で、ひとびとが物語るそういったお話は、本当なのかな?
カストール: やつらにふさわしいお話だね。ミュケナイ(訳注・アガメムノンの領土)やスパルテーの城塞のなかで暮らし、黄金の仮面をつけている人たち、海の支配者で、その海を、矢狭間の穴だけを通して目にする人たちは、どんなことだってやりかねない人たちなんだ(訳注・ドイツの考古学者シュリーマンが発掘したミュケナイの遺跡を、パーヴェゼは思い浮かべているようだ)。きみはこれまでに思ってみたことはないのかい、ポリュデウケス、どうしてやつらの女たちは−ぼくらの妹もね−しばらくすると残忍になり、狂乱するのだろう、どうして血を流したり、流させたりするのだろうって。最上の女たちというのは、耐え忍んだりなんかしないんだ。ペロプスの胤(たね)のだれひとり−ひとりもだよ−、その死をみとってくれるようなお嫁さんをもったたためしがないもの。もしこれが神々のような誉れなのだとしたら…
ポリュデウケス: ぼくらのもうひとりの妹、クリュタイムネストラ(訳注・アガメムノンの妃)は、やつらのところでがまんしてるよ。
カストール: …万歳を口にするのは、さいごまで待ってからにしようね。
ポリュデウケス: もしきみが、こういったことをぜんぶ知ってたのなら、どうしてこうやって結婚することを許しちゃったの?
カストール: ぼくは許してなんかいないよ。こういったことは引き起こされるんだ。ひとりひとりが、じぶんにふさわしい妻を見つけるんだ。
ポリュデウケス: なんだって? 女たちがやつらにお似合いだって? ぼくらの妹に罪があるんじやないかだって?
カストール: やめておくれ、ポリュデウケス。だれもぼくらの話に耳を傾けてはいないんだから。はっきりしているのは、アトレウスの家とやつらの先祖たちが、いつでも同じ女と結婚していたということだ。おそらく、ヘレネーがなにものであるのか、彼女の兄であるぼくらは、まだよくわかっていないのだろう。それがぼくらに示されるには、テーセウスが必要だったんだ。その次にアトレウスの家の息子(訳注・メネラオスのこと)。今はプリュギアのパリス。ぼくは問う、すべてが偶然だなんて、ありえることだろうか? 彼女はいつでも、似た種類のひととたまたま出会うことになっているのだろうか? はっきりしているのは、彼女がやつらのために造られているということだ、やつらが彼女のために造られているみたいにね。
ポリュデウケス: まったくきみは、狂気じみたことを。
カストール: なにも狂気じみてなんかいないよ。もしペロプスの胤たちが正気を失っていたのなら−なかにはその首まで失ったものもいたけれど−それはやつらの問題なんだ。海の王さまの一族で(訳注・ペロプスは海神ポセイドンに寵愛されたと言われている)、家の外に出ることなく、高いところから命令することを愛するものたち。おそらくむかしは、やつらが世界を目にすることもあったのだろう。初代のタンタロスは、確実にそうだ。でもそのあと、やつらは、女たちや山のような黄金といっしょに閉じこもり、疑い深く、不満をかかえ、適切にふるまうこともできないまま、貧しい地面のうえ、海から栄養をあたえられ、ごちそうにあずかって、ぶくぶく太りながら生きたのだった。やつらが、じぶんたちといっしょに山のうえに閉じ込めるべき、なにか強いもの、ほとんど野生的なものを探し求めていたとしたら、きみはびっくり仰天するかい? そうしたものを、やつらはいつでも見つけだしたんだ。
ポリュデウケス: ぼくには、なにがぼくらの妹に関係のあることなのかわからないし、どうしてきみが、彼女はパリスやテーセウスのために造られていると口にするのかも、わからないんだけど。
カストール: やつらのためにとか、ほかのもののためにとかは、ポリュ、どうでもいい。話しているのは、アトレウスの家の運命についてだ。先代のヒッポダメイア(訳注・ペロプスの妃)にも、あとにつづくお嫁さんたちにも罪はない、この女たちがみんな、馬の群れみたいに、おたがいが似ていたとしてもね。あの家族の時間のなかでは、同じ男がいつでも、同じ被造物をふたたび追い求めていたんだ。そして、かれはそれを見つけだした。オイノマオス(訳注・ピーサの領主)の娘ヒッポダメイアにはじまり、ぼくらの妹たちに至るまで、女たちはみんながみんな、戦い、身を守ることを余儀なくされていた。はっきりしているのは、その点こそがペロプスの胤たちのお気に召しているということだ。やつらがそのことを知ることはないだろうけれど、お気に召している。やつらは謀略と血の人たちだ。ぶくぶく太った暴君たちだ。やつらが必要としているのは、やつらに鞭(むち)を入れてくれるひとりの女なんだ。
ポリュデウケス: きみが口にするのはいつだって、ヒッポダメイア、ヒッポダメイアだ。ぼくだって、ヒッポダメイアが馬たちを興奮させていたことぐらいは知ってるよ。でもぼくらの妹たちには関係ないね。ヘレネーの手は、いままでに一度も鞭を握ったことのない女の子の手だもの。彼女たちに似てるなんてこと、ありえるもんか。
カストール: ぼくらは女たちについて、ポリュデウケス、大したことを知ってはいないんだ。ぼくらは彼女といっしょに大きくなったよね。彼女はいつでも、鞠(まり)で遊んでいた女の子のように、僕らには思われるんだ。でもね、彼女たちが野生的で、熱狂的な気分になるためには、なにも馬たちを興奮させる必要はないんだ。ひとりのメネラオス、ひとりの海の王さまのお気に召せば、それで十分なんだから。
ポリュデウケス: で、どんなにひどいことを、それで、ヒッポダメイアはしたの?
カストール: 男たちを、馬みたいにあつかったんだ。彼女は、じぶんの父親を殺すよう、御者を説得した(訳注・ヒッポダメイアと結婚するには、彼女の父オイノマオスとの戦車競争に勝利しなければならなかった。彼女は恋するペロプスに勝利させるため、オイノマオスの戦車の御者ミュルティロスを説き伏せて、戦車の車輪が途中で外れるよう、細工させたといわれている)。その御者を、ペロプスに殺してもらった。人殺しの兄弟(訳注・アトレウスとテュエステスのこと)を出産した。大流血への道を開いた。家から逃げはしなかった、そんなところだ。
ポリュデウケス: でも、きみは、罪はペロプスのものだって、口にしてなかったっけ?
カストール: ぼくが口にしていたのは、ペロプスやかれの家のものたちのお気に召したのは、似たような女たちだったということだ。彼女たちが造られたのは、やつらのためだったということだ。
ポリュデウケス: ヘレネーは殺したりしないよ、それから、殺させたりしないよ。
カストール: きみはそのことに自信がもてるのかい、兄弟よ? ぼくらが彼女を、テーセウスから取りかえしたときのことを思い出してごらん−森を走り回っていた三頭の馬たちを。ぼくらが殺しあいをしなかったとしたら、その理由は、男の子にとってそうであるように、ぼくらにとって、ほとんど遊んでいるように思われたからだ。それに今、じぶんに問いかけているのは、きみじしんなんだよ、どれだけの血を、アトレウスの家のものたちはこれから流すのだろうって(訳注・ポリュデウケスの7番目の台詞を参照)
ポリュデウケス: でも、彼女はだれひとり、そそのかしてはいないよ…
カストール: きみはヒッポダメイアが御者をそそのかしたと思っているのかい? 彼女はじぶんの下僕にほほえみかけ、かれに言ったのは、彼女の父が、彼女そのものを欲しがっているということ。そして、彼女は、そうしたことが彼女のお気に召していないということすら口にしなかった… 人を殺すには、まなざしひとつあれば十分なんだ。そのあと、ミュルティロスは、じぶんがタンタロスの息子(訳注・ペロプスのこと)に弄(もてあそ)ばれていたことがわかり、わめき散らそうとしたとき、ヒッポダメイアは夫にこう言うだけで十分だった、「あのひとはオイノマオスにかかわることならなんでも知ってるの。わたしたちのためにも、気をつけてちょうだいね」。ペロプスの胤たちは、似たような言葉を楽しく味わっているんだ。
ポリュデウケス: じゃあ、女たちはみんな、殺すの?
カストール: みんなではないよ。なかには、頭(こうべ)をたれる女たちもいて、人生が彼女たちを隷属状態にすることもある。でも、城塞がこうした女たちをも暴発させるんだ。ペロプスの胤たちは殺し、そして、殺される。やつらは、鞭を入れることを、あるいは鞭を入れられることを必要としている。
ポリュデウケス: ぼくらの妹は、逃げることができて満足してるよ。
カストール: きみはそう思っているのかい、兄弟よ? アトレウスの妻である、アエロペー(訳注・アトレウスの弟テュエステースと情を通じたため、海に投げ入れられたと言われている)を思い出してごらん…
ポリュデウケス: でも、アエロペーは、海の中で殺されたよ。
カストール: その前に、宝物を盗むよう、愛人をまさにそそのかしたんだ(訳注・テュエステースは兄が隠し持っていた黄金の羊を、アエロペーの助けで手に入れたと言われている)。城塞が錯乱させたひとりの女とはこれだ。愛人とともに、みずからもぶくぶく太りながら、おだやかに色好みの生活をすごすことができたかもしれなかったひとりの女。でも、彼女の愛人はテュエステースで、夫はアトレウスだった。やつらはみずから、彼女を選んだ。彼女を逃がすことはなかった。彼女まで、やつらは暴発させた。ペロプスの胤たちは、狂暴さを飲みほしたくて、たまらないんだ。
ポリュデウケス: きみは、やつらが、ぼくらの妹を、姦通の女みたいに殺してしまうだろうと言いたいの? 彼女もまた色好みだと言いたいの?
カストール: そうであったらいいのだけど、ポリュデウケス、そうであったなら。でも、強い望みを持つものが、色を好むわけでもないんだ。ひとりのアトレウスの家のものと結婚するものがね。きみにはわからないのかい、兄弟よ、やつらはやつらの色欲を、暴力的な抱擁のなかに、平手打ちのなかに、血のなかに、向けているのだということを。大人しく、臆病なひとりの女など、やつらにはどうでもいい。やつらに必要なのは、冷たい、人殺しのような目、伏せられることのない目との出会いだ。矢狭間の穴みたいな。ヒッポダメイアが持っていたみたいな目だ。
ポリュデウケス: ぼくらの妹は、そういう目つきをしてる…
カストール: やつらに必要なのは、残酷な処女だ。じぶんの山々のなかを通り過ぎていくあの女だ(訳注・女神アルテミスをほのめかしていると思われる)。やつらが結婚する女はどれもこうであるのは、やつらのためだ。やつらは、女の息子たちを食卓にのぼせ、女の娘たちを虐殺してきた…
ポリュデウケス: そうしたことは、過ぎ去ったことだよ。
カストール: そうしたことを、やつらはふたたびするのだろうよ、ポリュデウケス。

(翻訳・持田 睦)
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2010年11月30日

第12話 慰めようのない男

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第12話(1946年3月30日-4月3日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。(ジャン=マリー・ストローブの映画『慰めようのない者』はこの対話を原作にしています。)
(持田 睦)

慰めようのない男(修正中)
(2013年07月20日更新)

 性、酔い、そして血は、いつでも地下の世界を引き寄せ、一人や二人ではきかない人数に、冥界の至福を約束しました。しかし、歌人であり、冥府への旅人であり、ディオニュソスのように引きちぎられ、生け贄と化したトラキアのオルペウスの方が、もっと価値がありました。

(オルペウスとバッコスの信女*1 が対話している。)

*1 酒神ディオニュソスを狂信して生きる女。

オルペウス: こんな具合だったのさ。僕たちは、陰影の森の間の小道を登っていた。コキュトス*2 からも、ステュクス*3 からも、小舟からも、うめき声からも、もはや遠く離れていた。木の葉の上には、空のかすかな光がちらっと見えてきていた。背後から、彼女が木の葉をさらさらさせながら歩く音が、僕には聞こえていた。しかし、僕はまだ下の方にいて、あの冷気に取りつかれていた。いつの日か、僕はそこへ戻っていかなければならない、かつてあったことは、再びあるのだろう、僕はそう考えていた。僕は、彼女との暮らしについて、以前そうであったように考えていた、今回もまた終わってしまうのだろう、と。かつてあったことは、あるのだろう。僕は、僕が通り抜け、そして彼女が自らの骨の中に、随の中に、血の中に運んでいた、あの凍てつくような寒さについて、空しさについて考えていた。再び生き返ることに、それだけの価値があるのだろうか? 僕はそのことを考え、そして昼のかすかな光をちらっと見た。その時、僕は「終わってくれ」と言い、そして振り返った。エウリュディケ*4 は、ろうそくの火が消えるように、姿を消した。僕に聞こえてきたのは、逃げて行くねずみから出るような、キーキーという音だけだった。

*2 冥界の境界を流れる「号泣の川」のこと。
*3 冥界の境界を流れる「憎悪の川」のこと。
*4 オルペウスの妻の名前。オルペウスは蛇にかまれて亡くなった妻を取り戻すために冥府へ降り、冥府の主ハデスを説き伏せることに成功するが、その帰路、「後ろを振り返ってはならない」というハデスとの約束を破ったため、妻は冥府に戻されることになった。


バッコスの信女: 奇妙な言葉ね、オルペウス。そんなこと、私にはほとんど信じられない。ここでは神々や詩女神たちに、あなたは可愛がられていると言われていたのよ。私たちの多くがあなたについて行くのは、あなたが恋をしていて、不幸せであるのを知っているから。あなたの恋心はあまりに大きかったので、あなたは―男たちの間で唯ひとり―無の入り口を通り抜けていけたんだわ。嫌よ、そんなこと、私は信じない。あなたのせいではないわ、たとえ運命が、あなたを裏切ったのだとしても。

オルペウス: 運命なんて、何の関係があるのさ。僕の運命は裏切りはしないよ。滑稽なことさ、あの旅の後、面と向かって無を見た後、僕が誤って、あるいは気まぐれな思いつきで、後ろを振り返っただなんて。

バッコスの信女: ここでは愛のためだと言われているわ。

オルペウス: 誰も死んでいる者を愛しはしないさ。

バッコスの信女: でもあなたは山や丘の至るところで涙を流し―彼女を探し求め、そして名前を呼び―冥府の中へ降りて行ったわ。それは一体どういうことだったの?

オルペウス: 君は、自分が男のような存在であると言っているんだね*5。それならば、知っておかなくてはいけないよ、男には、死をどうすればいいのかが、分からないのさ。僕が涙を流したエウリュディケは、生の季節だった。僕は下の方で、彼女の愛とはまったく別のものを探し求めていた。エウリュディケが知ることのない過去というものを、僕は探し求めていた。そのことが僕に分かったのは、死者たちの中で、自分の歌を歌っている時だった。僕が見たのは、影法師たちが固くなって、そして宙を見つめているところ、うめき声が止むところ、ペルセポネ*6 が自分の顔を手で覆うところ、 闇につつまれ‐無表情な彼自らが、ハデスが、死すべき者であるかのように身を乗り出し、そして耳を傾けているところだった。僕には分かった、死者たちはもはや、何でもありはしないことが。

*5 原文では「Tu dici che sei come un uomo.」。この一文を河島英昭氏は「その言い方だと、おまえはまるで人間だ。」と訳している。なるほど、「uomo」は「男」だけでなく「人間」も意味する言葉であるが、「人間」と訳してしまうと、この箇所の理解は大きな混乱に陥るように思われる。オルペウスが「Tu dici che sei come un uomo.」と口にするのは、直前のバッコスの信女の台詞「それ(=オルペウスが冥府へ降りて行ったこと)は一体どういうことだったの?」に理由がある。冥府という恐ろしい場所への強い関心を示すこの台詞は、あたかも男が口にする台詞のように勇敢なものに聞こえたから、オルペウスは「君は、自分が男のような存在であると言っているんだね。」と返答するのである。ちなみにバッコスの信女たちは、人間であるともニンフであるとも言われるが、この対話の中の台詞から判断する限り、パヴェーゼは人間とみなしているようだ。となると、人間であるバッコスの信女に対して、「その言い方だと、おまえはまるで人間だ。」と口にするのは奇妙である。
*6 ハデスの妃の名前。


バッコスの信女: 悲しみがあなたを歪ませてしまったのね、オルペウス。一体誰が過去を取り戻したくないなんてことがあるかしら? エウリュディケは、ほとんど生き返ろうとしていたのよ。

オルペウス: 後でもう一回死ぬためにね、バッコスの信女さん。自分の血の中に冥府の恐ろしさを運び、そして日夜、僕といっしょに震えるためにね。君は無とは何かを知らないのさ。

バッコスの信女: それで、歌を歌うことによって過去を取り戻したあなたは、その過去を拒み、そして壊してしまったというのね。嫌よ、そんなこと、私には信じられない。

オルペウス: 僕の言うことを分かっておくれ、バッコスの信女さん。本物の過去が存在したのは、ただ歌の中だけだった。ハデスが自分の姿を認めたのは、ただ僕の歌に耳を傾けることによってだけだった。小道を登っている時にはもう、あちらの過去*7 は消えて、思い出になり、死の臭いがしていた。空のかすかな光が初めて僕のところまで届いた時、僕は少年のように身を震わせた、幸せに、そして半信半疑のまま、ただ自分だけのために身を震わせた、生きとし生けるものの世界のために。僕が探し求めていた季節はあそこに、あのかすかな光の中にあった。僕の後についてきている彼女のことなんて、僕にはどうでもよかった。僕の過去は、薄明かりだった、歌と朝だった。そして僕は振り返った。

*7 バッコスの信女が口にしている「過去」のことで、オルペウスが口にしている「本物の過去」とは異なる点に注意。

バッコスの信女: どうしてあなたに諦めることができたというの、オルペウス? 戻ってきた時、あなたのことを見かけた人を、あなたは怖がらせていたのよ。エウリュディケはあなたにとって、ひとつの存在だったんだわ。

オルペウス: 馬鹿なことを。エウリュディケは死んで別のものになってしまったのさ。冥府の中へ降りて行ったあのオルペウスは、もはや夫でもなければ、妻を失った男でもなかった。あの頃の僕の涙は、少年の頃に流される涙、後からそれを思い出すと微笑んでしまう涙のようだった。季節は過ぎ去ってしまったのさ。僕が涙を流しながら探し求めていたのは彼女ではなく、僕そのものだった。ひとつの運命と言いかえてもいい、君が望むならば。僕が耳を傾けていたのは、僕だったのさ。

バッコスの信女: 私たちの多くがあなたにつき従うのは、そのあなたの涙を信じていたからなのよ。あなたはすると、私たちをだましたのね?

オルペウス: ああ、バッコスの信女さん、バッコスの信女さん、君は本当に分かってくれようとしないんだね? 僕の運命は裏切りはしない。僕が探し求めていたのは、僕そのものだったんだ。人が探し求めるのはこれだけさ。

バッコスの信女: ここでは私たちはもっと単純なのよ、オルペウス。ここでは私たちは愛を、それから死を信じているの、そしてみんなといっしょに泣いたり、それから笑ったりするの。その場で血が流れるお祭りが、私たちの一番陽気なお祭りだわ。私たち、トラキアの女たちは、そうしたことに恐れをなしたりしないのよ。

オルペウス: 生の側から見れば、何もかもが麗しい。でも、死者たちの中にいた者の言うことを信じるがいい…それだけの価値はないのさ*8

*8 直前のバッコスの信女の台詞で言われていることを行うのは無価値だとオルペウスは言っている。

バッコスの信女: 昔、あなたはこんなではなかった。無について話したりしなかった。死に近づくことは、私たちを神々と似た者にしてくれる。ほかならぬあなたが教えてくれていたのよ、酔いしれることは生と死をめちゃくちゃにし、私たちを人間以上のものにしてくれる*9 のだと…あなたはそのお祭りを見たのよ。

*9 この箇所は、バッコスの信女がパヴェーゼによって「人間」とみなされていることの最大の根拠になるだろう。ちなみにここで「人間」と訳されているのは「umani」であり、「uomini(uomoの複数形)」ではない。

オルペウス: 大切なのは血ではないのさ、お嬢さん。酔いしれることも血も、僕の脳裏に残りはしない。でも男とは何であるかを言うのは、本当に難しいね。君だって、バッコスの信女さん、それを知らないのさ。

バッコスの信女: 私たちがいなかったら、あなたは何でもありはしないんでしょうね*10、オルペウス。

*10  興味深いことに、第8話「母親」には、次のような台詞がある。「男がいなかったら、女は何でもありはしないのさ。」

オルペウス: そのことを僕は言っていたし、それに知ってもいる。だからといって、それが何だというの? 君たちがいなくても、僕は冥府へ降りて行った…

バッコスの信女: 私たちを探し求めるために降りて行ったんだわ。

オルペウス: でも僕は君たちを見つけ出さなかったよ。僕はまったく別のものを欲していた。それは僕が光のあるところに戻ってくる時に、見つけ出したものだった。

バッコスの信女: 昔、あなたは山の上で、エウリュディケのことを歌っていたのよ…

オルペウス: 時は過ぎ去るのさ、バッコスの信女さん。山は存在する、エウリュディケはもういない。こうした事態はひとつの名前を持っていて、その名前が男だ。お祭りの神々の名前を呼んでも、ここでは役には立たないのさ。

バッコスの信女: あなたも彼らの名前を呼んでいたわ。

オルペウス: 男は何もかもやるのさ、生の中で。何もかも信じるのさ、日々の中で。自分の血が時々他人の血管の中を流れるということさえ信じる。あるいは、存在したものが、ばらばらになりうるということさえも。酔いしれることによって運命は断ち切れると信じる。こういったことを何もかも、僕は知っている、そして、それらは、何でもありはしない。

バッコスの信女: あなたは死をどうしたらいいのか、分からないんだわ、オルペウス、そしてただ死ばかりを、あなたは思い浮かべている。お祭りが私たちを不死なる者にしてくれた、そんな時もあったのよ。

オルペウス: そして君たちは楽しむのさ、お祭りを。まだ知らずにいる者には、何もかもが許されているのだから。だれもが一度、それぞれの地獄の中へ降りて行く必要がある。僕の運命の酒神祭*11 は、冥府の中で終わりを迎えた、僕のやり方で生と死を歌いながら、終わりを迎えた。

*11 飲み歌い踊るディオニュソスの祭りのこと。

バッコスの信女: それで、運命は裏切りはしなかったというのは、どういう意味なの?

