以下に掲載するのは、パヴェーゼの『レウコとの対話』の第22話(1946年7月26日-31日筆)になります。舞台化の際には、この翻訳を下訳として、より適切な日本語に改める予定です。
(持田 睦)
ぶどう畑
(09/9/16更新)
迷宮の冒険のあと、テーセウスに捨てられたアリアドネーは、インド帰りのディオニュソスにナクソス島で拾われることになり、その終わりを天空で、星座に囲まれて迎えたのであった。(レウコテアーとアリアドネーの対話)
レウコテアー: まだまだたっぷりと泣くつもりなのかしら、アリアドネー?
アリアドネー: あら、あなたは、どこからやってきたの?
レウコテアー: あなたと同じ、海からよ。それはそうと、泣くのはやめにしたの?
アリアドネー: もうひとりぼっちじゃないから。
レウコテアー: あなたたち死すべき女ってのは、だれかが耳を傾けているときにだけ泣くもんだと思ってたわ。
アリアドネー: ニンフにしては、あなたって意地悪なのね。
レウコテアー: それで、かれも出ていってしまったの? どうしてかれは、あなたを置いていってしまったんだと思う?
アリアドネー: あなたはじぶんがだれなのか、わたしに言ってくれていないわ。
レウコテアー: あなたがなしえなかったことをやってのけた女よ。海で自殺しようとしたの。わたしの名前はイーノだったわ。ひとりの女神さまがわたしを救ってくれたのね。今ではわたしは、島のニンフなのよ。
アリアドネー: わたしに何の用?
レウコテアー: そんな風にわたしに話すってことは、あなたはもう分かってるってことね。わたしがやってきたのは、美しい言葉とすみれ色の巻き毛を持つあなたの愛しい男の子が、永遠に出ていってしまったってことを、あなたに伝えるため。かれはあなたを捨ててしまったの。消えていった黒い帆が、あなたにかれが残してくれる最後の思い出になるのでしょう。駆けつけなさいな、声をあげなさいな、じたばたなさいな、どうせ手おくれなんだから。
アリアドネー: あなたも捨てられてしまったのは、あなたが自殺しようとしたからなの?
レウコテアー: わたしのことはどうでもいいの。でもあなた、わたしがする話の相手としてはふさわしくないわ。あなたって馬鹿だし、強情だもの。
アリアドネー: ねえ、海のニンフさん、あなたがわたしに話さなければいけないことが何なのか、わたしにはわからないわ。あなたは言葉が足りていないのか、それとも言い過ぎているのか。もしわたしが自殺したくなったとしても、わたしはじぶんひとりでやれると思うわ。
レウコテアー: いいかしら、お馬鹿ちゃん。あなたの苦しみなんて、なんでもありゃしないのよ。
アリアドネー: わたしにそんなことを言うために、あなたはやってきたの?
レウコテアー: どういうわけで、かれはあなたを置いていってしまったんだと思う?
アリアドネー: ああ、ニンフさん、そのことはやめてちょうだい…
レウコテアー: さあ、お泣きなさいな。そうすれば少なくとも、気持ちは楽になるんだから。お話するのはおやめなさいな、無駄なんだもの。そうすれば愚かさとごう慢さは、どこかへ行ってしまうんだから。そうすればあなたの苦しみは、その実際の姿で現れるんだから。でもあなたの心が張り裂けてしまわないかぎりは、あなたが雌犬のように吠え、燃えている木のように海のなかで消えようとしないかぎりは、苦しみを知っているなんてことを口にすることはできないでしょうね。
アリアドネー: もう張り裂けてしまった…わたしの心…
レウコテアー: 泣いてるだけでいいのよ、お話はしちゃ駄目…あなたは何も知らないんだから。別のお方が、あなたのことを待ってるのよ。
アリアドネー: あなたは今、なんていうお名前なの、ニンフさん?
レウコテアー: レウコテアーよ。わかってちょうだい、アリアドネー。黒い帆は永遠に出ていってしまったの。この物語りはおしまいを迎えてしまったんだわ。
アリアドネー: おしまいを迎えるのは、わたしの人生のほうよ。
レウコテアー: 別のお方が、あなたのことを待ってるのよ。あなたってお馬鹿なのね。あなたはあなたの土地で、神さまのことはだれも敬っていなかったの?
アリアドネー: いったいどの神さまなら、わたしのところに船を連れ戻すことができるって言うの?
レウコテアー: わたしがあなたに聞いているのは、どんな神さまをあなたは知っていたのかってことよ。
アリアドネー: わたしの故郷にはね、船乗りの人たちも恐れをなしていた山があるの。その上で偉大なる神々は誕生したんだわ。わたしたちはかれらを崇拝しているのよ。わたしはもう、かれら全員の名前を呼んでお祈りをしたんだけれど、だれもわたしを助けてくれないんだわ。わたしはどうしたらいいの? あなた、言ってちょうだいな。
レウコテアー: あなたは神々になにを期待しているの。
アリアドネー: もうなんにも期待なんかしてないわ。
レウコテアー: それじゃあ、聞いてちょうだい。とあるお方が動き始めたのよ。
アリアドネー: あなたはなにが言いたいの?