オルペウス: 君の中に、君のものがあるという意味さ。血よりも深いところにあり、ありとあらゆる酔いの彼方にあるもの。いかなる神さまも、それに触れることはできないのさ。

バッコスの信女: たぶんそうね、オルペウス。でも、私たちは、いかなるエウリュディケも探し求めてなんかいないのよ。だったら、私たちまでもが地獄へ降りて行くというのはどういうことなの?

オルペウス: 毎回、神さまの名前を呼ぶたびに、人は死を知る。そして冥府の中へ降りて行く、何かをむしり取るために、運命を冒涜するために。人は夜に打ち勝てず、そして光を失う。その場所で人は、取りつかれた者たちのように、じたばたするのさ。

バッコスの信女: あなたはひどいことを言うのね…それでは、あなたも光を失ってしまったのね?

オルペウス: 僕はほとんど失いかけて、そして歌った。理解することにより、僕は僕そのものを見つけ出したのさ。

バッコスの信女: そういったやり方で自分を見つけ出すことに、それだけの価値があるのかしら? 無知と喜びという、もっと単純な道があるのよ。神さまは、生と死の間にいるご主人さまのような存在だわ。私たちは酔いに身を任せ、八つ裂きにしたり、あるいは八つ裂きにされたりするの。私たちはその度に生き返り、そしてあなたのようにお日さまの光の中で、目を覚ますんだわ。

オルペウス: 日の光について、目を覚ますことについて、話さないでおくれ。ほとんどの男が知らずにいる。君のような女は誰ひとり、それがどんなものかを知らない。

バッコスの信女: 恐らくそういうわけで、彼女たちはあなたについて行くんだわ、トラキアの女たちは。あなたは彼女たちにとって、神さまのような存在であるのよ。あなたは山から降りてきたんだもの。あなたは愛と死の詩句を歌っているんだもの。

オルペウス: お馬鹿さん。そんな君であっても、人は少なくとも話をすることができる。恐らくはいつの日か、君は存在するのだろう、男のように*12

*12 河島英昭氏はこの箇所を「いつの日か、おまえも人間のようになるだろう。」と訳している。人間であるバッコスの信女が「人間のようになる」とはどういうことだろう?

バッコスの信女: もしトラキアの女たちがその前に…

オルペウス: 何さ。

バッコスの信女: もし彼女たちが、神さまを引き裂いたりしなければね。

(翻訳・持田 睦)
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2010年09月08日

第5話 花

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第5話(1946年2月28日-3月2日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


(2010年11月30日更新)

この甘美かつ残忍な出来事は、光り輝くアポロンのような春の神に関して、我々の胸を悪くするまでには至らないが、レオパルディのエロスとタナトス(訳注・レオパルディの詩集『カンティ』には「愛と死」という表題の詩がある)がこの出来事を目撃していたことは、明々白々である。

(エロスとタナトスの対話)

エロス: きみはこのことを予期していたの、タナトス?
タナトス: ぼくはすべてを予期しているよ、ひとりのオリュンポスの神のもとでね。でも、こんな風に終わるとは、思ってもみなかった。
エロス: 幸運にも、死すべきものたちは、それを災難と呼ぶんだろうね。
タナトス: はじめてのことではないし、それにこれっきりのことでもないだろうしね。
エロス: それにどうあれ、ヒュアキントスは死んでしまったんだ。姉妹たちはもう、かれの死を悼んで涙している。彼の血しぶきを受けた、とるにたらない花は、今ではエウロタスの河岸のいたるところに点在している。春なんだもの、タナトス、そして少年はそれを目にすることはないんだろうね。
タナトス: 不死なるものが通り過ぎたところにはいつだって、こういった花々が姿を見せるのさ。でも、以前ならば少なくとも、逃亡とか弁解とか侮辱とかがあったのにね。神のことを嫌がったり、あるいは敬わなかったりすることがあったのにね。ダフネー(訳注・アポロンの求愛から逃がれ月桂樹に変身したニンフ)やエリノス(訳注・アポロンと関係する人物でエリノスという名のものは存在しない。よって詩人リノスの誤記と思われる。ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』の「序章」によれば、リノスはアポロンによって惨殺される)やアクタイオン(訳注・アポロンの姉妹アルテミスによって鹿に変身させられ猟犬に惨殺された狩人)にはそういったことが起こったんだ。ヒュアキントスは、それに反して、ひとりの少年にすぎなかった。かれはじぶんのご主人さまを崇拝しながら、日々暮らしていた。まるで子どもが遊んでいるみたいに、かれといっしょに遊んでいた。打ちのめされて、狼狽した。きみは、エロス、それを知ってるよね。
エロス: 死すべきものたちはもう、それは災難だったんだって口にしているよ。だれひとり思ってもみないんだね、光を放つお方(訳注・アポロンのこと)が投げ損じをするなんて、いつものかれらしくないってことを。
タナトス: ぼくが目撃したのは、円盤が飛んで行くのを目で追っているときに、それからそれが下に落ちてくるときに、かれが浮かべていた引きつったほほ笑みだけさ。かれは円盤を太陽に向かって高く投げあげ、そしてヒュアキントスは、目と手を上にあげて、目をくらませながら待っていた。それはかれの顔の上に、急に落ちてきた。どうしてこんなことに、エロス? きみならきっと知っているはずさ。
エロス: きみになにを話したらいいんだい、タナトス? ぼくは気まぐれな思いつき(原語・capriccio)なんかに心を動かされたりはしないよ。それに、きみだって知ってるじゃない―神が死すべきものに近づくと、いつだって酷(むご)いことがその後につづくんだって。ダフネーとアクタイオンのことを話していたのはきみだったでしょ。
タナトス: 今回はいったいなにがあったの?
エロス: それならきみに言ったじゃない、気まぐれな思いつきなんだって。光を放つお方は遊びたくなったの。人間たちのところへ降りていき、ヒュアキントスを見つけたの。六日間にわたってアミュクライで暮らし、その六日間がヒュアキントスのこころを変え、大地を新しくしたの。それからご主人さまは立ち去りたい欲求にかられ、ヒュアキントスはかれを戸惑いながら見つめたの。そうしたら円盤が、かれの目と目のあいだに急に落ちてきたの…
タナトス: はてさて…光を放つお方は、かれに泣いてほしくなかったんだよ。
エロス: ちがうよ。泣くとはどういうことか、光を放つお方は知らないんだもの。それを知っているのは、オリュンポスの山がまだ、単なるはげ山にすぎなかったころからすでに生きていた、ぼくたち幼い神々やダイモンなんだ。ぼくたちはいろいろなことを目にしてきた、木々や石ころたちが泣くのも目にしてきた。ご主人さまはちがっているんだ。かれにとっては、六日間も存在もなんでもありはしない。こういったことすべてを、だれも知ってはいなかったんだ、ヒュアキントスのようにはね。
タナトス: きみはほんとうにヒュアキントスがこうしたことをわかっていたと思うのかい? かれにとってご主人さまは、お手本とも、年上の友だちとも、信用が置け、そして尊敬に値するお兄ちゃんとも異なるものだったということを? ぼくがかれを目にしたのは、円盤投げの競技の際、両手を差し出しているときだけだった―かれの顔には信頼と驚愕のほかはなかった。ヒュアキントスは、光を放つお方がだれなのか、知らなかったのさ。
エロス: なにがあったっておかしくないんだよ、タナトス。少年がエリノスやダフネーのことを知らなかったとしてもおかしくはないんだ。どこで狼狽がおさまり、信頼が生まれるのかを口にするのは難しい。でもかれが、あこがれに満ちた情熱の六日間を過ごしたのは確かなことだね。
タナトス: きみによれば、かれのこころのなかでは、なにが起こったというんだい?
エロス: どんな若者にも起こることだよ。でも今回は、思考と行為の対象が少年にとっては度が過ぎていたんだ。競技場のなかで、部屋べやのなかで、エウロタスの河の水に沿ったところで、かれは客人(訳注・アポロンのこと)と話をし、仲良くし、ことばに耳を傾けていた。かれはデロス島とデルポイ(訳注・いずれもアポロンの聖地)に関する話や、怪物テュポン(訳注・この怪物はアポロンとのかかわりは薄い。アポロンによって退治された大蛇ピュトンの誤記と思われる)やテッサリア(訳注・アポロンが寵愛したコロニスの住む土地)やヒュペルボレオイ(訳注・アポロンを崇拝している北方地帯に住む民のこと)の土地の話に耳を傾けていた。神は、落ち着き払ったほほ笑みを浮かべ、話をしていた、死んだものだと思っていたら、経験を積み重ねて帰ってきた、旅人であるかのように。確かなのは、ご主人さまがかれのオリュンポスの山について、不死なる仲間たちについて、神的なことがらについては、決して口にしなかったということ。かれは自分について、妹(訳注・アルテミスのこと)について、カリスたち(訳注・美の女神たちのこと)について話をした、あたかも慣れ親しんだ暮らしについて―びっくりするくらい素晴らしく、そして慣れ親しんだ(原語・meravigliosa e familiare)暮らしについて、ひとが話をするかのように。かれらはときどき、夜泊まっていった吟遊詩人のことばにいっしょに耳を傾けたりした。
タナトス: こういったすべてのことに、まずいところはなにもないけど。
エロス: まずいところはなにもないよ、むしろ励ましの言葉だね。ヒュアキントスは学んだんだもの、デロス島のご主人さまが、あのたとえようのない瞳とあのおだやかな言葉で、この世に存在する多くのことがらを目に入れ、相手にしてきたということを。いつの日か、かれ(訳注・ヒュアキントスのこと)の身にもふりかかることがありえる、多くのことがらを。客人は、かれ(訳注・ヒュアキントスのこと)について、かれの定めについてもまた、語っていた。アミュクライのありふれた暮らしは、かれ(訳注・アポロンのこと)にとって、わかりやすく、そして慣れ親しんだ(原語・chiara e familiare)ものだった。かれ(訳注・アポロンのこと)はもくろんでいた。かれはヒュアキントスと、あたかも対等で同年齢であるかのように交際し、アグライアー(訳注・美の女神カリスたちのひとり、輝きの意)、エウリュノメー(訳注・カリスたちの母)、アウクソー(訳注・美の女神カリスたちのひとり、成長の意)―不可思議な親密さのなかで客人とともに暮らした、はるかかなたにいる、そしてほほ笑んでいる女たち、若い女たち―の名前が、落ち着き払って無関心に、無感動な趣で口にされ、その様がヒュアキントスのこころをふるわせていた。少年の状態はこんなだったんだよ。ご主人さまをまえにすると、すべてのことが、たやすく、わかりやすく(原語・chiara)なった。ヒュアキントスには、すべてのことが可能であるように思えてきたんだ。
タナトス: ぼくはほかの死すべきものたちを見知っていたよ。それも、ヒュアキントスより経験を積み重ねていて、賢くて、強かったものたちだ。かれらみんなを打ち滅ぼしたのが、すべてのことが可能であるというこの熱望だったのさ。
エロス: あのねぇ、きみ、ヒュアキントスには希望しかなかったんだよ、客人のようになりたいという、ふるえるような希望だけ。それに光を放つお方も、あの瞳のなかに読みとっていた熱狂を受けとめはせず―かれにはそれを引き起こすだけで十分だったんだもの―、そのときにはすでに、かれは瞳のなかに、巻き毛のなかに、まだら模様の美しい花のすがたを認めていて、それがヒュアキントスのさだめだった。かれは言葉や涙のことを考えていたわけではなかった。かれがやってきたのは、一輪の花を目にするためだったんだ。この花は、かれにふさわしいもの―びっくりするくらい素晴らしく、そして慣れ親しんだ(原語・meravigliosa e familiare)ものでなければなかった、あたかもカリスたちの思い出であるかのように。そしてかれは、しずかな無感動とともに、この花を作り出したんだ。
タナトス: ぼくらはそんなにも残虐なのさ、ぼくら不死なるものたちは。いったいどこまで、オリュンポスの神々は運命をさだめていくつもりなのやら。あまりの行きすぎは、かれらまで打ち滅ぼしてしまうかもしれないのに。
エロス: そのことはだれもなにも言えないよ。混沌の時代からずっと、目に入るものといえば血だった。人間の、怪獣の、そして神々の血。みんな血のなかで始まり、血のなかで死んでいくんだ。きみはどのようにして生まれてきたと思ってるの?
タナトス: 生まれてくるためには、死んでいく必要がある、そんなことは人間だって知っている。オリュンポスの神々はそれを知らない。忘れてしまったのさ。移りゆく世界のなか、かれらはとどまりつづけている。存在はしていない、かれらはいるだけ。かれらの気まぐれな思いつきはどれも、免れようのないおきてとなる。一輪の花を表現するために、かれらはひとりの人間を打ち滅ぼすのさ。
エロス: そうだね、タナトス。でもぼくらは、ヒュアキントスがめぐりあった数々の豊かな想いも含めて、考えてみないかい? かれの死であったあのあこがれに満ちた希望は、かれの誕生でもあったんだ。かれは無自覚で、幼年期からまだ少し抜け出せないまま、まわりがはっきり見えずにいる若者、ぱっとしない土地のぱっとしない王さまであるアミュクラスの息子だったーデロス島の客人がいなかったら、かれはいったいどうなっていただろう?
タナトス: 人間たちのなかのひとりの人間のままさ、エロス。
エロス: そうだね。それに、ひとはさだめから逃れられないということも、ぼくは知っている。でも、気まぐれな思いつきに心を動かされるなんて、いつものぼくらしくないね。ヒュアキントスは、ひとつの光の陰のなか、六日間暮らしたんだ。かれの完全な喜びには、あっという間の苦々しいおしまいが欠けることはなかった。オリュンポスの神々や不死なるものたちにはわからない喜び。きみはほかに、なにを望むんだい、タナトス、かれに?
タナトス: 光を放つお方が、ぼくらのように、かれの死を悼んで涙することを。
エロス: きみはあまりにも多くを求めすぎているよ、タナトス。

(翻訳・持田 睦)
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2010年06月22日

第17話 湖

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第17話(1946年6月28日-30日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


(2010年9月8日更新)

 トロイゼンの童貞狩人ヒッポリュトスは、アフロディテの腹いせゆえに、ひどい死に方をした。しかるにディアナ(訳注・アルテミスのローマ名)は、彼をよみがえらせると、イタリア(夕べの国)のアルバーニ丘陵まで盗み出し、ウィルビウスと名づけて、おのれの信仰のために彼を用いたのであった。ウィルビウスには、ニンフのアリキアとのあいだの子どもたちがいた。
 古代の人々にとって、西欧は−オデュッセイアを思い浮かべていただきたい−死者たちの国であった。


(ウィルビウスとディアナの対話)

ウィルビウス: ここに来るのは、ぼくには喜ばしいことだったんですよ。この湖は、ぼくにとっては古代の海のようでした。そして、ぼくは嬉しかったんです、あなたの生を生きることが、みんなにとっては死んでいることが、森のなかや山のうえで、あなたに仕えることが。ここでは野獣たちは、山々の頂きは、農夫たちは、何も知らないのです、分からないのです、あなたのことを除いては。それは過ぎ行くものの存在しない国なのです、死者たちの国なのです。
ディアナ: ヒッポリュトス…
ウィルビウス: ヒッポリュトスは死にました、あなたはぼくにウィルビウスという名前をつけたんです。
ディアナ: ヒッポリュトス、死んでいるときでさえ、おまえたち死すべきものは、生を忘れずにいるの?
ウィルビウス: 聞いてください。ぼくはみんなにとっては死んでいて、そしてあなたに仕えているのです。あなたがぼくをハデスから奪い去り、そしてふたたび日の目を見させてくれたとき、ぼくが望んだのは、動くこと、息をすること、そしてあなたを敬うことでした。あなたがぼくを配置したのは、大地と天空が光り輝くところ、すべてがよい香りで、そして力にあふれ、すべてが新しいところ。ここでは夜までもが若々しく、そして深いのです、ふるさとの夜よりも。ここでは時間は過ぎて行きません。思い出は作られません。そしてあなたひとりが、ここを治めているのです。
ディアナ: おまえはどっぷり思い出につかっているのね、ヒッポリュトス。さて、わたしは少しのあいだ、ここが死者たちの土地だってことを、認めてあげることにしましょう。ハデスで人は、ほかに何をすることがあるでしょう、過去を思い返すことがないのだとしたら?
ウィルビウス: ヒッポリュトスは死にました、ぼくはあなたに言っています。それに、天空に似たこの湖は、ヒッポリュトスのことは何ひとつ知らないのです。ぼくがここにいなかったとしても、この土地の様子は変わらないでしょうね。雲のかなたから見える、空想された国のようなものです。昔−ぼくがまだ少年だったころ−ふるさとの山の裏、遠く離れた、お日さまが沈んでいくところまで行けば−歩いて行けばよかったのです、ただひたすら歩いて行けば−朝、狩りをしながら、永遠に遊んでいられる子どもの国にたどり着けるだろうと思っていました。ひとりの奴隷はぼくに言いました。「あなたが望んでいるものには用心なさいよ、坊や。神々はいつでも、それを聞き届けてくれるのですから。」それがこれだったんですね。ぼくが死を望んでいたなんて、知りもしませんでした。
ディアナ: それもまた思い出だわ。おまえは何を嘆いているの?
ウィルビウス: ああ、野生の女よ、それが分からないのです。ぼくがここで目を見開いたのは、昨日のことのように思えます。ぼくは多くの時が過ぎ去ったことを知っています、そして、この山々が、この水が、この大きな木々が動かないで、そして黙ったままであることを知っています。ウィルビウスとはだれのことなんですか? 毎朝、ふたたび目を覚まし、まるで時が過ぎ去らなかったかのように遊びに戻っていく少年とは別のものなのですか?
ディアナ: おまえはヒッポリュトス、わたしの後を追っていたために、死んでしまった少年よ。そして今、おまえは時を超越して生きているんだわ。おまえには思い出なんかいらない。わたしとともに、その日その日を生きるんだもの、ノウサギのように、シカのように、 オオカミのように。それで、いつだって逃げ回るんだもの、追い回すんだもの。ここは死者の国なんかじゃないの、そうじゃなくって、永遠につづく朝の、生き生きとした薄明かりなのよ。おまえには思い出なんかいらない、だって、こういった生を、おまえはいつだって知っていたんだから。
ウィルビウス: それにしても本当に、ここの場所はふるさとよりも生き生きとしています。すべてのもののなかには、そしてお日さまのなかには、内側から生じるかのような輝かしい光が、日々によってまだ侵食されていないと言えるような活力があるのです。あなたたち神々にとって、ヘスペリアのこの土地はどういったものなのでしょう?
ディアナ: お空の下にあるほかの土地と何も変わらないわ。わたしたちは過去や未来を頼りにして生きてるんではないんだもの。毎日がわたしたちにとっては、初日みたいなものなの。大きな静寂のようにおまえに思われているものは、わたしたちのお空なんだわ。
ウィルビウス: それでも、ぼくの暮らしていた地域のほうが、あなたにとっては好ましいのです。ぼくはディンデュモンの山のうえで狩りをし、トロイゼンの海岸を駆けまわりました、ぼくのように貧しく、そして野性的な国々を。ところが、この人間味のない静寂のなかでは、生のかなたにあるこの生のなかでは、一度たりともぼくは、息をつくことがありませんでした。いったい何なのでしょう、生を孤独に変えてしまうものとは?
ディアナ: おまえは少年なのね、あるがままの。人間が一度もいなかった国は、いつでも死者たちの土地になってしまうのね。おまえの海から、そして島から、ほかの人たちが何人かやってきて、そして彼らは信じてしまうのね、ハデスを越えたのだと。そして、もっと遠くには、ほかの土地があって…
ウィルビウス: ほかの湖や、ほかの朝です、ここにあるような。水は、緑の色のなかにあるスモモよりも青いです。ぼくはまるで、じぶんが木陰のなかの人影であるかのように思われます。ぼくがこのお日さまでじぶんを温かくすればするほど、この土地でじぶんを養えば養うほど、ぼくは水滴とざわめきのなかに、湖の声のなかに、森のうなり声のなかにじぶんが溶けていくように思われるのです。木の幹の後ろには、石ころのなかには、ぼく自身の汗のなかには、何か遠く離れたものが存在するのです。
ディアナ: そういったことは、おまえが少年だったころの心の揺れなんだわ。
ウィルビウス: ぼくはもう少年ではありません。ぼくはあなたを知り、ハデスからやってきました。ぼくの土地は遠く離れたところにあります、あの上方に浮かぶ雲たちのように。ここでは、ほら、ぼくはまるで雲であるかのように、木々や事物のあいだを通り過ぎるのです。
ディアナ: おまえは幸せなのよ、ヒッポリュトス。もし幸せな状態が人にもたらされるのだとしたら、おまえはその状態なんだわ。
ウィルビウス: 幸せなのは少年、かつて存在したぼくです、死んでしまった少年です。あなたはかれを救い出し、そしてぼくはあなたに感謝しています。でも、ふたたび生まれてきた男、あなたに仕える男、(訳注・ハデスから)逃げ出した男は、樫の木やあなたの森の番をしていて、幸せではないのです、なぜならかれは、じぶんが存在しているのかどうかを、決して知ることがないのですから。だれがかれに返事をしてくれるのですか? だれがかれに話しかけてくれるのですか? 今日という日は何を、かれの昨日に加えてくれるのですか?
ディアナ: さてと、ウィルビウス、それで話はおしまいかしら? おまえは仲間がほしいの?
ウィルビウス: ぼくがほしがっているものなら、あなたは知っています。
ディアナ: 死すべきものたちは、結局はいつだって、それを求めてくるのね。いったいおまえたちの血のなかには何が入っているのかしら?
ウィルビウス: あなたはぼくに、血とは何か尋ねているんですか?
ディアナ: 流れ落ちる血のなかには、神のおもむきがあるわ。わたしは何度、おまえが子ジカやオオカミをひっくりかえし、のどを切り裂き、そしてそれに手を浸しているのを目にしたことか。おまえたちがわたしの気に入っているのは、そういった理由からなのよ。でも、もうひとつの血のほうは、おまえたちの血のほうは、おまえたちの血管をふくらませ、そして目を燃えあがらせるあの血のほうは、それほどよくは分からないわ。わたしが知っているのは、おまえたちにとってそれが生であり、そして運命であるってことぐらいね。
ウィルビウス: すでに一度、ぼくはそれをまき散らしました。そして今日なお、それが、落ち着きなく、途方にくれていると感じることは、ぼくに生きているという証を与えてくれるのです。草木の活力も湖の光もぼくには十分ではありません。こういったものは、雲のようなものです、朝晩、永遠にさまようものです、水平線の番人です、ハデスの似姿です。ただもうひとつの血だけが、ぼくの血を落ちつかせることができるのです。その結果、それは落ち着きなく流れ、そのあと、満ち足りて流れるのです。
ディアナ: おまえの言葉を真に受けるなら、おまえはのどをかっ切りたくて仕方ないのね。
ウィルビウス: あなたは間違ってはいません、野生の女よ。前にぼくがヒッポリュトスだったころ、ぼくは野獣ののどを切っていました。ぼくにはそれで十分だったのです。今ここでは、この死者たちの土地では、野獣たちでさえ、ぼくの手から雲のように消えていきます。いけないのはぼくなんだ、そう思います。でもぼくは、熱い、そして兄弟の血を握りしめずにはいられないのです。声と運命を手にせずにはいられないのです。ああ、野生の女よ、それをぼくに認めてください。
ディアナ: よく考えるんだわ、ウィルビウス-ヒッポリュトス。おまえは幸せだったのよ。
ウィルビウス: それはどうでもいいのです、女主人よ。何度も何度も、ぼくは湖にじぶんの姿を映しました。ぼくが求めているのは生きることです、幸せになることではありません。

(翻訳・持田 睦)
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2010年05月10日

第19話 雄牛

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第19話(1946年8月11日-18日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


雄牛
(2010年6月22日更新)

クレーテー島からの帰還の際、テーセウスが、服喪のしるしである黒い帆を、帆柱から外し忘れたふりをしたため、彼の父は彼が死んだと思い込み、海のなかに身を投げて、王位を彼に残していったことは、誰もが知っている。このことはとてもギリシアらしいこと、怪獣に対する神秘的崇拝のどれひとつにも嫌悪を覚えるのがギリシアらしさであるのと同程度に、ギリシアらしいことである。

(レレゲス人とテーセウスの対話)

レレゲス人: あの丘が祖国だ、旦那。
テーセウス: 海のかなたにある陸地はどれも、たそがれどきの光のなかで目をこらしたら、昔なつかしい丘のように見えるものさ。
レレゲス人: お日さんがイーデーのお山のうしろに沈んでいくのを拝みながら、むかしおれたちも乾杯をしたっけな。
テーセウス: 戻るもうるわし、進むもうるわしさ、レレゲス人よ。もっと飲もう。過去を祝って飲もう。取り残され、そして取り戻されたものは、なにもかもがうるわしい。
レレゲス人: おれたちが島のなかにいるあいだ、あんたは祖国の話をしなかった。あんたは取り残してきたものの多くを思い出さなかった。あんたもまた、その日その日を生きていたんだ。そしておれはあんたが、家を後にしたのと同じように、うしろを振りかえることなく、あの土地を後にするのを目にした。今晩、あんたは過去を思い出してるのかい?
テーセウス: おれたちは生きているのだ、レレゲス人よ、そしてこの酒をまえにしている、故郷(ふるさと)の海のうえでね。こういった晩は、多くのことを思い出すものさ、たとえ明日には、酒も海も、おれたちに安らぎを与えてくれるには、十分なものでなくなるにしても。
レレゲス人: なにを恐れているんだい? まるであんたは、戻ってきたとは思ってないみたいだな。どうして真っ暗な帆を降ろし、船を真っ白に飾るよう命令しないんだい? あんたは親父に、そうするって約束したんだぜ。
テーセウス: おれたちには時間があるのさ、レレゲス人よ。明日、時間がある。おれはじぶんの頭の上で、帆布が乾いた音をたてるのを耳にするのが好きなんだ、おれたちが危難に向かって進んでいき、おまえたちの仲間のだれひとり、おれたちが戻ってこれるかどうか知らずにいたときと同じ帆布が、乾いた音をたてるのが。
レレゲス人: あんたは戻ってこれると知ってたのかい、テーセウス?
テーセウス: おおよそのところは…おれのまさかりに打ち損じはないのだ。
レレゲス人: どうしてためらいながら話すんだい?
テーセウス: ためらいながら話してなんかいないさ。おれはじぶんには未知であった人々のことや、大きな山のことや、島のなかでのおれたちの有り様を思い出しているのだ。無数の空間で埋めつくされたあの建物、王宮(訳注・牛人ミノタウロスが閉じ込められた迷宮のこと)のなかでの最後の日々を思い出しているのだ、そして兵隊たちは、おれのことを牛王と呼んでいたのさ、覚えているかい? じぶんが殺したものに、変身するのだ、島のなかでは。おれはやつらのことが分かりはじめた。それからやつらはおれたちに言った、イーデーの山の森のなかには神々の洞窟があり、そこで神々は生まれ、そして死んだのだと。分かるかい、レレゲス人よ? あの島のなかでは、神々は殺されてしまうのだ、獣のように。そして、あのものたち(訳注・神々のこと)を殺すものは、神になるのだ。そこでおれたちは、イーデーの山のうえに登ってみることにした…
レレゲス人: 勇ましくなるもんさ、故郷(くに)から遠くはなれると。
テーセウス: そしてやつらはおれたちに信じられないことを言った。やつらの女たち、朝は王宮の露台のうえで身を伸ばし、太陽を浴びて過ごしていた金髪の大柄な女たちは、夜になるとイーデーの山の草むらのうえに登り、木々や獣たちを抱きしめるのだ。彼女たちはそこに居残りもしたのだ、ときどきは。
レレゲス人: あの島のなかで勇ましいのは、女たちだけなんだ。そのことならあんたがよくご存じだろうが、テーセウス。
テーセウス: おれにわかっていることが、ひとつある。おれが好むのは、機織り機のまえに座る女たちなのさ。
レレゲス人: でもあの島のなかには、機織り機をもってるやつはいないだろ。なにもかも、海のうえで買うんだから。あんたは女たちに、どうしてほしいんだい?
テーセウス: 太陽を浴びて身を成熟させながら、神々に思いをめぐらせたりしないでほしいね。木の幹のなかや海のなかに、神性を求めたりしないでほしいね。雄牛たちを追いかけまわしたりしないでほしいね。最初はおれも、落ち度は親父たちにある、女たちのような身なりをして、若い男たちが雄牛のうえで曲芸するのを見るのを好む、あの機知に富んだ商人たちに落ち度があると思っていたのさ。でも、そうではない、それがすべてではない。落ち度はもうひとつの血にあるのだ。昔、イーデーの山が、ただ女神たちだけを見知る時代があった。ひとりの女神だけを見知る時代があった。彼女は太陽だった、彼女は木々の幹だった、彼女は海だった。そして女神をまえにすると、神々と人間たちは押しつぶされてしまうのだ。女が男から逃れ、そして太陽のなかに、獣のなかにもどるとしても、男に落ち度はない。落ち度は腐敗した血にあるのだ、混沌にあるのだ。
レレゲス人: それを口にできるのはあんただけだ。あんたはあの異国の女(訳注・アリアドネーのこと)のことを話してるのかい?
テーセウス: 彼女のことも、話しているのさ。
レレゲス人: あんたは主人(あるじ)だ、それであんたのすることはいつでも正しいとおれたちは思っている。でもおれたちからすれば、彼女は落ちついてて、扱いやすそうな女だったけどな。
テーセウス: 扱いやすすぎたのさ、レレゲス人よ。草のように、あるいは海のように扱いやすかった。おまえだって彼女を見たら分かるさ、彼女は言いなりになりながら、おまえのことを感じてすらいないことが。まるでイーデーの山の草むらのようなのだ、手をまさかりのうえにのせ、なかへと進んでいくものの、静寂がおまえの呼吸を苦しくし、足をとめずにはいられない瞬間がやってくる。それは身をひそめる獣の呼吸にも似て苦しい呼吸だった。太陽もまた待ち伏せをしているようだった、空気までもが。闘ったりなどしないのさ、偉大なる女神とは。大地と、その静寂と、闘ったりなどしないのさ。
レレゲス人: そういうことはおれにもわかってる、あんたと同じようにな。でもあの異国の女はあんたを四角い穴から外に出してくれたんだぜ。あの異国の女は家々を捨てたんだぜ。こういったことは、生き生きした血と腐った血の境目にいたら、やれないものだ。あの異国の女は、おまえについて行きながら、じぶんの神々を捨てたんだ。
テーセウス: でも神々のほうは、彼女を捨てていないのさ。
レレゲス人: だけどあんたは、やつらがイーデーの山のうえであのものたち(訳注・神々のこと)を虐殺してるって言ったぜ。
テーセウス: そして虐殺者とは新しい神のことなんだ。ああ、レレゲス人よ、洞窟のなかで神々や雄牛たちを虐殺することはできるが、おまえの血のなかにあるあの神性は殺されることはない。アリアドネーもあの島の血だったのさ。おれは雄牛のことを分かっているように、彼女のことを分かっていた。
レレゲス人: あんたは残酷だったよ、テーセウス。何て彼女は言ったんだろうな、みじめな女は、目を覚ましたときに?
テーセウス: ああ、おれには分かるさ。彼女はおそらく悲鳴をあげただろう。でもそんなことは重要ではない。祖国を、じぶんの家々を、そしてじぶんの神々を呼んで祈っただろう。彼女は大地と太陽に不足はしていない。おれたち異国の男など、彼女にとってはもはや何ものでもないのだ。
レレゲス人: 彼女はべっぴんだったな、旦那、大地と太陽でできてたんだな。
テーセウス: それにひきかえおれたちは、人間以外の何ものでもない。彼女を慰めるために、きっとひとりの神が、とある甘美で、両義的で、悲哀に満ちた神が、すでに死を味わっていて、偉大なる女神の胎内に宿るあの神々(訳注・オリュンポスの神々のこと)の一員(訳注・ディオニュソスのこと)が、彼女のもとに遣わされることだろう。かれは木の幹なのだろうか、馬なのだろうか、雄羊なのだろうか? 彼は湖なのだろうか、それとも雲なのだろうか? ありとあらゆることが起こりえるのさ、彼女の海のうえでは。
レレゲス人: おれには分からんのだが、ときおりあんたは、遊んでいる子どものように話をすることがある。あんたは主人(あるじ)であり、おれたちはあんたの言うことをきくんだ。また別のおりには、あんたは年老いていて、残酷なこともある。まるであの島があんたに、島の何かをゆだねたかのようだ。
テーセウス: そうしたことも起こりえるのさ。じぶんが殺したものに、変身するのだ、レレゲス人よ。おまえは思ってみてもいないが、おれたちは遠くからやってきたのだ。
レレゲス人: 祖国の酒もあんたを燃えあがらせてはくれないのかい?
テーセウス: おれたちはまだ、祖国に着いてはいないさ。

(翻訳・持田 睦)
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2010年02月19日

第18話 魔女

 以下に掲載するパヴェーゼの『レウコとの対話』第18話(1945年12月13日-15日筆)は、ストローブの映画『魔女』として映像化されています。
(持田 睦)


魔女

(2015年11月14日更新)

 オデュッセウスがキルケーのもとにやってきたとき、危険はすでに伝えられており、魔術に対する免疫力も、魔法によってすでに得られていた。妖婦の杖(つえ)が役に立たなかったのはそのためだ。だがこの妖婦―おちぶれた地中海の古い女神―は、彼女の運命のなかに、オデュッセウスなる男が立ち入るであろうことを、とうの昔から知っていたのだ。この点に関する必要な配慮が、ホメロスには欠けていた。

(キルケーとレウコテアーの対話)

キルケー: わたしの言うことを信じてちょうだい、レウコ、そのときすぐには分からなかったのよ。ときどき呪文を間違えて口にしちゃうことがあるの、ど忘れしちゃったりとか。それでも、わたしの杖は彼に触れたのよ。実を言うと、あんまりにも長いこと彼のことを待ってたから、もうそのことについて考えなくなってたのね。すべてが分かったとたん―彼はひとっ跳びして、剣に手をかけた―わたしからは微笑みがあふれた―そのとたん、満足と同時に失望が広がったんだわ。わたしは彼がいなくたってやってける、定めから逃れなきゃ、とさえ思ったわ。「結局のところオデュッセウスってのは」、わたしは思ったの、「おうちに帰りたくなる男なのよ」って。早くもわたしは、彼を船に乗りこませることを考えてたのよ。可愛いレウコ。彼はその剣を揺すってた―滑稽かつ勇敢という人間だけに許されたあり方で―わたしの方は、微笑みを浮かべ、彼のことをじっと見つめるしかなかった、あの人たちに対してそうするように、それからびっくりして、身を離すしかなかった。わたしは自分が女の子であるような気分に、自分たちが女の子だったころ、大きくなったらどんなことをするのかを聞かされて、笑い転げたころのような気分になったわ。すべては踊りのように運んだの。彼はわたしの手首をつかみ、声を荒らげ、わたしはと言えば、色めいて―そのくせ、わたしの顔は青ざめてたのよ、レウコ―彼の膝に手をまわし、わたしの台詞を口にし始めたんだわ、「あなたはだれなの? どこの土地から生まれてきたの…」。お馬鹿ちゃん、ってわたしは思ったわ、自分の身に降りかかることが、彼には分かっていないんだもの。大きくて、巻き毛で、きれいな人間だったわ、レウコ。どんなに素晴らしいブタさんに、どんなオオカミさんに、彼だったらなれたことかしらね。

レウコテアー: でも、こういったことを、あなたは彼に話してあげたの、彼があなたと過ごした年月のなかで?

キルケー: ああ、お嬢ちゃん、運命については、人間と話をしないでね。あの人たちは、それを鉄の鎖とか、宿命的な思し召しとか呼んだだけで、すべてを言い尽くしたと信じこんでしまうから。わたしたちのことを、宿命的な女主人って呼んでるのは、ご存じでしょ。

レウコテアー: 彼らは微笑みを浮かべることができないのね。

キルケー: ええ。あの人たちのなかには、運命を前にして微笑みを浮かべることができる人、後から微笑みを浮かべることができる人もいるけれど、でも、そのさなかでは本気でやらなきゃだし、あるいは死ななきゃならないんだわ。神聖なことがらを物笑いの種にすることはできないし、わたしたちのように演技をしてる気分になることもできないのよ。あの人たちの人生はあんまりにも短いから、もうやってしまったことや、知ってしまったことをするなんていうのは受け入れられないんだわ。彼だって、オデュッセウスだって、勇敢な男だって、わたしがこんな風な言葉を口にしていると、わたしの言うことを理解するのをやめてしまい、ペーネロペイアのことを考えていたもの。

レウコテアー: なんてうっとうしいの。

キルケー: ええ、でも、やっぱり彼の気持ちもわたしには分かるのよ。ペーネロペイアといっしょだったら、彼は微笑みを浮かべなくてもよかったんだもの、彼女といっしょだったら、すべてが、いつもの食事までもが、本気で、未知だったんだもの―ふたりは死に備えることができたんだわ。あなたは死がどんなに彼らを引きつけているか、分からないのね。死んでいくことは、あの人たちにとってはまさしく運命であり、反復であり、既知のことでありながら、それなのに、なにかが変わるって、思い違いをしてしまうのよ。

レウコテアー: じゃあ、どうして彼はブタさんになりたがらなかったの?

キルケー: ああ、レウコ、彼は神さまにさえなりたがらなかったのよ、あなたは分かってるじゃない、どんなにカリュプソーが、彼にお願いをしたことか、あのお馬鹿ちゃんが。オデュセウスってのはそんな人だったの、ブタさんでもなければ神さまでもなく、ただ人間であるばかり、極めて知的で、運命を前にして勇敢だったんだわ。

レウコテアー: 話してちょうだい、可愛いあなた、あなたは彼といっしょにいるのが、とても喜ばしいことだったの?

キルケー: ひとつ考えていることがあるのよ、レウコ。わたしたち女神のだれひとり、死すべきものになろうとしたことはこれまでなかったし、だれひとり、それを求めたこともこれまでなかった。それでもここには、新しいことがあるかもしれないのよ、鎖を粉々にするかもしれないことが。

レウコテアー: あなたはそうしたいの?

キルケー: なにを言ってるの、レウコ… オデュッセウスは、どうしてわたしが微笑みを浮かべているのか、分かっていなかった。わたしが微笑みを浮かべていることさえ分かっていないことも、しょっちゅうだった。かつてわたしは思ったわ、知的で、勇敢な人間よりも、獣のほうがわたしたち不死なるものに近いのはどうしてかを、彼に説明したと。食べたり、交尾したりするのが獣で、思い出を持たないのよって。彼はわたしに答えたの、ふるさとでは一匹の犬、おそらくは死んでしまった哀れな犬が、彼のことを待ってたんだって、そしてわたしにその名前を言ったの。分かるわね、レウコ、その犬は名前を持っていたのよ。

レウコテアー: わたしたちにだって名前をつけるじゃない、人間たちは。

キルケー: たくさんの名前をオデュッセウスは、わたしの寝床にいるとき、わたしにつけたわ。その都度その都度ひとつの名前よ。はじめのうちは獣のさけび声、ブタさんやオオカミさんのさけび声のようだったけど、彼はじぶんで少しずつ、単独の言葉には音節があることに気づいていったわ。彼はわたしをすべての女神の名前、わたしたちのお姉ちゃんや妹の名前で呼び、お母さんの名前、生におけるもろもろのものの名前で呼んだの。それはわたしとの闘い、定めとの闘いのようだったわ。彼はわたしを名づけ、わたしをつかまえ、わたしを死すべきものにしてしまいたかったのね。なにかを粉々にしてしまいたかったのね。知性と勇気を彼は注いだわ―彼には両方備わっていたから―でも、微笑みを浮かべることはまるでできなかったの。彼には神々の微笑みは、まるで分からなかったわ―運命を知る、わたしたちの微笑みは。

レウコテアー: 人間はだれひとり、わたしたちのことを分かっていないわ、それから獣のことも。わたしは彼らを目にしたのよ、あなたの人間たちを。オオカミさんやブタさんにされてしまったのに、まだ元のままの人間であるかのように、吠えているのね。拷問だわ。あの人たちの知性をもったままでありながら、まったくもって野蛮だなんて。あなたはあの人たちといっぱい遊んだのかしら?

キルケー: わたしは彼らを満喫したわ、レウコ。できるかぎり満喫したわ。わたしには、神さまを寝床のなかに入れる資格はなかったし、人間たちのなかでも、ただオデュッセウスだけだったんだもの。わたしが触れるほかの人たちはみんな、獣になって、狂乱して、わたしを求めるようになるんだわ、獣のように。わたしは彼らを受け入れるのよ、レウコ。彼らの狂乱は、ひとりの神さまの愛よりも、良いものでもなければ悪いものでもないもの。でも彼らといっしょにいると、わたしは微笑みを浮かべる必要さえないの。わたしは彼らがわたしに覆いかぶさってくるのを感じ、それから巣に戻ろうと逃げていくのを感じるだけ。目を伏せるなんてことは、わたしの身には起こらないの。

レウコテアー: それで、オデュッセウス…

キルケー: 彼らがだれなのか、じぶんに問いかけてみることもないの… あなたは知りたいのね、オデュッセウスがどんなひとだったのか?

レウコテアー: 話してちょうだい、キルケー。

キルケー: ある晩、彼はわたしに物語ってくれたわ、彼がアイアイエーの島に到着したときのこと、仲間たちの恐怖、船に置かれた見張りのことを。彼はわたしに言ったの、夜のあいだずっと、彼らは海の岸辺に敷いた外套にくるまれ横になりながら、うなる声や吠える声を耳にしていたんだって。それから、お日さまが姿を現すと、彼らは森のかなたにとぐろ状のものが立ちのぼるのを目にし、ふるさととおうちを見てとり、喜びの声を発したんだって。こういったことを、彼はわたしに話してくれたの、微笑みを浮かべながら―人間たちが微笑みを浮かべるように―いろりの前で、わたしのとなりに座って。彼は言ったの、わたしがだれなのか、じぶんがどこにいるのか、忘れてしまいたいって、そしてその晩、彼はわたしをペーネロペイアと呼んだのよ。

レウコテアー: おお、キルケー、彼はそんなにもお馬鹿ちゃんだったの?

キルケー: 小さなレウコ、わたしもお馬鹿ちゃんだったのよ、それで彼に、お泣きなさいって言ったの。

レウコテアー: まさか、そんな。

キルケー: いいえ、彼は泣いたりなんてしなかったわ。彼はキルケーが獣たちを、泣かないものたちを愛することを知っていたもの。彼はもっと後になってから泣いたんだわ、わたしが彼に、残された長い旅路のことや、アオルノス湖のなかへ降りていくことや、オケアノスの真っ暗やみのことを話してあげた日に泣いたのよ。こういう、まなざしをきれいにしてくれて、元気をくれる涙のことだったら、わたし、キルケーにも分かるわ。でもあの晩、彼はわたしに話したのよ―あいまいな仕方で笑いながら―彼が子どもだったころのことを、そして運命を、それからわたしに、わたしのことを尋ねてきたんだわ。彼は笑いながら話してたのよ、分かるわね。

レウコテアー: 分からないわ。

キルケー: 笑いながらよ。お口と声で。でもお目めは思い出でいっぱいだったの。それから彼はわたしに、歌えって言ったわ。わたしは歌いながら、機織り機の前に座り、わたしのしゃがれた声をおうちの声に、子どものころの声にして、甘ったるい調子にして、彼にとってわたしはペーネロペイアだったの。彼はお手てのあいだに、おつむをはさんでたわ。

レウコテアー: どっちが結局、笑いだしたの?