レウコテアー: あなたに話すことがあるとしたら、とあるお方が動き始めたってこと、それだけよ。
アリアドネー: あなたなんて、ただのニンフのくせに。
レウコテアー: 一介のニンフが、偉大なる神さまの来訪を告げるのかもしれなくてよ。
アリアドネー: だれなの、レウコテアー、いったいだれがやってくるっていうの?
レウコテアー: あなたが考えてるのは神さまのこと、それともきれいな男の子のこと?
アリアドネー: わたしにはわからないわ。あなたはなにを言ってるの? わたしは神々にひれ伏しているわ。
レウコテアー: じゃあ、あなたはわかっているのね。来訪するのは新しい神さまよ。すべての神さまのなかでいちばん若い神さま。かれはあなたのことを目に入れたことがあって、あなたを気に入っているの。名前はディオニュソスって言うのよ。
アリアドネー: わたしは知らないわ。
レウコテアー: かれの生まれはテーバイで、世界を歩き回っているの。喜びの神なのよ。みんながかれの後について行き、拍手喝采でかれを迎えるわ。
アリアドネー: 力は強いの?
レウコテアー: かれは笑いながら殺すわ。雄牛と虎を従えているのよ。かれの一生はお祭りで、あなたを気に入っているの。
アリアドネー: でもどうやってわたしのことを目にしたの?
レウコテアー: それはだれにもわからないわ。あなたはこれまでに、海沿いの丘の斜面にあるぶどう畑に行ったことがあるかしら、土地がその香りを放つ、ゆったりとした時のなかを。いちじくと松のあいだの、きつくてなかなか消えない香り。ぶどうが熟し、空気がその液で重たくなるとき。あるいはあなたはこれまでに、ざくろの木を、その果実と花を目にしたことがあるかしら。ディオニュソスはそこに君臨しているんだわ、木蔦の涼しさにつつまれ、松林のなか、麦打ち場のうえで。
アリアドネー: 神々がわたしたちのことを目にすることがないくらい、ひと気のない場所はないの?
レウコテアー: ねぇあなた、神々は、場所なのよ、ひと気のなさなのよ、過ぎていく時間なのよ。やがてディオニュソスはやってくるわ、そしてあなたは、麦打ち場のうえやぶどう畑のなかを過ぎていく、あのつむじ風のような強い風に、さらわれていくような思いをすることになるんだわ。
アリアドネー: かれはいつやってくるの?
レウコテアー: ねぇ、わたしはかれの来訪を告げているのよ。船が立ち去ったのはそのためなんだわ。
アリアドネー: それで、だれがそのことを、あなたに教えてくれたの?
レウコテアー: わたしはテーバイの生まれよ、アリアドネー。わたしはかれのお母さんの妹なの。
アリアドネー: わたしの故郷では、神々はイーダの山で誕生したって言われているわ。死すべきものはだれひとり、はるかかなたにある森の向こう側までは登っていかなかった。あなたの話したことを認めるなんて、わたしにはできそうもないわ。
レウコテアー: あなたはずいぶんと思い切ったことをしたことがあったじゃない、おちびちゃん。あなたにとっては、すみれ色の巻き毛を持つあのひとは、神さまみたいなひとだったんでしょ?
アリアドネー: そっちの神さまだったら、わたしは命を救ってあげたんだもの。こっちの神さまについては、わたしがなにをしてあげたっていうのかしら?
レウコテアー: たくさんのことをしてあげたわ。あなたは体を震わせ、苦しんだじゃない。死ぬことを考えたじゃない。覚醒とはなにかを知ったじゃない。今、あなたはひとりきりで、神さまを待っているんだわ。
アリアドネー: それで、かれはどんな様子なの? ひどく残酷なの?
レウコテアー: 神々はみんな残酷よ。それがどうしたの? 神聖な事がらはすべて残酷じゃない。抵抗するはかない存在を撲滅するんだわ。あなたはもっと強く覚醒するために、眠気に屈しなきゃいけない。神さまはだれだって、嘆き悲しむことを知らずにいるのよ。
アリアドネー: テーバイの神さま…あなたのこの…かれは笑いながら殺すって、あなたは言ったわよね?
レウコテアー: かれに抵抗するものを、ね。かれに抵抗するものは無と帰してしまう。でもほかのものに対しては、それほど残酷じゃないわ。微笑むことが、かれにとっては、呼吸することみたいなものなのよ。
アリアドネー: かれは死すべきものたちと変わらないのね。
レウコテアー: これもまた覚醒なのよ、お嬢ちゃん。場所を愛し、水の流れを愛し、日中のひとときを愛するのと似たことが、これから起こるんだわ。人間にはだれひとり、それだけのことはできやしない。神々は、じぶんたちを神々にしてくれる事がらが永くつづいていくかぎり、じぶんたちも永くつづいていくのよ。松とぶどう畑のあいだで山羊が飛び跳ねているかぎり、あなたはかれを気に入るでしょうし、かれはあなたを気に入るでしょう。
アリアドネー: わたしは死ぬのね、すべての山羊たちのように。
レウコテアー: ぶどう畑のうえには、夜、星も出るわ。あなたのことを待っているのは、夜に活動する神さまなの。怖がらないでね。
(翻訳・持田 睦)