キルケー: どっちでもないのよ、レウコ。わたしもあの晩は、死すべきものだったんだもの。名前があったの、ペーネロペイアっていう。わたしが微笑みを浮かべることもなく、じぶんの定めをまじまじと見つめ、そして目を伏せたのは、あれがただ一度きりのことだったわ。

レウコテアー: それで、この人間は犬を愛してたの?

キルケー: 犬、女の人、彼の息子、それから海を走っていくための船をね。日々が無数に繰り返されることは、彼には運命だとはまるで思えなかったの、そしてそれがなんであるかを知りながら、彼は死へ向かって走っていき、言葉と行為でもって、大地を豊かにしたのよ。

レウコテアー: おお、キルケー、わたしはあなたのお目めをもっていないけど、ここらでわたしも微笑みを浮かべたくなってきたわ。あなたは純情だったのよ。オオカミさんやブタさんは、獣のようにあなたに覆いかぶさっていたっんだってことを、彼に告げてあげてたら、彼はひょう変し、彼も獣になっていたことでしょうね。

キルケー: そのことなら彼に告げたわよ。彼はわずかに口をゆがめたわ。少ししてから、彼はわたしに言ったの、「彼らがぼくの仲間たちでなければいいのに」って。

レウコテアー: つまりは嫉妬ね。

キルケー: 嫉妬なんかじゃないわ。あの人たちのことを大切に思ってたのよ。彼にはすべてのことが分かっていたんだわ。わたしたち、神々が浮かべる微笑みを除いてね。わたしの寝床で彼が泣いたあの日も、彼は心配で泣いたんじゃなくて、最後の旅路が宿命によって彼に押しつけられたものであり、もう分かってしまっているものだったからなんだわ。「それで、どうしてそれをするの?」剣を帯び、海へ向かって歩きながら、彼はわたしに尋ねたの。わたしは彼に黒い子ひつじを届け、彼は仲間たちが泣いているなか、ツバメたちが屋根から飛び立つのを目にとめて、わたしに言ったの、「彼らも出ていくんだ。でも彼らは、じぶんたちのしていることが分かっていない。おまえには、女主人さん、それが分かっている」。

レウコテアー: ほかにはなにも、あなたに言わなかったの?

キルケー: ほかにはなにも。

レウコテアー: キルケー、どうしてあなたは彼を殺さなかったの?

キルケー: ああ、わたしって本当に頭の悪い女なんだわ。わたしたちにはあらかじめ分かってるんだってことを、ときどき忘れてしまうんだもの。それで、わたしは女の子のように楽しむのね。まるでこういったすべてのことが、崇高なものたちの身に、オリュンポスのものたちの身に生じているかのように、そして、こんな風に、避けようがなく、しかし不条理な仕方で、不意に生じているかのように。わたしが絶対に予見しないこと、それはわたしがまさに予見していたということ、これからやったり言ったりすることを、その都度その都度あらかじめ分かってるってこと―そして、わたしがやったり言ったりすることは、そういう仕方でいつだって、新しい、驚くべきことになるのよ、ゲームのように、オデュッセウスがわたしに教えてくれたあのチェスゲームのように、ルールや規則でがんじがらめだけれど、とってもきれいで、予想外のものなのよ、その象牙の駒とともに。彼はわたしにいつだって、あのゲームは人生なんだって言ってたのよ。時間に勝利するひとつの方法だって、わたしに言ってたのよ。

レウコテアー: ずいぶんたくさんのことを、あなたは彼について思い出すのね。あなたは彼をブタさんやオオカミさんにしてしまわずに、思い出にしてしまったんだわ。

キルケー: 死すべき人間には、レウコ、不死なるものって、そういったものでしかありえないのよ。彼が携えている思い出、それから彼が後に残していく思い出。名前や言葉がそういったものなの。思い出を前にしたら、あの人たちだって微笑みを浮かべるのよ、すっかり観念しちゃってね。

レウコテアー: キルケー、あなただって言葉を口にしてるじゃない。

キルケー: わたしの運命は分かってるわ、レウコ、心配しないで。

(翻訳・持田 睦)
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2009年12月18日

第21話 アルゴー号の勇者たち

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第21話(1946年1月24日-25日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


アルゴー号の勇者たち
(2010年5月21日更新)

神婢ヒエロドゥーロイ(訳註・神殿に仕える女奴隷のこと)がお務めを果たすアクロコリントスの神殿の存在は、ピンダロスによってもまた、我々の記憶に呼び覚まされている(訳註・ピンダロスの断片122参照)。怪獣を殺りくする若者たちが―アテーナイのテーセウスも含めて―全員、女難を被っていたということは、たとえすべての伝承がそれを示唆していないにしても、そのように想定することはできるだろう。最高に残忍な女のうちのひとり、メーデイア―妖婦であり、嫉妬の鬼であり、子殺しである―については、好んで読まれている悲劇のなか、エウリピデスが長きにわたり、熱情をこめて、我々に語ってくれている。

(イアソーンとメリテーの対話)

イアソーン: どうか幕を開け放ってくれないか、メリテー。わたしはそよ風を、幕をふくらせるそよ風を感じている。こういった朝は、イアソーンも空が見たくなるんだ。海がどんな様子か言っておくれ。港の水のうえではなにが起こっているのか、言っておくれ。
メリテー: ああ、イアソーンの王さま、うえから見ると、なんてきれいなの。岩壁はひとびとでぎっしり。お船が一そう、ちっちゃな舟に囲まれて、遠ざかってる。あんまりにも澄みわたってるから、お船はひっくり返って、水に映し出されてるわ。旗や花冠を、あなたも目にしたらいいのに。なんてたくさんのひとなのかしら。彫像のうえによじ登るひとたちもいるほど。わたしの目のなかには、お日さまがあるわ。
イアソーン: おまえの仲間の女の子たちも、男たちに別れを告げるために、やってきているだろう。彼女たちが見えるかい、メリテー?
メリテー: 分からないわ、たくさんのひとが見えるんだもの。それからわたしたちに別れを告げる船乗りさんたちが、ちっちゃく、帆網にしがみついてる。
イアソーン: かれらに別れを告げるんだ、メリテー、キュプロスの船にちがいない。かれらはおまえの島々(訳注・マルタ島のこと)に立ち寄るだろう。そしてコリントスの名声とその神殿といっしょに、おまえのことも、かれらは話すだろう。
メリテー: わたしについて、なにを口にするっていうの、ご主人さま? 島にいるだれが、わたしのことを覚えてるっていうの?
イアソーン: 若者にはいつだって、じぶんのことを覚えてくれているだれかがいる。ひとは嬉々として思い出すのだ、若いもののことを。そして神々のことを、あのものたちは若いのではないかい? だれもが、あのものたちを覚えていて、そしてうらやんでいるのは、そのためなのだ。
メリテー: わたしたちはあのものたちに仕えているのよ、イアソーンの王さま。それにわたしだって、女神さまに仕えているんだわ。
イアソーン: だれかあらわれるにちがいない、メリテー、客人であれ、船乗りであれ、ほかのだれとでもなく、おまえと寝るために神殿に登ってくるだれかが。そのだれかは去りぎわに贈り物を、ただおまえだけに残していくのだ。わたしは年寄りなのだよ、メリテー、あそこまで登っていくことはできない、でもかつて、イオールコスにいるころだったら―おまえはまだ生まれていなかったが―おまえと会うためなら、山よりも高いところだって、登っていっただろう。
メリテー: 命じるのはあなただわ、そして服するのはわたしたちよ…あら、お船が帆を広げている。真っ白だわ。見においでなさいったら、イアソーンの王さま。
イアソーン: おまえは窓辺にいておくれ、メリテー。おまえが船を見ているあいだ、わたしはおまえを見ているから。わたしはまるで、おまえと帆がいっしょになって風を受けているのを見ているようだ。わたしは朝方は目がかすむらしい。年寄りなのだよ。下のほうに目をやりでもしたら、あまりにも多くのものが見えてしまうだろう。
メリテー: お船はお日さまのなか、前のめりになってるわ。今ではなんとまあ、飛ぶように走ってることかしら! 鳩みたい。
イアソーン: そしてただひたすらキュプロスまで進んでいくのだ。コリントスから、島々から、海水を切って進んでいく船たちは今、出帆している。かつてこの海にも、まったく人気(ひとけ)のないころがあったのだ。わたしたちが最初のものとして、海をはずかしめたのだ。おまえはまだ生まれていなかったが。なんとも遠いむかしの話に思われるよ。
メリテー: でも信じることができるかしら、ご主人さま、思い切って海を渡ろうとするものが、ひとりもいなかっただなんて。
イアソーン: ものごとには少女性というものがあるのだよ、メリテー、危難よりも大きなおそれを抱かせる性質が。山々の頂きの恐ろしさを思い起こしてごらん、山びこを思い起こしてごらん。
メリテー: わたしが山に登ることはぜったいにないわ。でも、海がだれかにおそれを抱かせていたなんて、信じられない。
イアソーン: 実際、わたしたちにはそれを抱かせなかった。わたしたちは今日のような朝にイオールコスを離れたが、わたしたちはみな若く、神々をじぶんたちの味方につけていた。明くる日のことを思うことなく、海を渡っていくのはうるわしいことだった。それから、けたはずれなことがつぎつぎと起こりはじめた。今よりも若々しい世界があったのだよ、メリテー、日中は明るい朝のようで、夜は深い暗闇―そこではありとあらゆることが起こりえたのだ。その時その時で、けたはずれなのは泉であったり、怪獣であったり、人間や大岩であったりした。わたしたちのなかには姿を消すものもいれば、死んでいくものもいた。着岸のたびに、死の追悼があった。朝になるたびに、海はよりうるわしく、より少女らしくなっていった。待望のなか、一日は過ぎていった。すると雨がやってきた、霧と黒い泡がやってきた。
メリテー: そういったことは、よく知られているわ。
イアソーン: 海は危難ではなかったのだ。着岸を重ねるにつれて、この長い航路はわたしたちを成長させてくれていることが、わたしたちにはわかった。わたしたちはよりいっそう強く、全てのものからよりいっそう際立つようになった。わたしたちは神々のようだったのだよ、メリテー―でも、まさしくそのことが、命がけのことをするように、わたしたちをいざなったのだ。わたしたちはパーシスの河岸、イヌサフランの草地で下船した。ああ、あのころわたしは若かったのだ、そして定めを目にしたのだ。
メリテー: あなたたちのことを話すとき、神殿のなかでは、みんなは声をひそめるのよ。
イアソーン: みんながときどきあざけり笑っていることは、知っているよ、メリテー。コリントスは陽気な町だ。そして、口にしていることは、知っているよ、「いったいいつになったらあの爺さんは、じぶんの神々のことをあれこれ話すのをやめるんだい? やつらだって他の連中と同じように、死んでしまったっていうのに。」そして、コリントスが望むのは、生きることなのだ。
メリテー: わたしたちの話題にのぼるのは、妖婦だわ、イアソーンの王さま、ある男のひとが知り合ったという、あの女のひとのこと。ああ、彼女がどんなひとだったか、わたしに話してちょうだいな。
イアソーン: 男はだれも、ひとりの妖婦を知っているんだよ、メリテー、神殿が笑い方を教えてくれる、コリントスの町を除いてはね。わたしたちの仲間はだれも、年老いてしまったものも死んでしまったものも、ひとりの妖婦を知っていたんだ。
メリテー: で、あなたのご婦人は、イアソーンの王さま?
イアソーン: わたしたちは海をはずかしめ、怪獣を倒し、イヌサフランの草地のうえに足を踏み入れた―森のなかでは黄金の雲が光り輝いていた―それなのに、わたしたちのめいめいが妖婦の手管によって、めいめいがひとりの妖婦の妖術や情念のために、死んだのだ。わたしたちの仲間のひとりの頭部はもぎとられ、へしおられ、川のなかで終わりを迎えた。またあるものは今では、年老いてしまった―そして、おまえに話をしているのだ―じぶんの息子たちが、怒り狂った母親の犠牲になるところを目にしたものは。
メリテー: 彼女は死ななかったって言われているわ、ご主人さま、彼女の妖術は死に打ち勝ったんだって。
イアソーン: それが彼女の運命なのだ、そして、わたしは彼女をうらやみはしない。彼女は死を吸ったり吐いたりし、それをまき散らしたのだ。おそらくは彼女は、じぶんの家々に戻ったことだろう。
メリテー: でも、彼女はどうやって、じぶんの息子たちに手をかけることができたのかしら? いっぱい涙を流したにちがいないでしょうね…
イアソーン: 彼女が涙を流すところを、わたしは一度も目にしたことがなかった。メーデイアは涙を流さなかったのだ。そして微笑みを浮かべたのも、あの日、わたしについて行くと口にした、そのときだけだった。
メリテー: そうはいっても、彼女はあなたについて行ったのよ、イアソーンの王さま、彼女はふるさとと家々をはなれ、そして定めを受けいれたんだわ。若者のように残酷だったのね、あなたも。
イアソーン: わたしは若かったのだよ、メリテー。そしてあのころはだれひとり、わたしのことをあざ笑うことはなかった。しかしわたしはまだ、英知とはおまえたちの、神殿の英知を意味することを知らず、そして女神に不可能なことを求めていたのだ。そしていったいなにが不可能だったというのだろう、竜を倒し、黄金の雲の主となった、わたしたちに? 悪行をなすのは偉大になるため、神々になるためなのだ。
メリテー: で、どうして、あなたたちのいけにえになるのはいつだって、女のひとなのかしら?
イアソーン: 小さなメリテー、おまえは神殿の一員だ。そして、おまえたちは知らないのかい、神殿のなかへ―おまえたちの神殿のなかへ―男が登ってくるのは、せめて一日、せめて一時間でも、神になるため、まるでおまえたちが女神であるかのように、おまえたちと寝るためだということを? 男はいつでも、女神と寝ることを求めている―そうして気がつくのだ、かれが関係を持っていたのは、死すべき肉体、おまえたちがそうであり、すべての女がそうであるところの、哀れな女であったことに。こうして男は荒れ狂い―ほかのどこかで神になろうとするのだ。
メリテー: そうはいっても、満足しているひとだっているじゃない、ご主人さま。
イアソーン: ああ、不相応に年老いているものや、おまえたちのところまで登ってくるものは、そうだ。でも、やれることをすべてやってしまわないうちは、無理だ。別の日々を目にしてしまったものは、無理なのだ。おまえはペルセポネーを誘拐するためにハーデースのなかへ降りていった、アイゲウスの息子のことを話しているのを、耳にしたことがあるかい―海に身を投げ入れて死んだ、アテーナイの王の息子のことを?
メリテー: かれのことなら、パレーロンの人たちが口にしてるわ。かれもまた、あなたみたいな船乗りさんだったんでしょ。
イアソーン: 小さなメリテー、かれはほとんど神さまのようなひとだったのだよ。そして、海のかなたで、じぶんのものとなる女と出くわしたのだ、ひとりの女―まるであの妖女のように―命がけの冒険のなかで、かれを助けてくれることになる女と。かれが彼女を島のうえに置き去りにしたのは、ある朝のこと。それからほかの冒険やほかの土地で勝利をおさめ、そして、手なずけがたいアマゾーンのアンティオペーを、月のような女をわがものにした。そしてそれから、パイドラーを、昼の光をわがものにし、そしてこの女もまた自殺した。そしてそれから、レーダの娘のヘレネーをわがものにした。そしてまたほかの女たちも。ついにはペルセポネーを、ハーデースの入り口から略奪しようとするに至った。ただひとりの女だけだ、かれが欲しがらなかったのは、コリントスから逃げていった女―息子たちを殺した女―あの妖女のことは、おまえも知っている。
メリテー: でもあなたは、ご主人さま、彼女のことを忘れずにいるのね。あなたのほうが、その王さまよりもいいひとだわ。あなたはそのときからもう、涙を流させることがないんだもの。
イアソーン: わたしはコリントスで、神になろうとしないことを学んだのだ。そして、おまえを知ったのだよ、メリテー。
メリテー: ああ、イアソーン、わたしがなにものだっていうのかしら?
イアソーン: 年寄りがその名を呼ぶと、神殿から降りてきてくれる、小さな海の女だ。そしておまえもまた、女神なのだ。
メリテー: わたしは彼女に仕えているんだわ。
イアソーン: おまえの名前を持つ島(訳注・マルタ島のこと)は、西の方にあり、女神の偉大なる聖域だ。それをおまえは知っているのかい?
メリテー: ちっちゃな名前よ、ご主人さま、おもしろ半分につけられた名前。ときどきわたしは、あのきれいな名前のことを考えるわ、妖女たちの、あなたたちのために涙を流したみじめな女の人たちの、きれいな名前のことを。
イアソーン: メガラー、イオレー、アウゲー、ヒッポリュテー、オンパレー、デーイアネイラ…彼女たちが涙を流させたのはだれか、おまえは知っているかい?
メリテー: あら、でもあのものは神さまだったじゃない。そして今は、神々のなかで暮らしているんだわ。
イアソーン: みんなはそのように、うわさしている。かわいそうなヘラクレスよ。かれもまた、わたしたちとともにいたのだ。わたしはかれをうらやみはしない。

(翻訳・持田 睦)
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2009年12月02日

第7話 波の泡

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第7話(1946年1月12日-14日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


波の泡
(09/12/17更新)

 クレテーの、そしてミノアのニンフ、ブリトマルティスのことは、カリマコスが語っている。サッポーがレスボス島出身のレズビアンであったことは、好まれない事実であるが、われわれがより悲しいこととみなしているのは、彼女が生きる望みを失ったという事実であり、その事実ゆえに、彼女は海のなかに、ギリシアの海のなかに身を投げる決心をしたのだった。この海には島が満ちあふれており、全島のなかでいちばん東方にあるキュプロスには、波から生まれたアプロディーテが身を寄せた。数多くの情事と大いなる不幸を見つめてきた海であった。アリアドネー、パイドラー、アンドロマケー、ヘレー、スキュラ、イーオ、カッサンドラー、メーディア、その名を挙げる必要があるだろうか? みなが海を渡り、そしてひとりよりも多くが、海のなかに残されたのだった。一面にわたり、精液と涙が溶けこんでいる海、そう思わずにはいられない。

(サッポーとブリトマルティスの対話)

サッポー: ここは灰色だわ、ブリトマルティス。海って灰色よ。あなた、ずいぶん長いことこんなところにいて、うんざりしないの?
ブリトマルティス: あなたが死すべき存在であったころは、こっちのほうがよかったくせに。あぶくを立てる、わずかばかりの波になるなんてことは、あなたたちにはものたりないことなのね。そのくせ、あなたたちは死を、こういった死を求めてるんだから。あなたはどうして死を求めてたの?
サッポー: こんなふうになるなんて、知らなかったのよ。さいごにひとっ跳びしたら、すべてが終わるんだって思ってた。ときめきも、ゆらめきも、ざわめきも、なくなってしまうんだって。海が飲みこんでくれる、海が滅ぼしてくれる、そうわたしはじぶんに言い聞かせてたんだわ。
ブリトマルティス: 海のなかではすべてが死んでいき、それから生き返るのよ。あなたももうご存じのようにね。
サッポー: それで、あなたはどうして海を求めたの、ブリトマルティス―あなたったら、ニンフだったんでしょ?
ブリトマルティス: 求めてなんかないわ、海なんて。わたしは山の上で暮らしていたの。それで月夜のなかを逃げたのよ、だれだかわからない、死すべき存在に追われながら。あなたはね、サッポー、わたしたちの森を知らないんだわ、海の上、ものすごく高く、切り立ったところにある森を。わたしはひとっ跳びしたのよ、じぶんを救うために。
サッポー: それで、いったいなんのために、あなたを救うの?
ブリトマルティス: かれから逃げるために、わたしがわたしであるために。だって、そうせざるをえなかったんだもの、サッポー。
サッポー: そうせざるをえなかった? それほどまでに、あなたのお気に召さなかったのかしら、その死すべき存在は?
ブリトマルティス: 分からないわ、かれのこと、目にしたことなかったから。わたしに分かっていたのは、逃げざるをえなかったってこと、ただそれだけ。
サッポー: そんなことがありえるかしら? 日々の暮らしを、山を、草むらをあとにする―土地をあとにして、波の泡となる―すべては、そうせざるをえなかったから、なんてことが? そうせざるをえなかったって、なにをそうせざるをえなかったって言うの? あなたはそのなにかに、ときめきを感じなかったの、あなたはそんなことからも、作りだされていたんじゃないの?
ブリトマルティス: あなたの言ってること、分からないわ、きれいなサッポー。ときめきやゆらめきが、いまのあなたを作りだしたのよ。あとから、わたしまで逃げただなんて、文句を言うなんて。
サッポー: あなたって、死すべき存在じゃなかったのね、それで知ってたのね、どんなものからも逃げられはしないってことを。
ブリトマルティス: わたしはときめきから逃げたんじゃないのよ、サッポー。ほしくてたまらないものなら、持っているわ。まえはわたし、崖のニンフだったんだけど、いまでは海のニンフなの。わたしたちはそんなことから、作りだされているんだわ。わたしたちのいのちは、葉っぱと木の幹であり、水の泉であり、波の泡である。わたしたちはものに軽く触れるために遊んでいるのであって、逃げてるんじゃない。わたしたちは移り変わっていく。そんなことが、わたしたちのときめきであり、めぐりあわせなんだわ。わたしたちがただひとつ恐れているのは、人間がわたしたちをじぶんのものにして、わたしたちをとりこにしてしまうこと。そうなったら、まったくもっておしまいなんだもの。あなた、カリュプソーはご存じ?
サッポー: 聞いたことならあるわ。
ブリトマルティス: カリュプソーはね、ある男のとりこにされてしまったの。それでもうなにを言っても、彼女の助けにならなくなってしまったんだわ。何年も何年も、彼女はじぶんのほら穴から出てこなかったの。みんなが、レウコテアーとか、カリアネイラとか、キューモドケーとか、オレイテュイアとかがやってきて、アンピトリーテーがやってきて、彼女に話をして、じぶんたちといっしょに連れだし、彼女を救いだしたのよ。でも何年もかかったし、あの男は立ち去らなければならなかったんだわ。
サッポー: わたしにはカリュプソーの気持ちが分かるわ。ただ分からないのは、彼女があなたたちの言うことに耳を傾けたということ。くずおれてしまうときめきって、いったいなんなのかしらね?
ブリトマルティス: ああサッポー、死すべき波よ、あなたはこのさき、まるで知ることがないのかしら、ほほえみを浮かべるって、どういうことなのか?
サッポー: そんなの、生きてたころに知ってたわ。それでわたしは死を求めたんじゃないの。
ブリトマルティス: ああサッポー、ほほえみを浮かべるって、そんなことじゃないのよ。ほほえみを浮かべるって、さだめを受けいれながら、ひとつの波や、一枚の葉っぱのように生きること。ひとつのかたちで死んでいき、別のかたちで生まれ変わること。受けいれること、受けいれることなの、じぶんがじぶんであることを、それからめぐりあわせを。
サッポー: じゃああなたは、それを受けいれたのね?
ブリトマルティス: わたしは逃げたのよ、サッポー。わたしたちのような存在にとっては、そのほうがたやすいことだから。
サッポー: わたしもよ、ブリトマルティス、わたしもしばらくは逃げることができたわ。それで、わたしにとって逃げることって、もののうちやざわめきのうちを見つめて、そこから歌を、言葉を作りだすことだったの。でもめぐりあわせって、まったくべつのものなのよ。
ブリトマルティス: サッポー、どうして? めぐりあわせは喜びで、あなたが歌を歌うとき、あなたはしあわせだったじゃない。
サッポー: わたし、ちっともしあわせなんかじゃなかったわ、ブリトマルティス。ときめきは歌なんかじゃないもの。ときめきは身を引き裂いて、焦がしてしまうのよ、へびみたいに、風みたいに。
ブリトマルティス: あなたはまるで知ることがなかったのね、ときめきとざわめきのなか、落ちついたままで生きていた、死すべき女のひとたちなんて?
サッポー: ひとりも知ることがなかった…たぶん、知っているかも…サッポーのような死すべき存在じゃなくってよ。あなたはまだ山のニンフで、わたしはまだ生まれていなかったころだわ。ひとりの女のひとがこの海を越えていったの、いつだってざわめきのなかで生きていた、ひとりの死すべき存在が―たぶん、落ちついたままで。殺したり、打ち砕いたり、目を見えなくしたりする、女神さまみたいな女のひとだわ―いつだって、彼女は彼女のままだったの。たぶん、ほほえみを浮かべる必要もなかったんだわ。きれいで、馬鹿じゃなくって、それで彼女のまわりでは、すべてが死んでいき、闘っていた。ブリトマルティス、かれらが闘ったり、死んだりしたのは、彼女の名前が一瞬、じぶんたちと結ばれるのを願ってのことだったのよ、彼女がみんなの生と死に、その名前を与えるのを願ってのことだったのよ。それでかれらは、彼女のためにほほえみを浮かべたんだわ…。あなたは彼女を知ってるわね―テュンダレオースの胤(たね)であるヘレネー、レーダーの娘よ。
ブリトマルティス: それで、その女はしあわせだったの?
サッポー: 彼女は逃げなかった、それはたしかなことよ。じぶんがじぶんであることに、ものたりていた。彼女はじぶんのめぐりあわせがどんなものであるのか、じぶんにたずねてみることもなかった。それを望み、そうするだけの力のある男が、彼女をじぶんといっしょに連れだしたんだわ。彼女は十年間、ひとりの英雄に囲われていたんだけれど、かれから彼女が取りあげられ、べつの男のもとに嫁がされると、この男も彼女を失うことになり、海の向こう、たくさんのひとたちが彼女を求めて争ったところ、ふたり目の男は彼女を取り戻し、彼女はかれといっしょに安らかに暮らし、埋められて、それでハデスのなか、さらに別の男たちを知ったのよ。彼女はだれにも嘘をつかなかったし、だれにもほほえみを浮かべなかった。たぶん、彼女はしあわせだったわ。
ブリトマルティス: それで、あなたはその女がうらやましいの?
サッポー: わたしはだれもうらやましくなんかないわ。わたしは死にたかったのよ。べつの女になるなんて、わたしにはものたりなくって。もしわたしがサッポーでいられないのなら、存在しないほうがましよ。
ブリトマルティス: じゃあ、あなたはめぐりあわせを受けいれるのね?
サッポー: そんなもの、受けいれなんかしないわ。わたしがそのものなんだから。だれもそんなもの、受けいれてなんかいないし。
ブリトマルティス: ほほえみを浮かべることのできる、わたしたちを除いてはね。
サッポー: ごりっぱ。そういう力が、あなたたちのめぐりあわせのなかには存在するのね。でもそれがいったい、どういうことだっていうの?
ブリトマルティス: じぶんを受けいれることであり、とにもかくにも受けいれることだっていうの。
サッポー: だから、それってどういうことなのよ? ある力があなたをさらい、あなたがときめきになるなんてこと、受けいれることができるかしら? ぶるぶるとふるえるときめきは、男の連れあいであれ、女の連れあいであれ、そのからだのまわり、岩のあいまの泡みたいにもがいてる。それで、このからだはあなたをこばみ、あなたをくじいて、それで、あなたはうちひしがれて、それで、あなたは岩を抱きしめたく、受けいれたくなる。また別のときには、あなたはじぶんじしんが岩であり、それで、泡は―ざわめきは―あなたの足のまわり、もがいてる。だれも落ちついていたためしがない。こういったことをぜんぶ、受けいれることができるかしら?
ブリトマルティス: そういったことを、受けいれなきゃいけないのよ。あなたは逃げようとして、それで、泡になったんじゃない、あなただって。
サッポー: でも、あなたは感じてるんでしょ、このたいくつを、海のこのゆらめきを? ここではすべてが休むことなく、ふやけ、あぶくを立てている。死んでしまったものまで、ゆらめきながら、もがいているんだわ。
ブリトマルティス: あなたは知ってるはずじゃないかしら、海のこと。あなただって、ある島からやってきたんでしょ…
サッポー: ああ、ブリトマルティス、こどものころから、わたしをこわがらせていたのよ。そのとめどもないいのちは灰色で、悲しい。言葉なんて存在しないのね、たいくつを語るための言葉なんて。
ブリトマルティス: ひとむかしまえ、わたしの島で、死すべき存在が出入りするのをわたしは目にしたんだわ。あなたみたいな女のひとたちもいたっけ、色恋に生きる女のひとたちよ、サッポー。彼女たちは悲しんでいるようにも、飽きあきしているようにもみえなかったけど。
サッポー: そんなのわかってる、ブリトマルティス、わかってるわよ。でもあなたは、彼女たちの歩んだ道をたどっていったのかしら? こんな女のひとがいたのよ、よその土地で、じぶんの手によって、家の梁(はり)から首をつった女のひと。それにこんな女のひと、朝、岩のうえに打ち捨てられたまま、目を覚ました女のひと。それから、ほかにも、ほかにもたくさん、ありとあらゆる島から、ありとあらゆる土地から、海のなかに沈んでいった女のひとたちがいて、あるひとは下女であり、あるひとはしいたげられていて、あるひとはじぶんのこどもを殺し、あるひとは昼も夜もたいへんな思いをし、またあるひとはもう二度とかわいた土地にふれることもなく、あるものに、海のけものになったんだわ。
ブリトマルティス: でも、テュンダレオースの胤(たね)である彼女は、あなた言ったじゃない、無事に切りぬけたんだって。
サッポー: 火の手とみな殺しをまき散らしながらね。彼女はだれにもほほえみを浮かべなかった。だれにも嘘をつかなかった。ああ、彼女ったら、海にふさわしいひとだったんだわ。ブリトマルティス、思い出してごらんなさいよ、だれがこの下で生まれてきたのか…
ブリトマルティス: いったいだれのことかしら?
サッポー: あなたが目にしたことのない島がひとつ、まだあるの。それは朝がやってくると、いちばんはじめにお日さまにつつまれるところなんだわ…
ブリトマルティス: ああ、サッポー。
サッポー: 彼女が泡からおどりでてきたのは、そこだったのよ、名前をもたない彼女が、ゆらめきおののいている彼女が、ひとりほほえみを浮かべて。
ブリトマルティス: でも、彼女はくるしんだりなんかしないわ。大いなる女神さまなんだもの。
サッポー: それで、海のなかでふやけ、もがくものはすべて、彼女の中身であり、彼女の息吹きなんだわ。あなたは彼女を目にしたことがあるかしら、ブリトマルティス?
ブリトマルティス: ああ、サッポー、そんなことを口にしちゃだめ。わたしはただのちっぽけなニンフなんだから。
サッポー: あなた、見たんでしょ、だったら…
ブリトマルティス: 彼女をまえにしたら、わたしたちはみんな逃げてしまうの。そんなお話はしちゃだめなのよ、お嬢ちゃん。

(翻訳・持田 睦)
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2009年09月18日

第9話 ふたり

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第9話(1946年1月18日-20日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


ふたり
(09/12/2更新)

 ホメロスの焼き直しをしても無駄である。われわれは単に、パトロクロスの死の前日に生じた会話を報告したかっただけだ。

(アキレウスとパトロクロスの対話)

アキレウス: パトロクロス、どうしてぼくら人間は、勇気を出すためにいつだって「ぼくはもっとひどいめにあってきたじゃないか」って言うんだろう、ほんとうなら「いちばんひどいことがやってくるだろう。ぼくらが死体になる日がやってくるだろう」って言わなきゃならないときに?
パトロクロス: アキレウス、きみの言っていることが、ぼくにはもうわからないよ。
アキレウス: でもぼくのほうは、きみの言っていることがわかるのさ。パトロクロスを殺めるのに、わずかばかりのお酒なんかで足りるもんか。今晩、ぼくらと下劣な人間たちとのあいだに、結局は違いなんてないことを、ぼくは知ることになるんだ。だれにとっても、いちばんひどいことってのがある。そしてこのいちばんひどいことってのは、最後にやってきて、ありとあらゆることの後にやってきて、きみの口をふさいでしまうんだ、ひとにぎりの土みたいにね。思い出にひたるのはいつだって好ましいものさ、「こんなめにあったっけ、ほかにもこんな思いをしてきたっけ」―でもいちばんつらいことを、ぼくらは思い出すことができないらしいだなんて、不公平なことだと思わない?
パトロクロス: 少なくとも、ぼくらのうちのひとりは、もうひとりのためにそのことを思い出すことができるだろうね。そう願おうよ。ぼくらはそうやって運命に一杯食わせてやるんだ。
アキレウス: そのために、夜に、ひとはお酒を飲むのさ。きみは今までに、子どもがお酒を飲まないのは、子どもには死が存在しないからだって、思ってみたことはある? きみは、パトロクロス、少年だったころにお酒を飲んだ?
パトロクロス: ぼくはなにもかも、きみといっしょ、きみと同じようにやってきたじゃない。
アキレウス: ぼくの言いたいことはね、ぼくらがいつだっていっしょにいて、遊んで、狩りをして、そして一日は短いくせに、年月はけっして過ぎていかなかったあのころ、きみは死とはなにか、きみの死とはなにかを知っていたのか、ってことなんだ。というのも、ひとは少年のころ、みずからを殺めたりするくせに、死とはなにかを知らないんだ。それから突然、死とはなにかがわかるようになり、死のまっただ中に存在するようになる日がやってくる、そしてそのときから、ひとは一人前になるんだ。闘って、そして遊んで、飲んで、がまんならない夜をおくるのさ。ところできみは、酔っぱらっている少年をいままでに見たことはある?
パトロクロス: ぼくはいつが初めてのことだったか、じぶんに問いかけてみている。わからない。思い出せないや。ぼくはいつだって飲んでいて、死を知らずにいたような気がする。
アキレウス: きみは少年みたいだね、パトロクロス。
パトロクロス: そういうことはきみの敵にきいてくれよ、アキレウス。
アキレウス: きいてみるよ。でもきみにとって死は存在しないんだね。そして死をおそれないものは、すぐれた戦士ではないのさ。
パトロクロス: だけどきみと飲んでるんだもの、今夜は。
アキレウス: で、きみはなにも記憶にないの、パトロクロス? きみはじぶんが実際になにをしたのか、きみの人生がどんなものだったのか、きみに関することで大地や海にきみが残していったものはなんであるか、じぶんに問いたずねながら、「こんなことをしてきた。こんなめにあってきた。」と口にすることは一度もないの? なにも覚えていないのだとすると、日々を過ごすことはいったいなんの役に立つの?
パトロクロス: ぼくらがふたりの少年だったころ、アキレウス、ぼくらはなにも覚えていなかったじゃない。ただずっといっしょにいるだけで、ぼくらは十分だったよね。
アキレウス: ぼくはじぶんに問いかけてみるんだ、テッサリアには、そのころのことをまだ覚えているひとがいるのだろうかって。そして仲間たちがこの戦争からあっちへ戻っていったとき、だれがあの道を通っていくのだろうか、だれがそこにはかつて、ぼくらも存在したことを知るのだろうか―いまそこにはほかの少年たちがたしかに存在しているように、ふたりの少年が存在していたことを知るのだろうかって。いま大きくなっている少年たちは知っているのだろうか、いったいなにが、かれらを待ち受けているのか。
パトロクロス: そんなことを考えたりなんかしないよ、少年のころに。
アキレウス: これからも生じるにちがいないけれど、ぼくらは目にすることがない、そんな日々があるんだ。
パトロクロス: そういった日々なら、ぼくらはもうたくさん目にしたんじゃない?
アキレウス: いいや、パトロクロス、たくさんでもないんだ。ぼくらが死体になる日がやってくるだろう。ぼくらがひとにぎりの土で、口をふさいでしまう日が。そしてぼくらは、じぶんたちが目にしてきたものがなにひとつわからくなるだろう。
パトロクロス: そんなことを考えたって、なんにもなりはしないよ。
アキレウス: ひとはそんなことを、考えずにはいられないんだ。少年のころ、ひとは不死なるものに似ていて、じっと見つめ、そして笑うのさ。気をめいらせるようなことは知らない。疲れや嘆きを知らない。遊びで闘って、死んだように地面に身を投げ出す。それから笑って、そしてまた、遊ぶんだ。
パトロクロス: ぼくらには、べつの遊びがあるじゃない。ベッドや戦利品。敵。それから今晩のこの酒。アキレウス、ぼくらはいつ戦場に戻るの?
アキレウス: ぼくらは戻る、安心して。ある運命がぼくらを待っているんだ。きみが炎につつまれた船を目にしたときが、その時さ。
パトロクロス: そんなときかい?
アキレウス: どうして? きみはこわがってるの? きみはもっとひどいめにあってきたんじゃないの?
パトロクロス: いらだっているんだよ。ぼくらがここにいるのは終わりにするため。明日だったらいいのに。
アキレウス: あわてるな、パトロクロス。「明日」なんてことは神々に言わせておけばいいんだ。ただあのものたちのためだけなんだから、かつてあったことが、これからもあるのは。
パトロクロス: でももっとひどいめにあうかどうかは、ぼくらしだいだ。さいごのさいごまでね。飲みなよ、アキレウス。槍に乾杯しながら、それから盾に乾杯しながら。かつてあったことは、これからもまたあるだろう。危険なめにあうために、戻るとしようよ。
アキレウス: ぼくは死すべきものたちに乾杯しながら、それから不死なるものたちに乾杯しながら飲むのさ、パトロクロス。ぼくの親父に乾杯、それからおふくろに乾杯。記憶のなかにある、かつてあったことに乾杯。それから、ぼくらふたりに、乾杯。
パトロクロス: きみはたくさんのことを覚えているの?
アキレウス: おんなやこじきよりも、ってわけではないけれど。やつらだってかつては少年少女だったんだから。
パトロクロス: きみは恵まれているね、アキレウス、そしてきみにとって恵みとは、ひとが投げ捨ててしまうぼろぎれなんだ。きみくらいのものだよ、じぶんをこじきにたとえることができるのは。テネドス島の岩礁に襲いかかっていったのはきみだ、アマゾネスの腰帯をひきちぎり、山の上で熊と戦ったのはきみだ。母親に炎のなかで焼きをいれられた赤ん坊なんて、きみくらいのものだ。きみは剣だ、槍なんだよ、アキレウス。
アキレウス: 炎のなかを除いては、きみはいつだってぼくといっしょにいたね。
パトロクロス: まるで雲のあとを影がついてくるみたいにね。ペイリトオスといっしょにいるテーセウスみたいにね。ひょっとしたら、アキレウス、きみのことを待ちかまえている一日があるのかもしれないよ、ぼくを自由にするために、きみもハデスにやってくる、そんな一日が。そしてぼくらは、こういったことをまた目にするんだろうね。
アキレウス: ハデスが存在しなかったころのほうがよかったよ。あのころ、ぼくらは森や急流へ足を運び、汗を水で洗い流す、少年だった。あのころ、すべての身ぶり、すべてのしぐさが遊びだった。ぼくらは記憶だった、そしてだれもが無知だった。ぼくらに勇気があったかって? わからない。そんなのはどうでもいいことさ。ぼくが知っているのは、ケンタウロスの山の上には、夏があったということ、冬があったということ、人生の全てがあったということ。ぼくらは、不死だった。
パトロクロス: でもそのあとにやってきたのは、いちばんひどいこと。やってきたのは、危険、そして死。こうしてぼくらは、戦士になったんだ。
アキレウス: ひとはさだめからは逃れようがないのさ。それにぼくは、じぶんのむすこを目にすることもなかった。デイダメイアも死んでしまった。ああ、どうしてぼくは、女たちのあいだにまぎれたまま、島にとどまらなかったんだろう?
パトロクロス: そうしたらきみには、乏しい記憶が残されたことだろうね、アキレウス。少年でありつづけたことだろうね。苦しみのほうがましじゃない、いなかったことになるよりは。
アキレウス: でも人生がこんなものだなんて、だれもきみに言ってくれはしなかっただろう? …ああ、パトロクロス、人生はこんなものなのさ。ぼくらはいちばんひどいことを目にしなければならなかったんだ。
パトロクロス: ぼくは明日、戦場へ出ていくよ。きみといっしょにね。
アキレウス: まだぼくが出ていく日じゃないさ。
パトロクロス: それならぼくはひとりでいくよ。そしてきみが恥ずかしくなるように、きみの槍を持っていくんだ。
アキレウス: ぼくはまだ生まれていなかったのさ、トネリコの木が切り倒されたときには。見てみたいなぁ、あとに残った、森の空き地を。
パトロクロス: 戦場に加わりなよ、そうすればきみにふさわしいのは槍であることが、見えてくるから。敵の数だけ、切り株があるんだもの。
アキレウス: 船はまだ燃えていないよ。
パトロクロス: ぼくはきみのすねあてときみの盾を身につけていくよ。きみはぼくの腕のなかにいるんだ。だれひとり、ぼくにかすることもできはしないだろうね。遊んでいるみたいに思えるだろうね。
アキレウス: きみはほんとうに、酒を飲む子どもさ。
パトロクロス: ケンタウロスとかけまわっていたころは、アキレウス、きみは記憶のことなど考えもしなかったじゃない。そしてきみは、今晩のきみよりも不死であったわけではないんだよ。
アキレウス: ただ神々だけが運命を知り、そして生きているのさ。でもきみは、運命ごっこをして遊んでいるんだ。
パトロクロス: ぼくといっしょにもっと飲みなよ。そして明日になったら、ひょっとしたらハデスのなかで、ぼくらはまた、そう口にするだろうね。

(翻訳・持田 睦)
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2009年07月19日

第11話 断崖

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第11話(1946年1月5日-8日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


断崖
(2011年11月8日更新)

 世界の歴史において、いわゆる巨人時代は、人間たちや怪獣たち、それにオリュンポスでいまだ秩序づけられずにいた神々たちが住みついている時代だった。それどころか、あるものは、怪獣たち―すなわち異形で獣のような身体に閉じ込められた知性のほかは、なにも存在しなかったとさえ考えている。ここから生じるのは、怪獣殺しの多くは―ヘラクレスを筆頭として―同胞の血を流していたのではないかという疑惑である。

(ヘラクレスとプロメテウスの対話)

ヘラクレス: プロメテウス、おまえを自由にするために、おれはやってきたぞ。
プロメテウス: そのことなら分かっている、おれはおまえを待っていた。礼を言わねばなるまい、ヘラクレス。おまえはここまで登ってくるのに、ひどい道を進んできた。しかしおまえは知らないのだな、おそれとは何であるかを。
ヘラクレス: おまえの状態のほうがひどいではないか、プロメテウス。
プロメテウス: おまえは本当に知らないのだな、おそれとは何であるかを? そんなことがあるとは思えないのだが。
ヘラクレス: もしおれがしなければならないことをしないでいることがおそれであるならば、それならばおれはこれまでにおそれを感じたことはない。でもおれは人間なのだ、プロメテウス、おれがしなければならないことを、いつでも知っているわけではない。
プロメテウス: 人間とはあわれみとおそれだ。それ以外のなにものでもない。
ヘラクレス: プロメテウス、おまえはおしゃべりをしておれをもてなしてくれるが、過ぎていくどの一瞬も、おまえの責め苦はつづいている。おまえを自由にするために、おれはやってきたんだぞ。
プロメテウス: そのことならわかっている、ヘラクレス。そのことならおまえが産着にくるまれた赤ん坊にすぎなかったころから、おまえがまだ生まれていなかったころからすでにわかっていた。だがおれの身に起きているのは、ある場所で―牢獄や、流刑地や、危険なところで―ひどく苦しんできて、そこから逃れ出る瞬間が訪れるときも、この一瞬を通り過ぎて、苦しめられた日々を後にする決心ができずにいる人間に起きていることと似ているのだ。
ヘラクレス: おまえのいる断崖から、おまえは離れたくないのか?
プロメテウス: ここから離れなければならないさ、ヘラクレス―おまえを待っていたと、おれは言っているじゃないか。だが瞬間が、人間に対するのと同じように、おれに対して重くのしかかってくる。ここではひどく苦しめられるということが、おまえにはわかるな。
ヘラクレス: おまえを目にすれば十分だ、プロメテウス。
プロメテウス: 死にたくなるほどまでに、苦しめられるのだ。いつの日かおまえにもこのことがわかるだろう、そして断崖を登ることになるのだ。だがおれは、ヘラクレス、死ぬことができない。おまえだって、やはり、死なないだろう。
ヘラクレス: どういうことだ?
プロメテウス: おまえを神がかっさらうだろう。というよりも、女神が。
ヘラクレス: おれにはわからない、プロメテウス。それでは、おまえを解放させてもらうぞ。
プロメテウス: そしておまえは子どものように、厚い感謝の気持ちでいっぱいになり、不公平や労苦を忘れ、天の下で生きることになるのだ、神々を、あのものたちの英知と善良を讃えながら。
ヘラクレス: すべてのものごとは、あのものたちに由来して、おれたちのところにあるのではないのか?
プロメテウス: ああ、ヘラクレス、もっと昔から存在する英知があるのだ。世界は古い、この断崖よりも古い。そしてあのものたちも、それを知っている。すべてのものごとには、ひとつの運命がある。だが神々は若い、ほとんどおまえと同じくらい若いのだ。
ヘラクレス: おまえもあのものたちのひとりではないのか?
プロメテウス: ふたたびそうなるだろう。そのように運命は望んでいる。だがかつてはおれはティタンであり、神々のいない世界で暮らしていたのだ。そんなこともかつては起こったのだ…。おまえはそうした世界を思い浮かべることができないか?
ヘラクレス: それは怪獣の世界や混沌の世界ではないのか?
プロメテウス: ティタンの世界と人間の世界だ、ヘラクレス。獣の世界と森の世界。海の世界と空の世界。今あるおまえを作り上げた、闘いの世界と血の世界だ。最後の神、不公平極まりない神までが、当時はティタンだった。今ある世界においても未来の世界においても、価値あるもので、かつてティタンのものでなかったものはないのだ。
ヘラクレス: それは断崖の世界だった。
プロメテウス: だれもがひとつの断崖を持っている、おまえたち人間は。それゆえにおれはおまえたちを愛したのだ。だが神々とは、断崖を知らないものたちのことだ。あのものたちは笑うことも泣くことも知らない。あのものたちは運命を前にして微笑むのだ。
ヘラクレス: おまえの身動きをとれなくしたのは、あのものたちだ。
プロメテウス: ああ、ヘラクレス、勝利を得るものはいつでも神だ。ティタン人(びと)は、闘い抵抗するかぎり、笑ったり泣いたりすることができる。そしてもしあのものたちがおまえの身動きをとれなくするならば、もしおまえが山を登るならば、これこそが運命がおまえに認めてくれる勝利なのだ。おれたちはそのことに感謝しなければなるまい。勝利とは、もしそれが行為となってあらわれるあわれみ、みずからを犠牲にして他のものたちを救うあわれみでなかったとしたら、いったい何であろうか? 運命のおきてのもとでは、だれもが他のものたちのために働いている。おれ自身、ヘラクレス、今日もし自由になるのだとしたら、それはだれかのおかげを被っているのだ。
ヘラクレス: こんなことは大したことではない、それに、まだおまえを自由にしてもいないぞ。
プロメテウス: ヘラクレス、おれはおまえのことを話しているのではない。おまえはあわれみ深く、勇敢だ。だがおまえの職分ならば、おまえはすでに果たしたのだ。
ヘラクレス: おれはなにもしてはいない、プロメテウス。
プロメテウス: おまえは死すべきものではないということになってしまう、もしおまえが運命を知っていたりなどしたら。だがおまえが生きているのは神々の世界だ。そして神々はそうした知識まで、おまえたちから奪い去ってしまったのだ。おまえはなにひとつ知ることなく、すべてのものごとをすでにやり遂げている。ケンタウロスのことを思い出してみるがいい。
ヘラクレス: 今朝おれが殺した、獣人(けものびと)のことか?
プロメテウス: 殺すことはできない、怪獣たちは。そんなことは神々であっても無理だ。やがておまえには、昔怪獣をもう一匹、もっと野蛮な怪獣を殺めていたことを思う、そうした日がやってくるだろう、そしておまえは、ただおまえの断崖を準備していたにすぎなかったということになるだろう。今朝おまえが打ち倒したのがだれか、おまえはわかっているか?
ヘラクレス: ケンタウロスだ。
プロメテウス: おまえが打ち倒したのは、ティタンや死すべきものたちに対してあわれみ深く、善良である友人ケイロンだ。
ヘラクレス: ああ、プロメテウス…。
プロメテウス: そのことを悔やんではいけない、ヘラクレス。おれたちはみな、同じ運命を担っている。自分のために血を流してくれるものがいなかったら、だれひとり自由にはなれないというのが世界のおきてだ。それと同じことが、おまえの身にも起こるだろう、オイテーの山上で。それにケイロンはわかっていたのだ。
ヘラクレス: おまえはかれが身を捧げたと言いたいのか?
プロメテウス: もちろんだ。火を盗むことは、おれの断崖になることを、かつておれがわかっていたのと同じように。
ヘラクレス: プロメテウス、おまえを解放させてもらうぞ。そして、おれにすべてを話してくれ、ケイロンのことを、それからオイテーの山のことを。
プロメテウス: おれはもう解放されているのだ、ヘラクレス。おれには解放される可能性があったのだ、他のものがおれの持ち場を引き受けてくれたならば。そしてケイロンは、定めが遣わしたおまえによって、矢で射抜かれた。だが混沌から誕生したこの世界の中、君臨しているのは正義のおきてだ。あわれみや、おそれや、勇敢さは、ただの小道具にすぎない。なされてしまったことで、くりかえされないことなどないのだ。おまえがかつてまき散らしてきて、これからもまき散らすであろう血は、おまえの死を死んでいくために、おまえをオイテーの山の上へと至らしめる。それは怪獣たち、おまえがその退治をするために生きている、怪獣たちの血なのだ。そしておまえは積み上げられた薪のうえに登っていくだろう、おれが盗んできた火で点火された薪のうえに。
ヘラクレス: でもおれは死ぬことができないと、おまえは言ったぞ。
プロメテウス: 死はこの世界に、神々とともに入ってきた。おまえたち死すべきものが死をおそれるのは、神々として、あのものたちが不死であることを知っているからだ。だが、だれもが、じぶんにふさわしい死を持っているもの。あのものたちもまた、終わりを迎えるのだ。
ヘラクレス: なんだって?
プロメテウス: すべてを口にするわけにはいかない。だが怪獣たちが死なないということは、いつでも覚えておくがいい。死ぬのは、かれらがおまえたちに呼び起こすおそれなのだ。そのことは神々にも当てはまる。死すべきものたちがもはや神々におそれを抱くことがなくなれば、あのものたちはいなくなってしまうのだ。
ヘラクレス: ティタンたちが戻ってくるのか?
プロメテウス: 岩石や森林は戻ってこない。いまもあるのだ。かつてあったものは、これからもあるだろう。
ヘラクレス: でもおまえたちも鎖につながれたのだ。おまえだって。
プロメテウス: おれたちはひとつの名前だ、ほかの何ものでもない。おれの言うことをわかってくれ、ヘラクレス。そして世界には畑や大地のように季節があるのだ。冬は戻ってくる、夏は戻ってくる。森林が滅びるだの、そのままでありつづけるだの、口にできるものがいるだろうか? おまえたちはティタンになるのだ、まもなく。
ヘラクレス: おれたち死すべきものがか?
プロメテウス: おまえたち死すべきもの―あるいは、不死なるもの、それはどうでもよい。

(翻訳・持田 睦)
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2009年05月22日

第22話 ぶどう畑

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第22話(1946年7月26日-31日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


ぶどう畑
(09/9/16更新)

 迷宮の冒険のあと、テーセウスに捨てられたアリアドネーは、インド帰りのディオニュソスにナクソス島で拾われることになり、その終わりを天空で、星座に囲まれて迎えたのであった。

(レウコテアーとアリアドネーの対話)

レウコテアー: まだまだたっぷりと泣くつもりなのかしら、アリアドネー?
アリアドネー: あら、あなたは、どこからやってきたの?
レウコテアー: あなたと同じ、海からよ。それはそうと、泣くのはやめにしたの?
アリアドネー: もうひとりぼっちじゃないから。
レウコテアー: あなたたち死すべき女ってのは、だれかが耳を傾けているときにだけ泣くもんだと思ってたわ。
アリアドネー: ニンフにしては、あなたって意地悪なのね。
レウコテアー: それで、かれも出ていってしまったの? どうしてかれは、あなたを置いていってしまったんだと思う?
アリアドネー: あなたはじぶんがだれなのか、わたしに言ってくれていないわ。
レウコテアー: あなたがなしえなかったことをやってのけた女よ。海で自殺しようとしたの。わたしの名前はイーノだったわ。ひとりの女神さまがわたしを救ってくれたのね。今ではわたしは、島のニンフなのよ。
アリアドネー: わたしに何の用?
レウコテアー: そんな風にわたしに話すってことは、あなたはもう分かってるってことね。わたしがやってきたのは、美しい言葉とすみれ色の巻き毛を持つあなたの愛しい男の子が、永遠に出ていってしまったってことを、あなたに伝えるため。かれはあなたを捨ててしまったの。消えていった黒い帆が、あなたにかれが残してくれる最後の思い出になるのでしょう。駆けつけなさいな、声をあげなさいな、じたばたなさいな、どうせ手おくれなんだから。
アリアドネー: あなたも捨てられてしまったのは、あなたが自殺しようとしたからなの?
レウコテアー: わたしのことはどうでもいいの。でもあなた、わたしがする話の相手としてはふさわしくないわ。あなたって馬鹿だし、強情だもの。
アリアドネー: ねえ、海のニンフさん、あなたがわたしに話さなければいけないことが何なのか、わたしにはわからないわ。あなたは言葉が足りていないのか、それとも言い過ぎているのか。もしわたしが自殺したくなったとしても、わたしはじぶんひとりでやれると思うわ。
レウコテアー: いいかしら、お馬鹿ちゃん。あなたの苦しみなんて、なんでもありゃしないのよ。
アリアドネー: わたしにそんなことを言うために、あなたはやってきたの?
レウコテアー: どういうわけで、かれはあなたを置いていってしまったんだと思う?
アリアドネー: ああ、ニンフさん、そのことはやめてちょうだい…
レウコテアー: さあ、お泣きなさいな。そうすれば少なくとも、気持ちは楽になるんだから。お話するのはおやめなさいな、無駄なんだもの。そうすれば愚かさとごう慢さは、どこかへ行ってしまうんだから。そうすればあなたの苦しみは、その実際の姿で現れるんだから。でもあなたの心が張り裂けてしまわないかぎりは、あなたが雌犬のように吠え、燃えている木のように海のなかで消えようとしないかぎりは、苦しみを知っているなんてことを口にすることはできないでしょうね。
アリアドネー: もう張り裂けてしまった…わたしの心…
レウコテアー: 泣いてるだけでいいのよ、お話はしちゃ駄目…あなたは何も知らないんだから。別のお方が、あなたのことを待ってるのよ。
アリアドネー: あなたは今、なんていうお名前なの、ニンフさん?
レウコテアー: レウコテアーよ。わかってちょうだい、アリアドネー。黒い帆は永遠に出ていってしまったの。この物語りはおしまいを迎えてしまったんだわ。
アリアドネー: おしまいを迎えるのは、わたしの人生のほうよ。
レウコテアー: 別のお方が、あなたのことを待ってるのよ。あなたってお馬鹿なのね。あなたはあなたの土地で、神さまのことはだれも敬っていなかったの?
アリアドネー: いったいどの神さまなら、わたしのところに船を連れ戻すことができるって言うの?
レウコテアー: わたしがあなたに聞いているのは、どんな神さまをあなたは知っていたのかってことよ。
アリアドネー: わたしの故郷にはね、船乗りの人たちも恐れをなしていた山があるの。その上で偉大なる神々は誕生したんだわ。わたしたちはかれらを崇拝しているのよ。わたしはもう、かれら全員の名前を呼んでお祈りをしたんだけれど、だれもわたしを助けてくれないんだわ。わたしはどうしたらいいの? あなた、言ってちょうだいな。
レウコテアー: あなたは神々になにを期待しているの。
アリアドネー: もうなんにも期待なんかしてないわ。
レウコテアー: それじゃあ、聞いてちょうだい。とあるお方が動き始めたのよ。
アリアドネー: あなたはなにが言いたいの?
レウコテアー: あなたに話すことがあるとしたら、とあるお方が動き始めたってこと、それだけよ。
アリアドネー: あなたなんて、ただのニンフのくせに。
レウコテアー: 一介のニンフが、偉大なる神さまの来訪を告げるのかもしれなくてよ。
アリアドネー: だれなの、レウコテアー、いったいだれがやってくるっていうの?
レウコテアー: あなたが考えてるのは神さまのこと、それともきれいな男の子のこと?
アリアドネー: わたしにはわからないわ。あなたはなにを言ってるの? わたしは神々にひれ伏しているわ。
レウコテアー: じゃあ、あなたはわかっているのね。来訪するのは新しい神さまよ。すべての神さまのなかでいちばん若い神さま。かれはあなたのことを目に入れたことがあって、あなたを気に入っているの。名前はディオニュソスって言うのよ。
アリアドネー: わたしは知らないわ。
レウコテアー: かれの生まれはテーバイで、世界を歩き回っているの。喜びの神なのよ。みんながかれの後について行き、拍手喝采でかれを迎えるわ。
アリアドネー: 力は強いの?
レウコテアー: かれは笑いながら殺すわ。雄牛と虎を従えているのよ。かれの一生はお祭りで、あなたを気に入っているの。
アリアドネー: でもどうやってわたしのことを目にしたの?
レウコテアー: それはだれにもわからないわ。あなたはこれまでに、海沿いの丘の斜面にあるぶどう畑に行ったことがあるかしら、土地がその香りを放つ、ゆったりとした時のなかを。いちじくと松のあいだの、きつくてなかなか消えない香り。ぶどうが熟し、空気がその液で重たくなるとき。あるいはあなたはこれまでに、ざくろの木を、その果実と花を目にしたことがあるかしら。ディオニュソスはそこに君臨しているんだわ、木蔦の涼しさにつつまれ、松林のなか、麦打ち場のうえで。
アリアドネー: 神々がわたしたちのことを目にすることがないくらい、ひと気のない場所はないの?
レウコテアー: ねぇあなた、神々は、場所なのよ、ひと気のなさなのよ、過ぎていく時間なのよ。やがてディオニュソスはやってくるわ、そしてあなたは、麦打ち場のうえやぶどう畑のなかを過ぎていく、あのつむじ風のような強い風に、さらわれていくような思いをすることになるんだわ。
アリアドネー: かれはいつやってくるの?
レウコテアー: ねぇ、わたしはかれの来訪を告げているのよ。船が立ち去ったのはそのためなんだわ。
アリアドネー: それで、だれがそのことを、あなたに教えてくれたの?
レウコテアー: わたしはテーバイの生まれよ、アリアドネー。わたしはかれのお母さんの妹なの。
アリアドネー: わたしの故郷では、神々はイーダの山で誕生したって言われているわ。死すべきものはだれひとり、はるかかなたにある森の向こう側までは登っていかなかった。あなたの話したことを認めるなんて、わたしにはできそうもないわ。
レウコテアー: あなたはずいぶんと思い切ったことをしたことがあったじゃない、おちびちゃん。あなたにとっては、すみれ色の巻き毛を持つあのひとは、神さまみたいなひとだったんでしょ?
アリアドネー: そっちの神さまだったら、わたしは命を救ってあげたんだもの。こっちの神さまについては、わたしがなにをしてあげたっていうのかしら?
レウコテアー: たくさんのことをしてあげたわ。あなたは体を震わせ、苦しんだじゃない。死ぬことを考えたじゃない。覚醒とはなにかを知ったじゃない。今、あなたはひとりきりで、神さまを待っているんだわ。
アリアドネー: それで、かれはどんな様子なの? ひどく残酷なの?
レウコテアー: 神々はみんな残酷よ。それがどうしたの? 神聖な事がらはすべて残酷じゃない。抵抗するはかない存在を撲滅するんだわ。あなたはもっと強く覚醒するために、眠気に屈しなきゃいけない。神さまはだれだって、嘆き悲しむことを知らずにいるのよ。
アリアドネー: テーバイの神さま…あなたのこの…かれは笑いながら殺すって、あなたは言ったわよね?
レウコテアー: かれに抵抗するものを、ね。かれに抵抗するものは無と帰してしまう。でもほかのものに対しては、それほど残酷じゃないわ。微笑むことが、かれにとっては、呼吸することみたいなものなのよ。
アリアドネー: かれは死すべきものたちと変わらないのね。
レウコテアー: これもまた覚醒なのよ、お嬢ちゃん。場所を愛し、水の流れを愛し、日中のひとときを愛するのと似たことが、これから起こるんだわ。人間にはだれひとり、それだけのことはできやしない。神々は、じぶんたちを神々にしてくれる事がらが永くつづいていくかぎり、じぶんたちも永くつづいていくのよ。松とぶどう畑のあいだで山羊が飛び跳ねているかぎり、あなたはかれを気に入るでしょうし、かれはあなたを気に入るでしょう。
アリアドネー: わたしは死ぬのね、すべての山羊たちのように。
レウコテアー: ぶどう畑のうえには、夜、星も出るわ。あなたのことを待っているのは、夜に活動する神さまなの。怖がらないでね。

(翻訳・持田 睦)
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2009年05月14日

第16話 島

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第16話(1946年9月8日-11日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


(2011年11月6日更新)

 故国へ帰る途上、難船にあったオデュッセウスが九年間、オーギュギエー島にとどまったことは広く知られている。その島には古い女神であるカリュプソーのほかは、だれもいなかった。

(カリュプソーとオデュッセウスの対話)

カリュプソー: オデュッセウス、ちがいなんて大してありゃしない。あなただってわたしと同じで、ひとつの島にずっといたいのよ。あなたはありとあらゆるもの目にし、ありとあらゆることに苦しんできた。わたしもきっといつか、わたしが苦しんできたことをあなたに話してあげる。わたしたちはふたりとも、とんでもない運命にはもううんざりじゃない。どうして旅をつづけなきゃならないのよ。この島があなたの探し求めていた島でないからと言って、それがなんなのよ。ここだったら、なんにも起こらないのよ。あるのは地べたがほんの少しと水平線だけ。ここだったら、あなたはいつまでも生きていられるのよ。
オデュッセウス: 不死なる暮らしか。
カリュプソー: 不死ってね、瞬間を引き受けるもののことよ。明日のことなんてもはや知らないもののことよ。でもその言葉があなたのお気に召すんだったら、それを口にしなさいな。あなたはほんとうに、そんな境地にいるの?
オデュッセウス: ぼくは不死とは、死ぬことを恐れないもののことだと思っていたんだけれど。
カリュプソー: 生きることを望まないもののことよ。確かに、あなたはもうほとんどその状態だわ。あなたもたくさん苦しんできたのね。なのにどうして、あなたはしきりにお家に帰りたがるの。あなたはずっとそわそわしてる。どうして、岩礁のあいだで、自分ひとりとお話しつづけるほうがいいのよ。
オデュッセウス: もしぼくが明日出ていったら、きみは不幸せになるかな。
カリュプソー: 余計なことを知りたがるのね、あなたったら。たとえばわたしが不死だとするわよ。でも、もしあなたが、あなたの思い出や夢をあきらめることもなく、熱望を静めることもなく、水平線を引き受けることもないのなら、あなたは自分が知っているあの運命の外に出ることもないのよ。
オデュッセウス: いつだって、水平線を引き受ける話ばかり。それで、なにが手に入るの。
カリュプソー: そうね、頭をもたせかけて落ち着くことと沈黙することが手に入るわね、オデュッセウス。あなたはこれまでに、どうしてわたしたちも眠りを探し求めるのか、自分に尋ねてみたことはあって? あなたはこれまでに、この世の中から気づかれずにいる古い神々がどこへ行くのか、自分に尋ねてみたことはあって? どうして、時間のなかに沈んでいってしまうのかって、石が地べたのなかに沈んでいくみたいに、石は永遠であるっていうのに。それから、わたしはだれなの、カリュプソーってだれなのって、尋ねてみたことはあって?
オデュッセウス: ぼくがきみに尋ねたのは、きみが幸せかどうかってことなんだけど。
カリュプソー: そういうことじゃないの、オデュッセウス。空気が、ただ海と鳥の声が鳴り響くばかりのこの見捨てられた島の空気までが、あまりにもからっぽなのよ。このからっぽのなかには、よく見てちょうだい、嘆き惜しまなきゃいけないことなんてなんにもないわ。でもあなただって何日かは、静寂、休止を感じているんじゃないかしら、まるで古くに、消えてなくなってしまった緊張と存在の痕跡であるような、静寂、休止。
オデュッセウス: それじゃあ君も、岩礁に話しかけているの?
カリュプソー: わたしが言ってるのは、静寂があるってこと。それは、はるか遠くにある、ほとんど死のようなもの。むかしはあったけれど、これからはもうありえないもの。神々の古い世界のなか、わたしの身ぶりが運命だったころにあったもの。わたしにはむかし、恐ろしい名前がいくつかついていたのよ、オデュッセウス。地べたも海も、わたしに服従していたんだわ。で、わたし、うんざりしちゃったのよ。時間が過ぎ、わたしはもう動きたくなくなってしまったの。わたしたちのなかには、新しい神々に逆らったものもいたわ。わたしはね、名前が時間のなかに沈んでいくのを放っておいたの。なにもかもが変わり、のっぺりになったわ。運命のために、新しいものたちとけんかしたって、骨折り損のくたびれもうけよ。わたしはやっと、自分の水平線を、古いものたちがわたしたちとけんかしなかった理由を知ったんだわ。
オデュッセウス: 君はむかし、不死ではなかったってこと?
カリュプソー: いまもむかしも不死のままよ、オデュッセウス。わたしは死にたくない。そして生きていたくもない。わたしは瞬間を引き受けるのよ。あなたたち、死すべきものたちを待ちかまえているのは、年老いていくことや嘆き惜しんだりすること、そんなことだわ。あなたもわたしのように、この島に頭をもたせかければいいじゃない。
オデュッセウス: そうしたいな、もしきみが観念してるって、ぼくに思えるんだったら。でも、かつてはありとあらゆるものの主人であったというきみだって、きみの忍耐の助けとするために、ぼくを、死すべきものを必要としているじゃない。
カリュプソー: おたがいのためになることなのよ、オデュッセウス。ほんとうの静寂は、分かち合われることなしには存在しないんだわ。
オデュッセウス: いままさに、ぼくがきみといっしょににいるだけでは不十分なの?
カリュプソー: あなたはわたしといっしょにいてくれてなんかいないじゃない、オデュッセウス。あなたはこの島の水平線を引き受けてくれないもの。それであなたは、嘆き惜しむことを免れないんだわ。
オデュッセウス: ぼくが嘆き惜しんでいるものが、ぼくのなかの生きている部分なんだ、ちょうどきみにとっては、きみの静寂がそうであるのと同じようにね。きみにはいったいどんな変化があったというの、地べたと海がきみに服従していたあの日から。きみはひとりぼっちだと、うんざりしてしまったと感じ、きみの数ある名前を忘れてしまった。なにひとつ、きみからは奪われることはなかった。いまあるきみに、きみはなりたかったのさ。
カリュプソー: いまあるわたしはほとんど無だわ、あなた。ほとんど死すべきものなのよ、あなたと同じでほとんど影なの。いつ始まったのかだれも知らない長い眠りがあって、あなたは夢と同じく、この眠りのなかにたどりついたんだわ。わたしは夜明けを、目覚めを恐れている。もしあなたが行ってしまったら、やってくるのは目覚めなのよ。
オデュッセウス: きみらしくないよ、女主人さん、そんな話し方をするなんて。
カリュプソー: わたしは目覚めを恐れているの、あなたが死を恐れているみたいに。そうだったのね、以前のわたしは死んでいたってことが、いま分かったわ。わたしに関するもので、この島に残されていたのは、海の音と風の音だけだったのね。ああ、苦しみもなかったんだわ。わたしは眠っていたんだもの。でもあなたがたどりついたときから、あなたのなかにある別の島が持ちこまれてしまっていたんだわ。
オデュッセウス: ずいぶん前から、ぼくはその島を探し求めているんだよ。きみは知らずにいるんだ、陸地の姿を認めようとして、毎回、みずからの目をあざむくために、薄目をあけるようなまねをするってことを。ぼくには引き受けることも、黙りこむこともできやしないよ。
カリュプソー: でもね、オデュッセウス、あなたたち人間は言ってるじゃない、失ったものを取り戻すのは、いつだって悪いことなんだって。過去は戻ってこないんだわ。時間の進行に耐えきれるものなんてなにもないもの。オケアノスや怪獣やエリュシオンの野を目にしたあなたが、家々を、あなたの家々を、いまでも見分けることができるのかしら。
オデュッセウス: きみはいつも言ってたじゃない、ぼくのなかにある島を、ぼくは持ちこんでいるって。
カリュプソー: ああ、島は変わってしまったの、失われてしまったの、静寂なの。岩礁のあいだでこだまする海の音や、わずかにたなびく煙なのよ。こうしたものをあなたと分かち合えるものはだれもいないでしょうね。家々は老人の顔つきと似てるでしょうね。あなたの言葉はかれらの言葉とはちがった意味を持つでしょうね。あなたは海にいるよりも、孤独でしょうね。
オデュッセウス: 少なくともそこに腰を落ち着けなきゃいけないことぐらい、ぼくには分かると思うよ。
カリュプソー: くたびれもうけの骨折り損よ、オデュッセウス。いま、即座に腰を落ち着けない人は、二度と腰を落ち着けることがないんだわ。あなたがいましていることを、あなたはいつでもすることになるのよ。あなたもいつかは運命を打ち砕かなきゃいけなくなり、道を外れて、じぶんを時間のなかに沈めこませなきゃいけなくなるのに…
オデュッセウス: ぼくは不死なんかじゃないんだけど。
カリュプソー: そうなれるのよ、わたしの言うことを聞いてくれたら。永遠の生命って何なのでしょう、近づいてくる瞬間と過ぎていく瞬間を、引き受けることでないのだとしたら? 酔っぱらうのも、気持ちいいことをするのも、死ぬのも、ほかに目当てなんかないんだわ。あなたが落ち着きなくさまよっていたことが、これまでいったい何になったというの?
オデュッセウス: それが分かるのなら、とっくにやめていただろうね。でもきみは、あることを忘れているよ。
カリュプソー: 言ってちょうだい。
オデュッセウス: ぼくが探し求めているものは、ぼくの心のなかにあるんだ、きみと同じようにね。

(翻訳・持田 睦)
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2009年04月14日

第10話 道

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第10話(1946年4月7日-12日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)


(09/5/13更新)

 オイディプスは、スフィンクスに勝利し、イオカステと結婚した後に、キタイロンの山上でかれを救ってくれた羊飼いを尋問した際、自分が誰であるかを見出したということは、誰もが知っていることだ。それはすなわち、かれが父を殺害し、母と結婚するという神託が真実であったということであり、オイディプスは恐怖のあまり自ら盲目となって、テーバイの街の外に出て行き、浮浪者となって死んだのであった。

(オイディプスと物乞いの対話)

オイディプス: おれは他のものたちと同じたぐいの人間ではない、友よ。おれは定めによって、弾劾されているのだ。おれはおまえたちのもとで王権を握るために生まれてきた。おれは山育ちだ。山ややぐらを目にすると、おれは興奮した―あるいはちりにまみれて歩いているときに、街を遠くに目にしても。おのれの定めを探し求めることを、おれは知らずにいたのだ。今ではもう、おれはなにひとつ目に入れることもなく、山はただ、おれを疲弊させるばかり。おれのなすことはすべて、運命なのだ。分かるか。
物乞い: おれは年老いている、オイディプスよ、おれは、運命のほかにはなにも目にしてこなかった。それはそうとおまえは、他のものたちが―奴隷も、背中にこぶのあるものも、体が不自由なものも―おまえのようにかつてテーバイの王であったことを望まないとでも思うのか。
オイディプス: おれの言うことを分かってくれ、友よ。おれの運命は、なにかを失ってしまったということではなかった。おれを不安にしているのは、年齢でも体の不調でもない。おれはさらにもっと落ちぶれてしまいたいし、なにもかも忘れてしまいたい―それは万人に共通の定めだ。だが、オイディプスでは、ありたくないのだ、我知らず王権を握っていなければならなかった人間では、ありたくないのだ。
物乞い: おれには分からない。主人であり、食べて飲んで、寝台で眠っていたなんて、 ありがたいことではないか。死んだものは、もっとひどい有り様だ。
オイディプス: おれがおまえに言っているのは、そういうことではない。おれが悔やんでいるのは最初、まだおれがなにものでもなく、他のものたちと同じたぐいの人間でありえたころのこと。だが、だめだったのだ、運命が待ちかまえていたのだ。おれは出かけねばならず、よりによってテーバイにたどり着かねばならなかった。おれはあの年寄りを殺さねばならなかった。あの子どもたちをもうけねばならなかった。果たすだけの価値があるのだろうか、まだおまえが存在すらしなかったころに、すでに果たされてしまっているようなことを。
物乞い: 果たすだけの価値があるのだ、オイディプスよ。おれたちはせざるをえない、それで十分だ。残りのことは、神々に委ねるがいい。
オイディプス: おれの人生に神々はいない。おれの身に降りかかるものは、神々よりも残酷だ。おれはかつて、みなと同じように無知なまま、立派に行為しようと努めていた。夜、おれに慰めを、明日はもっと立派に行為し終えているという希望をもたらすかもしれない未知なる善行を、日々見い出そうと努めていた。不信心なものにさえ、この喜びが欠けることはない。おれのそばにあるのは、疑惑、不確かな噂、脅迫。はじめからただ神託だけが、悲しい言葉だけが存在し、おれはそれから逃れることを願った。あのすべての年月をおれは、逃亡者が襲撃にあうのを用心するかのように生きた。おれは大胆にも、ただおのれの考えだけを、闘いが中断した一瞬だけを、不意の目覚めだけを信じようとした。おれはいつも待ち受けていた。そして、逃げなかった。まさしくそういった瞬間に、運命は現実となっていた。
物乞い: しかし、オイディプスよ、みなにとって、そうしたものなのだ。これが運命という言葉のもつ意味なのだ。もちろん、おまえの境遇はひどくつらいものではあったが。
オイディプス: ちがうんだ、おまえは分かっていない、おまえは分かっていない、そういうことではないんだ。おれはもっとひどくつらいものであればいいと思っている。おれの果たしてきた行為が、おれの望んできたものであるならば、おれはもっとけがらわしく、もっとみじめな人間でありたいほどなのだ。実際はそのような被害を受けることもなく。別の行為を果たそうとして、成し遂げられたためしもなく。いったいオイディプスが、今なお何者であると言うのだ、おれたちみんな、何者であると言うのだ、おまえの血のなかでもっとも内密にされている欲望にいたるまで、おまえが生まれるよりも前になお存在しており、こうしたすべてのことがすでに言われていたのだとすると。
物乞い: おそらくは、オイディプスよ、しあわせな日々がおまえにもあったはずだ。おれが言っている日々とは、おまえがスフィンクスに対して勝利をおさめ、テーバイが街をあげておまえを拍手喝采とともに迎え入れたときのことでなければ、おまえに最初のむすこが誕生したときや、おまえが宮殿のなかで助言に耳を傾けながらいすに座っていたときのことでもない。こうしたことを、おまえがもはや考えることができないのは、わかっている。だがおまえだってやはり、みなが生きる生を生きたのだ。おまえは若く、世界を目にし、笑って、遊んで、話をし、分別を失うことはなかった。おまえは事物を、目覚めと休息を享受し、道をかっぽした。いまおまえが盲目であるのは、わかっている。だがおまえは、ほかの日々を目にしたことがあるのだ。
オイディプス: そのことを否定するのは狂気じみている。それにおれの人生は長いものであった。だが、もう一度、おまえに言っておこう、おれはおまえたちのもとで王権を握るために生まれてきた。熱があるものにとっては、もっとも美味な果実も、ただいらだちと吐き気ばかりを与えるもの。そしておれの熱とは、おれの運命だ―まったくもって周知のことがらを成し遂げるという恐れだ、絶え間のない恐怖心だ。おれには分かっていた―いつだって分かっていた―おれはリスみたいなものだということが。上に登っていると思っているけれど、ただひたすらかごを回転させているだけのリス。そしておれは自問するのだ。オイディプスとは誰だったのか、と。
物乞い: 大いなる、真なる主人、おまえは自分のことをそう呼んでいい。おれは道で、テーバイの門で、おまえのことを話しているのを耳にしていた。ひとびとのなかには、家を離れ、ボイオティアをぶらつき、海を目にし、そしておまえと同じ定めを手にするために、デルポイに足を運び、神託をうかがうものもいた。おまえの運命は他のものたちの運命を変えてしまうほど、奇異であったということだ。一方、いつもひとつの村で、ひとつの仕事を、毎日たったひとつの身ぶりだけをして暮らす男、ありふれた子どもとありふれた祭日があり、自分の父親と同じ齢にありふれた病で死んでいく男のことを、いったいどう呼んだらいいものか。
オイディプス: おれは他のものたちと同じたぐいの人間ではない、それは分かっている。だが奴隷や愚かものも、自分の日々がどうなるのか分かってしまったら、そこで見つかるあの貧弱な喜びに嫌気がさすだろうことも、おれには分かっている。おれと同じ運命を追い求めている哀れなものたちは、みずからの運命からはたして逃れているのだろうか。
物乞い: 人生とは大いなるものだ、オイディプスよ。おまえに話をしているおれも、哀れなものたちのひとりだったのだ。おれは家を離れ、ギリシアを歩き回った。デルポイを目にし、海にたどりついた。おれは出会いを、幸運を、スフィンクスを待ち望んでいた。おまえがテーバイの王宮でしあわせにしているのを、おれは知っていた。当時、おれはたくましい男だった。たとえスフィンクスが見つからなくても、どの神託も、おれのためには言葉を発してくれることがなかったとしても、おれは自分が過ごしている人生を気に入っていた。おまえがおれの神託だったのだ。おまえがおれの運命をひっくり返してしまったのだ。物乞いをしようが、王権を握ろうが、そんなことは問題でない。おれたちはふたりとも、生きてきたのだ。そのほかのことは、神々に委ねるがいい。
オイディプス: おまえは決して知ることはないだろう、おまえが果たした行為を、おまえが望んでいたのかどうかを…ところで、だれもいない道にはどことなく人間らしいところが、ひたすら人間らしいところがあるのは確かなようだ。その曲がりくねった孤独のなか、道はおれたちを空洞化するあの痛みの像のようだ。慰めのような痛み、蒸し暑さのあとにつづく雨のような―無言のまま穏やかに、事物から、心の奥底からとうとうと湧き出るように思われる痛み。この疲れ、この平和はおそらく、運命の騒々しさのあと、真におれたちのものであるところの唯一のものなのだ。
物乞い: むかし、おれたちは存在していなかったのだ、オイディプスよ。したがって、心の欲求も、血も、目覚めも、無から出てきたのだ。おれは今にでも口にしてしまいそうだ、運命から逃れようとするおまえの欲望もまた、それ自体が運命である、と。おれたちの血を作り出したのはおれたちではない。そのことを知り、神託に従って伸び伸びと生きるのも悪くあるまい。
オイディプス: おれの運命を追い求めている限りは、友よ、それでいい。おまえは一度もそこに到達しなかったという幸運を手にしていたのだから。だが、おまえがキタイロンの山に戻り、山のことのほかは何も考えられなくなる日がやってくるのだ。山はおまえにとっては過ぎ去った幼年期で、おまえはそれを毎日目にし、そしておそらくは、そこを登っていく。すると誰かがおまえに告げるのだ、おまえはこの上で生まれた、と。そして、全ては崩れ落ちていくのだ。
物乞い: おまえの言うことは分かる、オイディプスよ。だが、おれたちみんなに、幼年期の山はあるのだ。そして、どんなに遠く離れたところを流浪しようとも、自分の居場所は山の小道の上にあるのだ。おれたちはそこで、今あるおれたちに作り上げられたのだ。
オイディプス: 話をすることと苦痛を味わうことはまったく別物だ、友よ。だが確かに、話をしながら心のなかで何かが静まることはある。話をすることは、目的もないまま、自分たちの好きなように、日夜、道を進んでいくことと少し似ていて、若者が幸運を追い求めている様子とはちがうのだ。おまえはたくさんのことを口にし、たくさんのこと目にしてきた。おまえが王権を握りたかったというのは本当か。
物乞い: さぁどうだろう。確かなのは、おれが変わらなければならなかったということだ。あるものを追い求めながら、まったく別のものを見い出す。これもまた運命だ。だが、話をすることは、おれたちが自分自身を再び見い出すための助けになるのだ。
オイディプス: それで、おまえには家族はいるのか。誰かいるのか。そうは思えないが。
物乞い: そうだとしたら、今あるおれはいないだろう。
オイディプス: 奇妙なことだ、もっとも身近なものを理解するためには、 そのものをおれたちが遠ざけねばならないとは。そしてもっとも真なる語らいは、偶然に、見知らぬものどうしで交わされる語らいなのだ。ああ、このようにおれは生きなければならなかったのだ、おれ、オイディプスは、ポーキスとイストモスの道に沿って、おれの目がおれについていたときに。そして山を登ってはならなかったのだ、神託に耳を傾けてはならなかったのだ…
物乞い: おまえは少なくとも、おまえが交わした語らいのなかのひとつを忘れている。
オイディプス: どの語らいだ、友よ。
物乞い: スフィンクスのいる十字路での語らいだ。

(翻訳・持田 睦)
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2009年03月13日

第27話 神々

 以下に掲載するパヴェーゼの『レウコとの対話』の第27話(1947年3月9日-11日筆)は、ストローブ夫妻の映画『あの彼らとの出会い』の最後の対話として映像化されています。
(持田 睦)


神々
(2010年12月15日更新)


 ―山は荒れ放題だ、友よ。このあいだの冬で赤茶けた草の上は、雪でまだらになっている。まるでケンタウロスの外套のようだ。こうした標高の高い場所はすべてこんな様子だ。ささいなことがあればいい、それだけで一帯は、これらのものが生起していたころと同じ一帯に戻るのだ。
 ―かれらが、それらを目にしたというのは、ほんとうかと自問しているのだが。
 ―だれがそれを口にできるだろう。だがそうなのだ、目にしたのだ。かれらは、あのものたちの名前を語り、それ以上のことはなにもしなかった―作り話と真実のちがいはすべてここにある。「あんなものやこんなものが存在した」、「そのものはこんなことをして、あんなことを言った」。真実を語るものは満ち足りている。かれはじぶんの言うことを信じてくれないものがいるかもしれないと、怪しむことさえない。ぼくらはこれらのものを一度も目にしたことがないくせに、ケンタウロスがどんな外套を身につけていたか、あるいはイカリオスの麦打ち場のうえに広がるぶどうの房の色などを事細かに知る、嘘つきどもなのだ。
 ―丘があり、頂上があり、海岸があればいい。人けのないところがありさえすればいい、きみの視線がそこからふたたび上へと向かい、天空にとどまりさえすればいい。ものは、空中で信じがたいまでに際立ってあらわれ、今日なお、こころを震わせてくれる。ぼくにとっては、天空の上でくっきりと輪郭づけられた木や岩は、はじめからずっと神々であるように思われるのだ。
 ―これらのものは、必ずしもいつも山の上に存在したわけではない。
 ―もちろん。はじめに存在したのは大地の声だ―泉、根っこ、へび。もし霊が大地と天空を結びつけるのならば、それは光のある方へ、地の暗がりから出てこなければならないのだ。
 ―どうだろうか。あのひとたちはあまりにも多くのものを知っていた。かれらはかんたんな名前で、雲、森、運命を語っていた。ぼくらがかろうじて知っているものを、かれらは確かに目にしたのだ。かれらには、夢まぼろしのなかに没頭する時間もなければ、そうした趣味もなかった。かれらは身震いするような、信じがたいものを目にし、そして驚きもしなかった。何が存在するのかを知っていたのだ。もしあのひとたちが嘘をついていたとすると、きみが「朝だ」とか「雨が降りそうだ」と口にするとき、きみの頭もどうかしていたということになってしまう。
 ―かれらが名前を口にしていたということ、それはそのとおりだ。あまりにもたくさん口にしたので、時おり、はじめに存在したのは、もののほうなのか、それともあの名前のほうなのかと自問するほどだ。
 ―それらはともにあったのだ、ぼくが思うには。しかもここにあったのだ、この荒れ放題の、孤独な土地に。かれらがここまでやってきたというのは、驚くようなことだろうか。いったいほかになにを、あのひとたちはここで見つけだすことができたというのだろう、神々との出会いのほかに。
 ―かれらがここに足をとどめた理由を口にすることは、だれにもできまい。だがすべての見捨てられた場所には、空虚と期待が残されている。
 ―この上ではほかになにも考えることはできない。こうした場所は名前を永遠に抱きつづける。天空の下には草が生えているだけ、それなのにそよ吹く風は、森のなかの嵐よりも強く、記憶のなかで激しく鳴り響く。空虚も期待もありはしない。かつて存在したものは、永遠に存在しつづけるのだ。
 ―だがかれらは死んでしまい、埋められてしまった。今ある場所は、あのものたち以前にそうであった場所であるかのようだ。かれらが口にしたものはほんとうに存在したということを、ぼくはきみに対して認めたいと思う。そのほかには、なにも残されていない。きみは同意してくれるだろう、山の小道で神々と出会うことは、もはやないのだということを。ぼくが「朝だ」とか「雨が降りそうだ」と口にするとき、あのものたちのことを話してはいないのだ。
 ―昨夜、ぼくらは、あのものたちのことを話した。昨日、きみは夏のことを、そして夕方に生あたたかい空気を吸い入れたいときみが感じる欲望のことを話していた。また別の時には、人間のことを、きみといっしょにいたひとたちのことを、きみの過去の好みのことを、思いもかけない出会いのことを、きみはいろいろと語る。すべてのものはむかし、存在したのだ。きみにはっきりと言っておこう、ぼくはきみの話すことを耳に入れたが、それはあたかもあの古い名前を、ぼくのこころのなかでふたたび耳にするかのようにそうしたのだ。きみがきみの知っているもののことを物語るとき、ぼくはきみに「なにが残されているのか」とか、はじめに存在したのは、言葉のほうなのか、それとも、もののほうなのかと応えることはしない。ぼくはきみとともに生き、そのようにして、じぶんが生きていることを実感するのだ。
 ―過ぎ去った時代において生起していたものが、あたかもほんとうに存在しているかのように生きるのは容易なことではない。昨日、荒れ放題の土地の上で、霧がぼくらをつつみ、丘の上から石がいくつか、ぼくらの足もとに転げ落ちてきたとき、ぼくらが思ったのは、神的なもののことでもなければ、信じがたい出会いのことでもなく、ただ夜であることと、逃げていく野うさぎのことだけだった。ぼくらがいったいなにものであり、そしてなにを信じているかは、災難を前にし、危険にさらされたときに、表にあらわれるものだ。
 ―昨夜のこと、そして野うさぎのことは、ぼくらが家にいるときに、友人たちとふたたび話し合うのが良いだろう。それでもやはり、その身にふりかかるすべてのものが命にかかわっていたむかしのひとびとの苦悩を思うと、ぼくらのこの恐怖に関しては、ほほえみを浮かべざるをえない。ひとびとにとって、空気は夜の恐怖、謎めいた脅迫、恐ろしい記憶で満ちあふれていた。悪天候や地震のことでも思い浮かべてくれ。そしてもし、この居心地の悪さが、だれもが認めるように、ほんものであったとしたら、勇気も、希望も、出会いを約束する能力の幸運な発見もまた、ほんものなのだ。ぼくはと言えば、かれらが、あのものたちの夜の恐ろしさのことや、待ち望んでいたもののことを話すのを耳にするのは嫌いなことではない。
 ―つまりきみは、怪獣を信じていると言うのか、けものと化した人身を、生命ある岩を、神的なほほえみを、かれらを無に帰せしめていた言葉たちを、信じていると言うのか。
 ―ぼくが信じているのは、すべての人間が待ち望んでいたこと、そして苦しんでいたことだ。もしむかし、かれらが標高の高いこの岩場まで登ってきたり、あるいは 天空の下、死を招く沼地を探し求めたのだとしたら、その理由はそこで、ぼくたちの知らないことを探していたからだったのだ。それはパンでもなければ、喜びでもなく、大切な健康でもなかった。今、これらのものがどこにあるかは知られている。ここではない。そしてぼくら、ここから遠く離れ、海に沿って、あるいは田園のなかで暮らすものは、もうひとつのことを失ってしまったのだ。
 ―では、それを言ってくれ、そのことを。
 ―きみはもう、それを知っている。あのものたちとの出会いだ。


(翻訳・持田 睦)
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2009年02月21日

第14話 主人/客人

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第14話(1947年2月22日-23日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。ちなみにこの対話は、ストローブ=ユイレの映画『雲から抵抗へ』第一部の5番目の対話になりますが、この対話を映画の台本にする際、ストローブ=ユイレは主に省略という仕方で手を加えていますので、映画の台詞と完全に一致するわけではありません。
(持田 睦)


主人/客人
(09/3/13更新)

 プリュギアとリュディアは常に、ギリシア人たちが残虐行為を好んで語る際の舞台となる地域であった。むろんすべてがかれらの祖国でおこった出来事であるが、かなり昔の時代のことになる。
 刈り入れの競争の敗者がだれであるかは言うにおよばないことだ。


(リテュエルセスとヘラクレスの対話)

リテュエルセス: ここが畑だ、異人さんよ。おれたちは手厚くもてなすからな、あんたたちのお国のあんたたちのもてなしのように。あんたはここから逃げることはできないんだ、そしておれたちといっしょにした飲み食いのように、おれたちの大地はあんたの血を吸い入れることになるだろう。マイアンドロス川は来年、今年よりもぎっしりと、そしてびっしりと一帯を埋めつくす小麦を目にすることになるだろうよ。
ヘラクレス: おまえたちは過去に、畑の上でたくさんのひとを殺したのか。
リテュエルセス: かなりな。ただあんたほどの腕力を持つものは、だれひとりいなかったし、ひとり殺せば十分というものもいなかった。それにあんたの体毛は赤く、花のような瞳をしている―あんたはこの大地に精力を与えてくれるだろうよ。
ヘラクレス: いったいだれが、そういったしきたりをおまえたちに教えたのだ。
リテュエルセス: ずっとそうしてきたんだ。もしあんたが大地に栄養を与えないのなら、お返しに大地があんたに栄養を与えてくれるようにと、大地に頼むこともできないだろうよ。
ヘラクレス: 今年はすでに、おまえの小麦は豊作であるようにおれには見えるのだが。刈り入れを行うものの肩の高さまであるではないか。おまえたちはいったいだれののどをかっ切ったのだ。
リテュエルセス: よその国のものはひとりもやってこなかったのだ。おれたちは老いぼれの奴隷と雄ヤギを殺した。大地がかろうじて感じとることができたのは、弱々しい血だった。小麦の穂を見てみろ、中身は空っぽだ。おれたちが引き裂く肉体は、まずは汗をかかなければいけないのだ、日照りのなか、泡立つような汗を。おれたちがあんたに小麦を刈り取らせ、その束を運ばせ、疲労感に浸らせようとするのは、そのためだ、そして最後にあんたの血が、生き生きと純粋に沸き立つときはじめて、あんたののどを切り開く瞬間がやってくるというわけだ。あんたは若く、そして力強い。
ヘラクレス: おまえたちの神々はなんて言ってるんだ。
リテュエルセス: 畑の上に神々はいない。存在するのは、大地、「母親」、「岩屋」だけで、それはいつでも待ちかまえていて、ただ流れ出る血の下だけで目を覚ますのだ。今晩、異人さんよ、あんたみずからが岩屋のなかに入っていくことになるだろうよ。
ヘラクレス: おまえたちプリュギア人は岩屋のなかに降りていかないのか。
リテュエルセス: おれたちは生まれてくるとき、そこから出てくるんだ、あわててそこに戻ることはない。
ヘラクレス: わかったぞ。そうやって血を肥やしとすることが、おまえたちの神々には必要なことなんだな。
リテュエルセス: 神々ではなく、大地だ、異人さんよ。あんたたちは大地のうえで生きていないのか。
ヘラクレス: おれたちの神々は大地にはいないが、海と大地を、森と雲を治めている、あたかもひつじ飼いがひつじの群れを飼い、主人が奴隷に命令をするように。かれらは離れたところ、山のうえにいるのだ、あたかも思考が、それを口にするものの目のなかにあるように、あるいは雲が、空に浮かぶように。かれらは血を必要としないのだ。
リテュエルセス: あんたの言うことはわからんな、異国からやってきた客人よ。雲も崖も岩屋も、おれたちにとっては同じ名前であり、たがいに離れてはいない。「母親」がおれたちにくれた血を、おれたちは汗をかき、糞をし、死ぬことで、「母親」に返すんだ。まったくもってほんとうにあんたは、遠くからやってきたんだな。そのあんたがたの神々は、なにものでもありはしない。
ヘラクレス: かれらは不死なるものたちの一族だ。かれらは森を、大地を、その怪獣たちを打ち負かした。かれらは、おまえのように、大地に栄養を与えるために血をまきちらしたものをみな、岩屋のなかへと追いやった。
リテュエルセス: おいおい、やっぱり、あんたの神々はじぶんたちがしていることをわかってるんじゃないか。かれらもまた、大地の渇きをいやさなければならなかったんだ。それにあんたは、渇きをいやしていない大地から生まれたにしては、あまりにも頑丈すぎる。
ヘラクレス: さぁ、それでは、リテュエルセスよ、刈り入れをしないか。
リテュエルセス: 客人よ、あんたは変わっているな。いままでだれひとり、畑を前にしてそうしたことを口にした男はいなかった。あんたは小麦の穂の上で迎える死が恐くないのか。あんたはきっと、ウズラやリスのように、畑の溝を通って逃げ出そうと思っているんだろう。
ヘラクレス: もしおれの理解が十分ならば、それは死ではなく「母親」のもとへ帰りつくことであり、手厚いもてなしにほかならない贈り物みたいなものだ。畑の上で精を出しているこの農夫たちはみな、祈りと歌でもって、かれらのために血を与えてくれるものを歓迎するだろう。それは大いなる名誉だ。
リテュエルセス: 客人よ、有り難い。あんたにはっきりと言っておくが、去年おれたちがのどをかっ切った奴隷は、そんなふうには話をしなかった。老いぼれていて、やつれ果てているにもかかわらず、樹皮の綱で縛り付けねばならず、ずいぶん長いこと鎌の下でもがいたため、倒れる前にすでに出血多量で死んでしまうほどだったのだ。
ヘラクレス: 今回は、リテュエルセスよ、もっとましに事は運ぶだろう。それで、話してくれないか、不幸なものを殺したら、おまえたちはそのものをどうするのだ。
リテュエルセス: そのものはまだ息のあるうちにずたずたに裂かれ、おれたちはその破片を畑にまく、「母親」に触れるためにな。血まみれの頭部は花と小麦の穂を巻きつけて保管され、歌と陽気な雰囲気のなか、おれたちはマイアンドロス川のなかにそれを投げ入れる。というのも「母親」は大地であるばかりでなく、あんたに話して聞かせたように、雲でもあり、水でもあるのだからな。
ヘラクレス: おまえはいろいろなことを知っているのだな、おまえ、リテュエルセスよ、おまえがケライナイの畑の主人であることにも、理由がないわけではないのだな。それからペッシヌスでは、話してくれないか、そこではたくさんひとが殺されているのか。
リテュエルセス: いたるところでな、異人さんよ、お日さまの下、ひとは殺されているのだ。おれたちの小麦は、肉片に触れた土くれからしか芽を出さない。大地は生きている、そして栄養状態はやはり良くなければならないのだ。
ヘラクレス: だがなぜおまえたちが殺すのは、異国のものでなければならないのだ。おまえたちを作り出した大地、岩屋はやはり、じぶんたちにより似ている体液を取り戻すことのほうが好ましいはずではないだろうか。おまえだってそうだろう、食事をするとき、自分の畑で取れたパンやぶどう酒のほうが好ましくはないか。
リテュエルセス: おれはあんたが気に入ってるんだ、異人さんよ、あんたはまるでおれたちの息子であるかのように、おれたちの幸福を大事に思ってくれている。だが少し考えてもらいたい、なぜおれたちがこうした労働で疲弊し、苦悩しつづけているのかということを。生きていくため、そうではないか。となると収穫物を楽しむために、おれたちが生き残り、他のものを殺すのは公正なことだ。あんたは農夫ではないな。
ヘラクレス: だが殺害を終わりにする方法を見い出して、異国のものも土地のものも、すべてのものが小麦を食べるようになれば、よりいっそう公正であるのではないか。この平野の大地と雲と太陽の力を、ひとりで永遠に豊かにしてくれるような人間を、最後に殺すのはどうだ。
リテュエルセス: あんたは農夫ではないな、おれにはわかるのだ。おまえは夏至と冬至がくるたびに、大地が新しく始まり、そして一年がめぐると、一切が消耗しつくされることさえ知らないのだ。
ヘラクレス: だがこの平野には、先祖代々、季節のすべての液や汁によって栄養を与えられているもの、極めて豊かで、極めて力強く、非常に上質な血が流れているので、過ぎ去った季節の大地を回復させるのに、この一回限りで十分となるものが、いるのではないだろうか。
リテュエルセス: あんたはおれを笑わせてくれる、異人さんよ。まるでおれのことを話しているみたいではないか。おれはケライナイでただひとり、代々に渡るおれの先祖を通じて、常にここに生きてきたものだ。おれは主人だ、そしてあんたたはそれを知っている。
ヘラクレス: 実際、おれはおまえのことを話しているのだ。刈り入れをしよう、リテュエルセスよ。おれはこの血なまぐさい仕事をするために、ギリシアからやってきたのだ。刈り入れをしよう。そして今晩おまえは、岩屋のなかに戻っていくことになるだろう。
リテュエルセス: あんたはおれを、おれの畑の上で殺すつもりなのか。
ヘラクレス: おれは死ぬまでおまえと闘うつもりだ。
リテュエルセス: あんたは少なくとも、鎌の動かし方ぐらいは知っているんだろうな、異人さんよ。
ヘラクレス: 黙れ、リテュエルセスよ。はじめるぞ。
リテュエルセス: なるほど、両腕は、頑丈なのを持っているな。
ヘラクレス: はじめるぞ。

(翻訳・持田 睦)
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2009年01月30日

第15話 火

 以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第15話(1946年9月18日-21日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。ちなみにこの対話は、ストローブ=ユイレの映画『雲から抵抗へ』第一部の最後の対話になりますが、この対話を映画の台本にする際、ストローブ=ユイレは主に省略という仕方で手を加えていますので、映画の台詞と完全に一致するわけではありません。
(持田 睦)


(09/3/4更新)

 ギリシア人も人間をいけにえにする行為を実践していた。農耕文明はみな、そうしたことを行っていた。そして文明はみな、農耕文明だった。

(ふたりの羊飼いの対話)

息子: 山全体が燃えてるね。
父: まだ序の口だ。きっと今夜は、キタイロンの山が見ちがえてしまうだろう。おれたちは今年、あまりにも高いところまでやってきて、放牧している。おまえは家畜たちを集めてきたのか。
息子: ぼくらのかがり火なんか、だれの目にも入りやしないね。
父: おれたちは火を焚いているんだ、そんなことはどうでもいい。
息子: 星よりもたくさんの火があるね。
父: 炭火を入れろ。
息子: 入れたよ。
父: ああ、ゼウスよ、この供えものを受けとりたまえ、乳と甘い蜂みつとを。われらは貧しいひつじ飼いであり、ひつじの群れはわれらのものでないがため、好き勝手するわけにはゆかぬのです。この燃えさかる火が災いを遠ざけてくれますよう、そして煙のとぐろに覆われるがごとく、雲に覆われますよう…濡らして、水をはねかすんだ、坊主。あとは大農場が子牛を殺してくれれば、それで十分だ。雨が降れば、いたるところで雨になる。
息子: お父さん、あの下のほうに見えるのは火かな、それとも星?
父: あっちのほうを見てる場合じゃない。海に向けて水をはねかさなきゃだめだ。雨は海から昇ってくるんだ。
息子: お父さん、雨は遠くまで行けるの? 雨が降るとほんとうに、いたるところで雨になるの? テスピアイでも? テーバイでも? 北のほうにあるこれらの町に、海なんてないんだけど。
父: でも放牧するところはあるだろう、馬鹿たれ。井戸が必要なんだ。そういった町も今夜、かがり火に火をつけたんだ。
息子: テスピアイの裏がわでも? もっと遠いところでも? 昼も夜も歩いてまわるひとびとがいつでも、山の奥に潜んでいるようなところでも? 北のほうでは雨がちっとも降らないって言うのを、ぼくは聞いたんだけど。
父: いたるところで今夜は、かがり火が焚かれているんだ。
息子: じゃあなんで今、雨は降らないの? みんなかがり火に、火をつけたっていうのに。
父: お祭りなんだ、坊主。雨が降ってきたら、火は消えてしまう。だれの得にもなりゃしない。雨は明日降るだろう。
息子: かがり火がまだ燃えてるとき、その上に雨が降ってきたことは一度もないの?
父: だれが知るものか。おまえはまだ生まれていなかったし、おれだって生まれていない、そんなころからかがり火には火をつけていたんだ。いつだって今日の日の夜に。そういえば一度だけ、かがり火の上に雨が降った話を聞いたことがある。
息子: ほんとう?
父: といっても、人間が今よりも公正に暮らしていて、王の息子たちも羊飼いをしていたころの話だ。この地面全体が、当時は麦打ち場、清潔で、打ち固められた麦打ち場のようなものであり、アタマース王の支配下にあった。ひとびとは働き、生活していたが、地主の目から子山羊たちをかくまう必要はなかった。話によると、やがて並外れた酷暑がやってきたため、牧草と井戸は枯れ果ててしまい、民衆は死んでしまった。かがり火はまったく役に立たなかったのだ。そこでアタマースは助言を求めた。しかしかれは年寄りで、家のなかにいたのは、めとって間のない花嫁、若くて、自分の言いなりにならないと気の済まない花嫁であり、彼女がかれの頭に詰めこみはじめたのは、軟弱な姿を見せて、信頼を失っている場合ではないということであった。かれらが祈りを捧げ、水をはねかしたかだって? もちろんだ。かれらが子牛や雄牛を、何頭もの雄牛を殺したかだって? もちろんだ。その結果、どうなったかだって? なにも起こりはしなかった。だからかれらは息子たちを差し出したんだ。わかるか? でも彼女の腹を痛めた息子たちであったわけではない、というのも彼女に息子はいなかったのだから。思い浮かべるんだ。最初の妻とのあいだにできたふたりの、すでに大きくなっている息子たち、一日中、田畑で働いている少年たちだ。そして、うすのろのアタマースは、決心したのだ、かれらを呼びにやることを。王の息子たちは馬鹿でないので、当然そのことはかれらの知るところとなり、逃げていく。そして、かれらとともに、最初の雲たちは、そうしたことを聞き知った神がただちに畑の上に遣わしたのだが、いなくなってしまう。その直後にあの魔女が言うには、「ほら、ごらんなさい、あの考えは正しかったんだわ、雲たちはさっそく出てきてくれたじゃない。さぁ、だれかののどをかっ切らなくっちゃ。」そしてついには、民衆がアタマースを捕らえて、かれを燃やす決心をするにいたるのだ。かれらは火を用意し、点火する。縛られたアタマースを連れてきて、牛のように花で飾り、まさにかれをかがり火のなかに投げ入れようとしたそのとき、天気が崩れる。雷鳴がとどろき、稲光りがし、そして神に由来する水が降りてくる。田畑はよみがえる。水はかがり火を消し、アタマースは、善良なる男は、妻をも含め、みなを許すのだ。気をつけるがいい、坊主、女たちには。へびとへびとを見極めるほうが容易なくらいだ。
息子: それで、王の息子たちは?
父: 話した以上のことはなにも知られていない。でもこのようなふたりの少年たちならば、なにかじぶんたちにふさわしいものを見つけだしたことだろう。
息子: でも当時、ひとびとが公正だったのなら、どうしてふたりの少年たちを燃やすことを望んだりしたの?
父: 馬鹿もの、おまえは酷暑がどんなであるか知らないんだ。おれはそれを目にしたし、おまえのじいさんもそれを目にした。冬なんて大したことはない。冬は苦しくはあるが、収穫のためになっていることをひとは知っている。酷暑はちがう。酷暑は燃やしてしまう。すべては死に絶え、そして空腹とのどの渇きが、人間を変えてしまうんだぞ。食事を取らずにいるものの姿を思い描いてみるんだ。そうしたものは喧嘩っぱやい。それから、かの民衆はみな仲が良く、ひとりひとりがじぶんの土地を持ち、良い行いと、良い暮らしに慣れていた民衆だったということを、おまえには考えてほしい。井戸は干上がり、小麦は焼き焦げ、ひとびとは空腹になり、のどが渇く。するとかれらは、残忍な獣になるのだ。
息子: よこしまな民衆だったんだね。
父: おれたちよりもよこしまであるわけではない。おれたちの酷暑は地主たちだ。そしておれたちを自由にしてくれる雨など存在しないのだ。
息子: こんなかがり火、ぼくはもう好きじゃないや。どうして神々はこんなものが必要なの? 昔はこの上で、いつもだれかが燃やされてたってのはほんとうのことなの?
父: その実行は慎重だった。この上で燃やされたのは、片足を引きずる者、怠け者、そして間の抜けた者だった。この上で燃やされたのは、畑の役に立たない者だった。畑で盗みをはたらいた者だった。その程度で神々は満足してくれるのだ。とにもかくにも、雨は降ってきたのだ。
息子: いったいどんな楽しみを、神々がそんなところで見つけだしたのか、ぼくにはわからないな。だれかれかまわず、雨は降ったのだとしたら。アタマースのことだってそう。火あぶりの火を、神々が消しただなんて。
父: いいか、神々は主人なのだ。地主のようなものなのだ。おまえはかれらが、みずからの一員が燃えている姿を目にすることを望むのか。かれらは、たがいのあいだで助け合うのだ。おれたちのことは、そのくせ、だれも助けてはくれない。雨が降ろうが、晴れようが、神々にはそんなことはどうでもいいことなのだ。今、火は焚かれ、そしてひとは言う、雨がもたらされる、と。地主たちにはそんなことはどうでもいいことなのだ。かれらが畑にやってくるところを、おまえはこれまでに見たことがあるか。
息子: ぼくはないけど。
父: さて、そこでだ。かつて雨を降らせるにはかがり火があればよく、収穫を無事に済ませるには浮浪者をひとり、その上で燃やせばよかったのだとすると、いったいどれだけの地主の家に火を放ち、いったいどれだけの地主を、通りや広場で殺害する必要があるのだ、世界が公正な世界に戻り、おれたちがおれたちの言いたいことを言えるようになるまでには。
息子: それで、神々は?
父: かれらは関係ない。
息子: お父さんは神々と地主たちが手を組んでいるって言わなかったっけ? かれらが主人だって。
父: おれたちは子山羊ののどをかっ切るだろう。ほかになにができるんだ。おれたちは浮浪者を殺し、そしておれたちから盗みをはたらいたものを殺すだろう。おれたちはかがり火を焚くだろう。
息子: 早く朝になってくれたらいいのに。神々がぼくをおびえさせるんだもの。
父: おびえるがよい。神々がその存在を保たれるのは、おれたちの恐怖心によるのだ。おまえぐらいの年齢で、かれらのことを考えずにいるのは悪いことだ。
息子: ぼくはかれらのことなんか考えたくないよ。かれらは不公正な存在だ、神々ってのは。生きている民衆を燃やす必要がどうしてあるのさ。
父: そのように存在するのでなければ、神々は存在しないだろう。労働をしないものに、ほかにどのようにして時間を過ごせとおまえはいうのだ。地主たちが存在せず、ひとびとが公正さとともに暮らしていたころは、かれらを楽しませるために、ときどきだれかを殺さなければならなかった。神々とはそうした存在なのだ。しかしおれたちの時代では、そのようなことをする必要はもはやない。おれたち人間のあまりに多くがひどい状態にあるので、かれらはそれを見ているだけで十分なのだ。
息子: 浮浪者じゃない、かれらだって。
父: 浮浪者か。おまえが口にした言葉はかれらを的確にとらえている。
息子: かがり火の上で燃えながら、障害のある少年たちは、なんて言ってたの? たくさん叫んでた?
父: 叫び声は大した問題ではない。だれが叫ぶのか、それが肝心なのだ。障害のある者やよこしまな者たちは、利益になることはなにもしない。だがそれよりも、のらくら者たちがその身を肥やしている姿を、子どもを持つ人間が目にするときのほうが、わずかながらひどいことだ。不公正とは、こうしたことをいうのだ。
息子:  むかしのかがり火のことを考えると、ぼくは震えずにはいられないよ。見て、あの下のほうで、ずいぶんたくさんのかがり火が焚かれてるね。
父: どの火でもひとりずつ、少年が燃やされていたわけでは決してない。今、子山羊の場合になされているのと同じことだ。わかるか。ひとりが雨を降らせたら、全員に雨が降ってくる。ひとつの山、ひとつの村につき、ひとりの人間で十分だ。
息子:  ぼくはやだよ、わかってるね、やなんだからね。地主たちはぼくらを骨の随まで食べつくしたらいいんだ、もしぼくらが、たがいのあいだでそんなにも不公正であったのだとしたら。神々はぼくらが苦しんでいるところを目にしたらいいんだ。ぼくらはみんな、よこしまなんだから。
父: さぁ葉のついた小枝を濡らして、水をはねかすんだ。おまえはまだなにもわかっていない。そんなおまえだからこそ、公正さや不公正さについて話すことができるんだ。海に向けてはねかすんだ、石あたま… ああ、ゼウスよ、この供えものを受けとりたまえ…

(翻訳・持田 睦)
posted by Uoh! at 02:00| Comment(0) | レウコとの対話(翻訳) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする