2009年09月13日

「パヴェーゼ文学集成」の第6巻について

(2009/9/18修正)

 「パヴェーゼ文学集成」の第6巻を、早速発売日の翌日に入手した。

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 目当てはもちろん河島英昭氏によってなされている『レウコとの対話』の全訳だ。僕自身、現在『レウコとの対話』の翻訳を試みていることもあり、河島氏の翻訳と僕の翻訳を照らし合わせることを、「パヴェーゼ文学集成」の出版の決定以来、ずっと楽しみにしていた。それから解説にも期待を寄せていた。1981年の11月に発売された雑誌「海」には「神々のたくらみ」の」タイトルのもと、7編の対話の翻訳に加え、たいへん熱情的な解説が掲載されていて、『レウコとの対話』の存在を知った当初は貪るように読んだものだった。

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 ただ失礼を省みずに率直に言えば、その翻訳も解説も、熱情に流されるあまりやや荒削りになっており、いくつかの誤りも目についた。今回の「パヴェーゼ文学集成」において、そうした点がいかに修正されているのか注目して読んでみたが、残念なことに「海」に掲載された対話の翻訳と解説は、ほとんどそのままの状態で「文学集成」に移行されているようだった(自死の直前にラヨーロに宛てられた手紙の件はさすがに抹消されていたが。これに関しては「michiyoさんの記事」をご参照あれ)。

 たとえば四半世紀以上前に書かれた解説には、次のような一節がある。

 「そのころまでは、すなわち人間と神々と野性の存在とが同等であったころまでは、人間にとって死は生と同じようにひとつの持物にすぎなかった。換言すれば、死も生も人間が自由に扱える属性であった。もしも彼からその自由を奪えば、人間は単なる人間になるであろう。そしてそのとき、人間は死すべき者となり、他方で神々は不死の者となった。」(「文学集成」第6巻、495頁)

 「人間から死の自由を奪うことにより、人間は初めて死すべき者となる」という奇妙な思想が『レウコとの対話』に本当に含まれているのだろうか。なるほど、河島氏の以下の翻訳を読むと、そうした思想が含まれているのかもしれないと思えてくる。

 「わかってね、イクシーオーン。かつてはあなたたちの勇気であった死が、持物のようにあなたたちから奪われてしまったのよ。わかっているの?」(「文学集成」第6巻、219頁)

 「ああ、イクシーオーン、イクシーオーン、あなたの運命は定められてしまったのよ。いまではあなたにもわかるはずだわ、山々の上で何が変わったか。あなたも変わってしまった。それなのにあなたは自分が人間以上の何かだと思っているのね。」(「文学集成」第6巻、220-221頁)

 注目すべきは、下線部である。まずは前者から。

 「奪われてしまった」の箇所は完全に誤訳だ。原文では下線部は「può esservi tolta」と書かれているが、これは英語に直すと「can be taken from you」となる。河島氏の翻訳は時制が不正確である上に、助動詞の存在が無視されていることがお分かりいただけるだろう。ちなみに僕の翻訳では以下の通りだ。

 「死ってのはね、いままではあんたたちの肝ったまをおおきくしてくれてたんだけど、その死が、だいじなものをとられちまうみたいに、あんたたちから奪われちまうかもしんないの。」

 パヴェーゼがここで言わんとしているのは、死すべき者が、文字通り死を奪われて、死の世界にも生の世界にも属さない影のような存在にされてしまう可能性のことである。「死すべき者となる以前の人間から死が奪われる」という奇妙な思想は、パヴェーゼの思想ではなく、河島氏によって作り出された河島氏の思想なのだ。

 つづいて後者。

 「それなのに」の箇所は、原文では「E」である。英語の「And」を意味するこの接続詞はなるほど、文脈によっては「逆接」の接続詞として機能することもあるが、ここでは素直に「順接」の接続詞として翻訳するのが普通かと思う。ちなみに僕の翻訳は以下の通りだ。

 「ああ、イクシオン、イクシオン、あんたのさだめは、はっきりしちまった。お山の上でなにが変わっちまったのか、あんたはいま、知ってる。そいで、あんたも、変わっちまった。そいで、あんたは、じぶんがにんげん以上のなにかになったと、信じこんでる。」

 パヴェーゼがここで言わんとしているのは、かつて混沌の世界の中で暮らしていた人間は、不死なる者を頂点とする階級構造を知ると、不死の光に目をくらまされて、おのれの死すべき本質をないがしろにするようになるということである。これは「人間は死すべき者になってしまったのに、生意気にも、不死なる者になろうとしている」という河島氏の解釈とは大きく異なる。

 上記の二つの河島氏の誤訳と、その根底にある河島氏の思想「死すべき者となる以前の人間から死が奪われる」が、「文学集成」の出版に際して見直されることがなかったのは不幸なことであるが、個人全訳である以上、こうした見落としはいたしかたないかと思う(思い込みから抜け出るためには、他者の視点が必要不可欠だ)。ただ『レウコとの対話』のタイトルを、『異神との対話』に変更しているのは、さすがにやりすぎではないか。

 「『レウコとの対話』よりは、『異神との対話』のほうが、わが国の読書界には、原作者の真意をより深く反映させるであろうと信じて、書名を改めた。」(「文学集成」第6巻、524頁)

 と河島氏は言うが、僕の趣味判断とは完全に一致しない発言だ。僕が『レウコとの対話』を手にしたのは、ストローブ=ユイレの映画に浮かんだ「レウコ」の名前が何とも不思議で魅力的だったから。最高のタイトルだと僕は思うのだが…。

 河島氏による『レウコとの対話』の翻訳が出版されたら、僕の『レウコ』翻訳はひとまずやめにしようと思っていたが、その気持ちも揺らぎだしている。例えば第26話「詩女神」の翻訳を河島氏の「美神」と比べてみると、僕の翻訳の方が誤訳も少なく、分かりやすいように思う。その理由は、僕が、僕一人で翻訳していないからだ。「英訳」「独訳」、そして「仏訳」

leucoe.jpg     leucod.jpg     leucof.jpg

 さらには「ユイレのフランス語字幕」

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 そして「自然の中での対話」。こうした全てとともに「僕らの翻訳」はある。少なくとももう何編かは訳してみることにしよう。

(持田 睦)
posted by Uoh! at 04:39| Comment(57) | レウコとの対話(小論) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。
今回の「集成」には期待と不安をないまぜにして待っていたので、重要な導きをいただき、感謝します。

河島氏の考えを好意的に受け取ると、かつて神々と精霊と人間とは同等に語り合う機会を持っていた、というところは首肯できます。いっぽう認められないのは、人間の死すべき運命というものを負の要素としてしかとらえていないことです。むしろ、この有限の運命こそが、それへの覚悟、それへの対面の時間こそが、人間をして神々に同等に向き合わしむるもののはずです。

そして、『Divagation』での論考も大変刺激的でした。こちらは別途メールにて感想を差し上げたく思います。
Posted by nos at 2009年09月15日 01:45
nos様

 おっしゃる通りだと思います。

 人間と神々がかつては同等であったとパヴェーゼが言うとき、それは両者がその本質を等しくする存在として同等であったことを意味するのではなく、本質を異にしながらも、平等に、格差なく存在したことを意味しているのだと思います。河島氏もそのことをまったく理解していないわけではないと思うのですが、パヴェーゼの基本思想、すなわち、新しい神々の登場以降、人間は「不死」に目をくらまされたまま、おのれの「死すべき運命」を見失っている点への意識は弱いように、氏の翻訳を読みながら感じています。

 僕らにとって肝要なのは、新しい神々に奪われようとしている「死」を、それへの「覚悟」とともに取り戻すことなのだと思います。パヴェーゼはまさしく命をかけて『レウコとの対話』を書き残したのですが、河島氏の翻訳から「覚悟」を感じ取るのは難しいです(その象徴が、巻末の「解説」です。20年以上も前に書かれた「解説」をほとんどそのままの状態で掲載することによって、どれだけ多くの読者が『レウコ』の姿を見失うことでしょう)。

 『Divagation』、nosさんに読んでいただいて恥ずかしくないものを、と強く思って書き上げました。準備の過程で、ストローブ=ユイレの『アンティゴネー』の字幕についても、決定的なことに気づきましたので、近々ブログ上で発表したいと思っています。やはり翻訳に「覚悟」が足りないのです。
Posted by 持田 睦 at 2009年09月15日 17:20
肝心の記事であるところのパヴェーゼについて読解が進んでないので、本来「近況報告」(9/5)の方で言うべきコメントなのでしょうが、 『Divagation』5号の持田さんの記事を読みました。自重せずメールではなくコメ欄で書いてみます。[以下、アクサンなどは化けるようなので略記]

こっそりフォーエヴァーモーツアルトの仏語採録と睨めっこしては改訳したりしてるんですが、まだそれは1割ぐらいしか終わってないので途中経過で発想した読解です。持田さんが注目した食卓シーンのカミーユのリハーサルめいた「失業してから」云々の朗読箇所ですが、もうちょっと先にシルヴィーとヴィッキーが「三年前にも失業しちゃってさ」みたいにカミーユの来歴がそれとなく初めて説明されるシーンがありますよね。
そこでの会話はこうなっているわけです。

- Je la connais. Il y a trois ans, elle voulait deliver Jerusalem. [Vicky]
- Oui. En attendant, elle est un chomage. [Silvie]
- カミーユのことはわかってる。三年前、カミーユはイェルサレムを解放したがっていた。 [ヴィッキー]
- そう。カミーユはそれを待っているうちに失業した。 [シルヴィー]

澤田訳は採録を見ればわかりますので変更部分の説明は省略しますが、ここではシルヴィーとヴィッキーのちょっと前のやりとりでやってたソンタグ/ソレルスの話題が語彙選択のレベルで接続してるように読めるわけです。つまり、「ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)」を模して「イェルサレム解放を待ちながら(En attendant la Jerusalem delivree)」というフレーズが分解されて仕込まれているのだ、と。待ちながら(En attendant)失業していたわけで、単に失職したわけではないように思うのですね。つまり、ゴドー=イェルサレム解放という接続とゴドー内登場人物=カミーユといった接続があるんじゃないかと。エストラゴンなのかウラジミールなのか、その接続がどう面白く読めるか、などはまだ未検討なんで放置しますが。先の朗読箇所の終わりごろに再びソレルス記事紙面が再び登場するのも、失業〜ゴドー〜ソンタグ/ソレルスといった主題系の強調にも思えます。

まあ、語彙選択からの発想なのでやや無理はあるんですが、"Oui. En attendant, elle est un chomage."はちょっと、普通に使う言い回しに見えないんで、この発想で蓋然性はあるんじゃないかな、と。「La Jerusalem delivree(解放されたエルサレム)」(1575)はトルクァート・タッソによる叙事詩で、ゴダールは「アルミード」(1987)で用いていますが、このつながりはこの際はあまり考えなくてもいいかも。ただ、イェルサレム(をめぐる70-80年代作品)〜サラエヴォ(が目立ってくる90年代以後)の接続が、ここではかなり明瞭になっているだけに重要な箇所に思うんですよね。

一言でまとめると、この作品は労働とゴドーです、みたいな。ハリーが序盤でこだわってるのも手工労働かどうか、って話ですしね。

あとはまあ、細かく見ると、ウィ/ノンをめぐる遊びは作品全体で反復されているんですが、これは対訳作業がもっと進まないと全貌についてはまだ言えない感じです。最初から「娘を学校に迎えにいってこい。ウィかノンか?」「じきにわかりますよ」とかそんなやりとりが多発してたり。
Posted by ttt at 2009年10月30日 10:57
ttt様

 二日間、コンピュータにじっくりと向かえない状況にあったため、コメントの認証がなされないままになっており、大変失礼いたしました。

 貴重なコメントをいただきありがとうございます。ゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』の背後にベケットの『ゴドーを待ちながら』を見てとるttt様の一文、とても刺激的でした。

 ただ二点ばかり気になる点がありますので、指摘させてください。

 まずは「"Oui. En attendant, elle est un chomage."はちょっと、普通に使う言い回しに見えない」に関してですが、「en attendant」は「そうこうするうちに」を意味する慣用句の可能性が高いのではないかと思います。もちろんゴダールがこの箇所で、『En attendant Godot』をほのめかしている可能性はありますが、確証には至らないのでは、と感じました。

 つづいて「一言でまとめると、この作品は労働とゴドーです」に関しては、『フォーエヴァー・モーツァルト』の構成が「演劇」「世界劇場」「映画」「音楽」の4部構成になっている点を考慮すると、その全体を「労働とゴドー」にまとめあげるのは困難ではないかと思いました。「採録」が掲載されている冊子の中のゴダールのインタビュー(原文はhttp://www.cinespikfrench.com/godard.htmにあります)で、私が注目したのはゴダールが、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』と、シェークスピアの(邦訳ではショーペンハウアーのと誤記されていますが)「世界は広大な劇場である」という言葉に触れている点です。カミーユの「逃避行」はいわば「世界」という「劇場」でなされる芝居であるのですが、この「世界劇場」は「映画」へと転換され、そして最後は「音楽」に至るのです。何故に最後に「音楽」? それは恐らくは「音楽」を芸術活動の最高峰とみなすショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』に導かれてのことです。「この作品は労働とゴドーです」が有効になるためには「映画」と「音楽」の場面でも『ゴドーを待ちながら』が意識されていることを明かす必要があるのではないかと思っています。

 『フォーエヴァー・モーツァルト』、改訳中とのことですので、今後また気付かれたことがございましたら、ぜひご教示ください。
Posted by 持田睦 at 2009年11月01日 11:33
>「en attendant」は「そうこうするうちに」を意味する慣用句の可能性が高いのではないかと思います。もちろんゴダールがこの箇所で、『En attendant Godot』をほのめかしている可能性はありますが、確証には至らないのでは、と感じました。

あ、「そうこうするうちに」ぐらいにも訳せるわけですね。辞書を引き引き確かめたぐらいでは、うまく合致する慣用的な意味合いが汲み取れなかったので、その線は一旦措いたんですが、なるほど。英訳字幕でもin the meantimeになってる。
私がこだわるのはむしろゴドーに近づけることよりも(あんまりゴドー読んでないので)、作中に出てくるattendreの使い方でして、割と負荷かかかってる語彙だとは思うんですよ。oui/nonが関わるシーンやその前後に配されているように思うわけです。

「ペナルティ!」とか見えないサッカーをやるシーンではじまる、最初にボカと男爵が登場するシーンでは
fr.
Alors, Boka, on vous attend.
eng.tr.
Well, Boka, we're waiting!
jp.tr.
ほら、ボカ、みんながお前を待ってるんだぞ。 [男爵]

そして次の男爵/ボカのやりとりはこうです
fr.
- Allons-y Boka. Vous allez chercher mademoiselle Solange au college, et vous revenez. Alors c’est oui ou c’est non?
- On va le savoir.
eng.tr.
- Go Boka. You will seek Miss Solange with the college, and you return. ls it yes or no?
- We'll soon find out.
jp.tr.
- おい、ボカ。娘のソランジュを学校に迎えに行って、一緒に戻ってこい。わかったな?〔ウィかノンか?〕 [男爵]
- じきに判ります。 [ボカ]

「一緒に戻ってきたかどうか」の経緯は放置されたまま、その後オーディション会場にソランジュがやってくる。

次のattendreの箇所はこのヴィッキーによるNonの連発するシーンでですね
fr.
- On vous attend. [Felix]
- Suivant. [off-voice]
- Harry aussi. [Felix]
eng.tr.
- We're expecting〔wainting〕 you. [Felix]
- Next. [off-voice]
- Harry come too. [Felix]
jp.tr.
- あなたを待ってるよ。 [男爵]
- 次。 [off-voice]
- ハリーも来る。 [男爵]

 そして、ハリー、男爵、ヴィッキーによる会食のシーンは描かれない。待機attendreされた事柄の帰結は、間接的にのちに示されはするものの、描かれることがない、というのがある程度意図的にやられているように思うんですね。で、三つ目のattendreが出てくるのが先のシルヴィー/ヴィッキー会話となっている。
 どこまでゴドーとのつながりがあるのかはわからないのですが、attendreの語彙操作を結構やってるんじゃないかな、と。まあ、慣用的に読もうと思えば読めるんですが、oui/nonと関わる出来事性と待機が関わっているとみなした方が面白く無理矢理読めるかと思って。

>構成が「演劇」「世界劇場」「映画」「音楽」の4部構成になっている点を考慮すると、
>カミーユの「逃避行」はいわば「世界」という「劇場」でなされる芝居であるのですが、この「世界劇場」は「映画」へと転換され、そして最後は「音楽」に至るのです。何故に最後に「音楽」? それは恐らくは「音楽」を芸術活動の最高峰とみなすショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』に導かれてのことです。

4部構成であることは全編を読解する際にこの際無視しようと思っていたんですが、ショーペンハウアーがそういう意味で関わっているという意味でなら、これは面白いですね。ヘーゲルの美学とは全然違うものなのかな。ショーペンハウアーの線は忘れてたので、再考してみようと思います。
Posted by ttt at 2009年11月01日 13:15
ttt様

 再度の貴重なコメント、胸をわくわくさせながら読ませていただきました。

 『フォーエヴァー・モーツァルト』における「attendre」の登場回数は、フランス語の採録で確認してみたところ、少なくとも10はあるように思いました。「演劇」「世界劇場」「映画」「音楽」の4部構成中の「音楽」を除く全ての箇所に「attendre」の語は含まれており、「音楽」の部に移る直前には以下のような興味深い台詞があります。

 dans le cinema
 il faut savoir attendre

 映画においては
 待つことができなきゃいけないわ

 こうした台詞の存在から、『フォーエヴァー・モーツァルト』は「待つこと」についての映画だと推測することはもちろん可能でしょう。ただ私は逆にこう推測するのです。『フォーエヴァー・モーツァルト』はむしろ「もはや待たないこと」についての映画、あるいは「待つことの彼方」にある映画ではないか、と。上記の台詞の後、映画館の前で映画の始まりを待っていた人びとは、「待つこと」をやめて映画館を去って行きます。そして始まるのが「音楽」の部です。「モーツァルトの音楽」を聴くために人々は「劇場」に集まるのですが、可笑しなことに、彼らの目の前に登場するピアニストは「モーツァルト?」。この「モーツァルト?」の登場こそが『フォーエヴァー・モーツァルト』の頂点であり、何をしでかすか分からない=天才ゴダールの本領を発揮した場面ではないかと私は思うのです。あるいは『フォーエヴァー・モーツァルト』を見ている私たちが待ちつづけていたのは、「モーツァルト」の登場だったのかもしれません。映画が進行し、私たちがもはや「モーツァルト」を待つことをしなくなり、待つことの彼方にたどりついた頃合いを見計らって、彼のピアノ協奏曲が流れ始め、「モーツァルト?」の登場。

 フランス語に関しては、私はしばしばここ(http://www.wordreference.com/fren/attendant)のお世話になっています。具体的な用法に関する質問に、ネイティヴが答えてくれるコーナーなどもありとても助かります。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月02日 01:16
>ただ私は逆にこう推測するのです。『フォーエヴァー・モーツァルト』はむしろ「もはや待たないこと」についての映画、あるいは「待つことの彼方」にある映画ではないか、と。
>(...)この「モーツァルト?」の登場こそが『フォーエヴァー・モーツァルト』の頂点であり、何をしでかすか分からない=天才ゴダールの本領を発揮した場面ではないか

 なるほど! これは刺激的な発想ですね。それゆえにあのタイトルがあるのだし、「モーツァルトに祈る」といった語呂合わせ説などが出てくるだけの負荷がかかっているのか。
 私は『アワーミュージック』については煉獄篇と天国篇の非対称性というか決定的移行がキーだと思っていて、あの作品は天国篇をどう位置づけるか次第で読み方が全然変わってくるわけです。で、煉獄篇に対して埋め込まれているように追加された天国篇が面白い。で、アワーミュージックというのは、これまでのゴダール作品のなかにあってもきわだって二者間の非対称的な関係とその齟齬が配置されているわけですが、いわば煉獄/天国という二種のトポスがその非対称性をさらに増幅するような構成になっているというか。ここまで全体構成において顕著に模索し、かつ試みとして明確になっているのは珍しく、ゴダールがこれまで問いに付してきた非対称的なモチーフの集大成めいたところがあるわけです。
 で、そうした模索の線なり可能性と限界を追い詰めてみたいというのがあったんですが、持田さんのその四部構想、「音楽」の位置づけをめぐる読解というのは、いわば「天国篇」のような特殊な両立しがたいトポスの模索の萌芽的なものと指摘しているように読める。到来(venir)で言えば、舞台・世界劇場・映画 / 音楽が、来るべき(a venir)/すでに到来した(venue jamais)みたいな時間の飛躍があるということなのでしょう。出てくるモーツァルトもなんだかinnocentな感じあるし、部分的には天国の人たちと似たところもありますしね。そもそも、ハイデガー/デリダの論脈だと、この種の問題は死とも深く関わるものですし。
 天国篇では到来の問題は失われているけれども、転生というか再生というか、飛躍して翻訳的な継承と言ってもいいのか、そうした展開が明確になっていて、しかもなお亡霊のような非人称的な何者かからの視線の場所は天国のオルガからは認識できず、非対称性は消えることなく残余する、といったことになっているんですが、ForEver Mozartではカミーユ/女優→世界劇場・映画/「モーツァルト?」→音楽 という分裂のもとで展開しているわけですね。そういえばアワーミュジックのどこに「我らの音楽」があるのかさっぱりですし、その謎っぷり、音楽に託されたエレメント(実際に文字通り音声・音響を指すのかはともかく)などはかなり近いですね。私としてはやっとあの不可解な4部構想の狙いが腑に落ちるような気がしました。

ただ、そう考えれば考えるほど、
>「待つことの彼方」
という、こうした二場所のおのおのの扱いをどう考えるかは重要になるのでしょう。到来というのは、「そこに出来事があります」と指差せてもしょうがないところがありますし、それだと出来事性が消えちゃうわけで(レヴィナスとかが実詞化とか言って批判する)、出来事の手前と彼方、みたいな感じで考えた方が面白くなるのかな、と思いました。物事はつねに言い過ぎるか言い足りないかの二つになる、というような意味で、出来事をめぐる的確な表象の終点というのは無いのだと。そういう意味では音楽は終点のように読まない方が面白くなるのでは、とか、おそらくアワーミュージックや愛の讃歌における時間軸の意図的な崩し方や入れ子っぽくなってる相関関係を持ち込んでいるのはそうした試みをより出してみた結果なんじゃないか、などと思いました。

>フランス語に関しては、私はしばしばここのお世話になっています。
ちょっと見てみましたが、仏英辞典としては結構いい感じですね。使ってみようと思います。
Posted by ttt at 2009年11月02日 20:14
venue jamaisじゃなくてvenue dejaでした。意味不明な間違いをしてしまった。

ところでpolの仏語採録のp.24のゴイティソーロの箇所は、おそらく仏訳テキストを丸々引用しているんでしょうね。スペイン語原著からの山道訳とほとんど同じようなくだりになっているし。痛ましく際限のない(lamentable et interminable)ラヴェルのボレロの繰り返し、それがヴィッキーの撮りたかったであろう『ボレロ』なわけですが、この形容は、映画のoui/nonをめぐるあり方として丸々引き継がれてるんじゃないかと。

fr.tr
- Voila ce que m’a dit Juan Goytisolo quand je l’ai vu a Madrid. Est-ce que l’histoire europeenne des annees quatre-vingt-dix n’est pas une simple repetition avec de legeres variantes symphoniques de la lachete et de la confusion des annees trente? [Vicky] [off-voice]
- Autriche, Ethiopie, Espagne, Tchecoslovaquie, un lamentable et interminable bolero de Ravel. [Vicky]
eng.tr.sub
- This is what Juan Goytisolo told me in Madrid: ls the history of Europe in the 1990's a simple rehearsal with slight symphonic variations of the cowardice and chaos of the 1930's? [Vicky] [off-voice]
---
- Austria, Ethiopia, Spain, Czechoslovakia: a dreadful, unending Bolero by Ravel. [Vicky]

ゴイティソーロのテキスト部分のスペイン語原著からの邦訳
「90年代のヨーロッパの政治は、オーストリア、エチオピア、スペイン、チェコスロヴァキアなどで繰り広げられた30年代の無思慮・無分別を、少しアレンジして繰り返しているだけなのだろうか。いつ終わるともしれない、うんざりするラベルの『ボレロ』のように……。」(『サラエヴォ・ノート』山道桂子訳、みすず書房、p.94)。
Posted by ttt at 2009年11月02日 23:22
ttt様

 おかげさまで『フォーエヴァー・モーツァルト』の全体像が私にもはっきり見えてきています。『アワーミュージック』に関しては、DVDを数回見ただけで、何か口にできるほど理解が深まっていないのですが、あの「天国」へ向かっての「質的飛躍」は『フォーエヴァー・モーツァルト』にも存在すると思っています。「同じものが同じでありながらもはや同じでない」。言葉遊びのようですが、「天国」とは、そうしたことでないかと予感しています。

 細かい誤記の箇所や文字化けの箇所は私が修正してもよろしいでしょうか。お申し付けください。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月03日 10:10
刺激的な議論に我慢できず横入り失礼します。

お二人のお話にはそれぞれ納得できるところがあります。「待つこと」が重要なモチーフとしてちりばめられていることは間違いないと思う。例えば、脇役にすぎないセシルとドミニクはラストに至ってモーツァルトという「待ち人」の到来に直面する。二人はピアノ演奏に立ち会いそれを共にする。この場面で階段にくずおれているヴィッキーは、次作において階段を駆け下りるネイティブアメリカンの女性の足の到来に出会う。「わたしたちの音楽」と語らえる場面です。しかしモチーフは「待つこと」だけではない。あっさりとマリヴォーの代わりとなったミュッセ『戯れに恋はすまじ』の配役は同じだが逆転してロゼッタ役のジャミラだけが生き延びる(到達する水辺は次作の『天国篇』に通じている)。
つまり、「ソンダク:ベケット/ソレルス:マリヴォー」というモチーフの対比があるのですが、それはどちらかが真であるということではけっしてなく、それえら二つの顔が、ウィとノンが、反復(ボレロ)となることなく、切り返されていくことに映画は向かう。

ショーペンハウアーのことは意識していなかったので新鮮です。カミーユが語るのは(次作のジュディット同様)レヴィナスに近い印象を持っていました。

とてもおもしろいので、ぜひ続けてください。
Posted by nos at 2009年11月03日 10:20
まあ私の『アワーミュジック』理解も、関心のあったところだけに集中してるので、いろいろと抜けているものがあると思います。煉獄篇/天国篇 そしてまた地獄篇の位置づけ、とオルガ/視線の関係ばかりになってるし。むしろ、『アワーミュージック』が出た後だからこそForEver Mozartは何をやってたのかわかりやすくなったのかもしれない。

>細かい誤記の箇所や文字化けの箇所は私が修正してもよろしいでしょうか

ああ、お願いします。何だったら、上記のゴイティソーロの箇所は丸々消しちゃっても構いません。コメント欄に書くには長いなあ、と思ってもいたし。

あと、ゴイティソーロ絡みで言いますと、まず、採録に入ってるインタヴューでは
1. ペソアの『不穏の書』(近年出た邦訳の完訳では『不安の書』)を下敷きに映画的創造の創設的行為を描くという案 →ForEver Mozart第3部素材へ
2. ソレルス/ソンタグの記事からサラエヴォの発想 →ForEver Mozart第2部素材へ
3. 導入部と終盤部モーツァルトを追加して4部構成へ到達、そこでショーペンハウアーを意識する
といった説明になってるんですが(ちなみにどうでもいい補足ですが
>「採録」が掲載されている冊子の中のゴダールのインタビュー
>(...)ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』と、シェークスピアの(邦訳ではショーペンハウアーのと誤記されていますが)「世界は広大な劇場である」という言葉
これはフランス映画社のHPにある柴田駿による抄訳のミスで、冊子にある堀潤之訳だとちょっと違いますね。なんか訳のヴァージョンがいくつもあるという不思議なことになってますが)、5、6年前にパウロ・ブランコに制作を提案し、お流れになった映画『クリストファー・コロンブスの帰還』というのも、おそらく『サラエヴォ・ノート』での一節を意識している可能性が高いと思います。1996年時点での「5、6年前」ならばちょっと時系列が違っちゃうので、ゴイティソーロを読む前から発想してるのかもしれませんが。

 ゴイティソーロのこの本では『パレスチナ日記』と同様に「記憶殺し」への怒りというモチーフがあって、1992年、サラエヴォ包囲にて旧東方学研究所であるサラエヴォ国立図書館がセルビア系ウルトラナショナリストによって焼き尽くされてしまったことについてこうあるわけです(たしかアワーミュジックでも廃墟となった図書館は出てきましたが)。長いのですがあまり省略せずに引用しますと、
「シスネロス枢機卿がグラナダのビバランブラの門の前でアラビア語の手稿本を焼いてから5世紀が経ち、「新大陸発見500年」の記念行事が数々執り行われる中、この500年前のエピソードは、はるかに大きな規模で繰り返されたのである。セルビア民族の神話の捏造者たちは、同国の重鎮ジューリッチやボグダーノヴィッチからも見事に断罪されながら、先祖殺しの夢をかなえたわけである。その結果、アラビア語、トルコ語、ペルシャ語の何千冊という手稿本が、永久に失われてしまった。」(『サラエヴォ・ノート』山道桂子訳、みすず書房、p.55)。

 1492年はイベリア半島からユダヤ人が追放された年でもあり、スペインから異教徒・異文化を排斥して近代化した転換点にあたる。ゴイティソーロはある意味で文章においてスペイン人に向けて呼びかけてもいて、かくもスペイン系の文化の名残をもつセファルディのユダヤ人をなぜ見捨てるのか、というふうなサラエヴォのユダヤ人の証言を文字にし(p.60)、イスラム教徒、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒が共存しえた中世のトレドをサラエヴォに見るような視線を送っている(p.146)。これはちょっとゴダール好みの視点で、在りし日のサラエヴォにもう一つのありえたかもしれないスペインを見出す、という手つきなわけですね。で、ユダヤ人、イスラム教徒、カトリック教徒という要素が終結するのみならず、コロンブスを起点とするアメリカ侵略の開始でもあるのだから、ネイティブ・アメリカンという要素が加わっている。こうしてみると、「1492年」というのは年号というよりも半ば固有名に近い操作が可能になっていて、そういう構想が『クリストファー・コロンブスの帰還』にあったんじゃないかと。

 そして、『アワーミュジック』にアメリカ独立戦争やインディアンが唐突に出てくるのも、この線で考えると別に不思議ではなく、残滓のようにいろいろつながっているんでしょう。先のセルファディはこうも言っている。「ボスニアの異なる宗教の共同体間には、とても良い関係が存在していました。サラエヴォは『小さなエルサレム』と呼ばれたものです。イスラム教徒の子息が、ユダヤ人の職人の工房に仕事を習うため、働きにくることもよくあった」(邦訳p.61)。ここで、別の意味での固有名「イェルサレム」が出てきてもいるわけだし、『アワーミュージック』でゴイティソーロとダルウィーシュを選んで引っ張ってきたというのは、以上の背景からすると実にわかりやすい構図だと思います。ゴダールにとって「スペイン」は、以上のような問題系の結び目だったんじゃないかと。

とまあ、あんまりサラエヴォ〜スペイン〜イェルサレムの話をすると待機とか労働とかの話から外れすぎちゃうし、引き出しもまだ揃ってないのでこのへんで。
Posted by ttt at 2009年11月03日 11:53
 『アワーミュージック』を見た当時の読解をblogの方に転載しておきました。といっても、前述した非対称的な要素とその操作についての詳細な読解、というよりも、それらを「以下のような要素群が一堂に会している」というふうに一蹴する、といったやり方であり、そうした諸問題の個々を追跡しない、という選択のもとで書かれているような文章ですが。

 なぜそういう姿勢を取ったのかは、暗中模索にある当時の問題設定のためなのですが、これを補注で鮮明にしようとしたけれども、余計にわけのわからない感じになったかも。第三者のみならず、現在の私でもどうやってやり直せばいいのか、どう読み直せばいいのかと悩んでしまうような試行錯誤の最中だったので。当時はこれで「よし、(自分なりの)ゴダールに終止符を打った!」な勢いだったんですけれどもw
Posted by ttt at 2009年11月03日 15:26
nos様

 ご参加、嬉しいです。
 ご指摘いただいた『フォーエヴァー・モーツァルト』から『ノートル・ミュズィック』への移行がなされている箇所、確認してみたいと思います。

ttt様

 『フォーエヴァー・モーツァルト』と『ノートル・ミュズィック』の二作における、ゴイティソーロの『サラエヴォ・ノート』の重要性、よく理解できました。

 「ボスニアの異なる宗教の共同体間には、とても良い関係が存在していました。サラエヴォは『小さなエルサレム』と呼ばれたものです。イスラム教徒の子息が、ユダヤ人の職人の工房に仕事を習うため、働きにくることもよくあった」

 の記述などはまさしく「ノートル・ミュズィック=私たちの音楽」にほかなりません。

お二方へ

 ゴダールが『ノートル・ミュズィック』に関して率直なことを述べている貴重なインタヴュー(http://www.bfi.org.uk/sightandsound/feature/313/)が存在するのはご存知でしょうか。ここでは、『ノートル・ミュズィック』がもともと、ドイツのレーベル「ECM(http://www.ecmrecords.com/)」に関連する音楽家を訪問する映画になる予定だったという事実が明かされています。企画そのものは消失したけれど、サラエヴォの街で「ノートル・ミュズィック」のタイトルがよみがえったのだそうです。
 とりわけ興味深かったのは、「天国」の場面が「アンチ・アメリカ」であるという批評に対するゴダールの言葉です。彼は「もし陸軍と海軍が天国を目にすることがあるならば、その道々は護られていることに気づくだろう、合衆国の海兵隊に」と歌うアメリカの「海兵隊賛歌」をそのまま「天国」の映像と化したことを明かしています。「海兵隊賛歌」が「ノートル・ミュズィック」である、とまで述べたら度が過ぎるでしょうか。ただ「アンチ」が存在しつつづける限り、あの「ボレロ」は鳴りやまず、「ミュズィック」も「ノートル」足りえないままなのです。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月04日 01:14
持田さん tttさん

こうした対話ができることが嬉しいです。
90年代以降のゴダールについては、公開のたびに批評家や文化人たちのコメントにがっかりしてきたので、僭越ながら胸をお借りしてお話したく思います。

『アワーミュージック』では、オルガのロシア性についてもっと注目されるべきだと思います。このロシア性は、ドストエフスキーの深い、それも負の部分において代表されます。『悪霊』のキリーロフが引用されるのもここにおいてです。自殺=犠牲を軸に、キリーロフが一方にいる。もう一方は誰か。tttさんブログのセバーグという指摘にも頷かされつつ、僕はジャンヌだと思ってきました。ゴダール(サラエボにたどり着いたゴドー=GODard)の授業において裁かるるジャンヌがオルガの内面に対面するのです。

個人的な思い出となりますが、僕は90年代半ばにボスニアやコソボに通ったことが、『フォーエバーモーツァルト』以降のゴダールを同世代として見る感覚を形成しています。当時サラエボからセルビア側へ向かったことがあります。朝4時頃、霧の中を小走りしていると、パーン、パーンと、狙撃されました。林を駆け抜け、セルビア側の村で老婆にサモワールで茶をいれてもらいながら、拙いロシア語で交わした会話を憶えています。「二つのサラエボがあるのさ。ムスリム・サラエボと、ロシアン・サラエボ。」オルガは僕にとり非常に生々しいキャラクターです。
Posted by nos at 2009年11月05日 22:08
 ジャンヌ・ダルクとジーン・セバーグ。
 二人は実際に結びついていたのですね。

 http://www.amazon.com/Saint-Joan-VHS-Richard-Widmark/dp/6303118127

 自殺=犠牲は本来、ジュデスに課されていたのですが、ジュデスを演じたイスラエルの女優サラ・アドラーにその役割を拒絶されたために、ベルギーの女優ナード・デュー演ずるオルガが登場することになる経緯が、ゴダールのインタヴューで語られています。

 ゴダールの愛する女性像はいくつかあると思いますが、『勝手にしやがれ』のパトリシアからオルガに至る「少女性」に対する愛情は大きいと思います。(続きはまた後ほど…)
Posted by 持田 睦 at 2009年11月06日 10:22
> ゴダールが『ノートル・ミュズィック』に関して率直なことを述べている貴重なインタヴュー

これ、当時拾ってプリントしたはいいけれど積んだままだったんで、この機会に、とばかりにさくっと訳そうとしたら…さくっとは終わりませんでした。まあ半分ぐらいは終わったんで、完成したらblogの方に適当に載せますね。「一年間オプティミステックにやってみたけど僕のオプティミズムはもう疲れ果てた」と言ってるのが良かった。生々しく新鮮な新生ゴダールを期待するマイケル・ウィットが見事に肩透かしを食らってますが、あれは意地悪で言ってるんじゃなくて、そういうもんでしょうねえ、と思いつつ読みました。
 あと、ペレシャンの『始まり』をyoutubeで見ましたが、時系列上にファウンド・フッテージを並べていくという意味と、構成の若干のleadingのルーズさという意味で、『始まり』と地獄篇はよく似てますね。下敷きの作品だったのかな、ってぐらいに。

>Saint Joan
プレミンジャーの『聖女ジャンヌ』ですね。『勝手にしやがれ』に出演する前のセバーグの前史みたいな作品で、たしかゴダールを含めカイエで絶賛された作品だったかな。工業的には惨憺たるものだったらしいですが。

まあ、セバーグと言ってもあんまりセバーグ自身にはこだわってなくて、せいぜい面白くつながるとしたら、『勝手にしやがれ』ラストショットのセバーグは、「自分が裏切った男の死を見つめている顔」なんですよね。裏切り者の顔が、ほとんど無時間的な感じの長さでショットが持続し、何ともいえない不穏なものになっていて、顔つきから何から、死人はむしろセバーグのようにも見えるような…。そういう、裏切り者/死者の顔であり、名も無き人々の顔であり(『21世紀の起源』で使ったように)、という振幅が面白いぐらいかなあ。実際、戦争なんてやむにやまれぬ裏切りが多発するものですし、生き延びる人間は事実はどうあれ、死なれた隣人に対しての裏切りのような後ろめたさがあるでしょうし。そういう意味で多義性を見出してゴダール自身はこだわったんじゃないかなあ、という気はする。まあ、あのショットは、セバーグ自身はどうあれ、ちょっと特異なんですよ。

> 自殺=犠牲は本来、ジュデスに課されていたのですが、ジュデスを演じたイスラエルの女優サラ・アドラーにその役割を拒絶されたために、ベルギーの女優ナード・デュー演ずるオルガが登場することになる経緯

ほほう…。平倉圭に「ゴダール、VJ」(『InterCommunication』No.62、2007年秋号)というアワーミュージック読解がありますが、いかに作為的にオルガ/ジュディット間で見間違えを起こすべく凝らされているか、という分析がされていて、一種の分身関係にあるのではないか、といった指摘をたしかしていました。まあ作品読解としてはそんなに面白くは無いんですが、地味に「おっ」っていう指摘でしたよ。あと、「デジカメは映画を救いますか?」という質問に暗闇の中で無言で表情の見えないゴダールが佇むショットがありますが、画像をキャプチャして執拗に彩度とコントラストを調整すると、口を半開きにしてる顔が判明する、これは『映画史』で言及された収容所の「ムスリム」の表情を重ね合わせたのでは…とか。

しかし、ジュディットとオルガは別単体の登場人物である必然性がいまひとつわからなかったけど、割と腑に落ちる経緯ですね。
Posted by ttt at 2009年11月06日 11:22
>僕は90年代半ばにボスニアやコソボに通ったことが、『フォーエバーモーツァルト』以降のゴダールを同世代として見る感覚を形成しています。

これは経験としては私は何も共有しないにもかかわらず、何かしら頷かされる話ですね。ジガヴェルトフ時代、ミエヴィル時代、とあって、次にあるのはしばしば「映画史制作開始以降の時代」とされるんですが、ここにはもうちょっと多線的なものがあるように思うんですよ。まずは「冷戦崩壊以後」であり、その端緒として『新ドイツ零年』がある、そして92年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(と日本語では表記されますが、要はボスニア戦争(Bosnian War))、そしてその代表のごときサラエヴォがあり、上記のインタヴューでもウィットが暗に言いたそうにしているように「サラエヴォ以後」がこのとき始まるし、サラエヴォに言及した小作品がぽつぽつと出てくる。

 ざっと考えるだけでも、
映画史制作: 諸断片と構成の問題系がいまだかつてなく浮上する
冷戦崩壊: 歴史の問いが俄かに浮上する
サラエヴォ: 「ヨーロッパ」の全体性とそれによる逆説的な注目がはじまり、遠近は括弧に括られつつ(ウンハイムリッヒなものとしての「サラエヴォとここ」みたいな)戦争と日常の混在が全領域化するという視点が浮上する
 少なくともこうした三本の線が一気に炸裂しはじめ、90年代中期ぐらいからゴダールなりの歩みとその成果が出てくる、という姿がある気がするんですね。

>『アワーミュージック』では、オルガのロシア性についてもっと注目されるべきだと思います。このロシア性は、ドストエフスキーの深い、それも負の部分において代表されます。
 これは、力量的に及ばなかったので手が出なかったんですが、西(フランス)からサラエヴォへ、というのとは別に、東(ロシア)からサラエヴォへ、という両面がありえるし、潜在的にはありそうなんですよね。でも『子供たちはロシアで遊ぶ』の把握もあまり進んでなくて、まだこの線が私にはどうもはっきりしいてきません。
 冷戦崩壊と映画という意味では『フルスタリヨフ、車を!』は強烈な印象を覚えましたが…。スターリントラウマとでもいうべきものの体現みたいな映画で。
Posted by ttt at 2009年11月06日 12:01
『男と女のいる舗道』でアンナ・カリーナが『裁かるゝジャンヌ』を観ている。つまり、ジャンヌ/セバーグ/ジャンヌ/カリーナ/ジャンヌ/オルガ、という切り返しショットが織られている。

ゴダールのインタビューというのはすごくおもしろくて、つまりおもしろく語られていて、7の韜晦に3の本音という感じ。僕は彼一流のトリックにひっかからない自信がないので、映画を先に何度も観てからでないと読まないことにしています。『アワーミュージック』で言えば、非常にあやういことをインタビューで答えている。自爆テロのことです。911のことです。つまり、彼のこれまでの「非対称」についての倫理だと、911はアメリカとの負の切り返しショットを取り結んでいるのではないのか。これを彼は否定できない。この映画で賭けられているのはこの問いといってもいい。だからオルガの中のキリーロフに対して、到着したニセの神(彼は天国近くの自宅で頭をぶつけるほど間抜けです)はジャンヌを切り返さねばならない。

「デジタルビデオは映画を救うか?』への沈黙についての僕の解釈は、前作『愛の世紀』への理解の仕方に依ります。『愛の世紀』では過去である第二部においてデジタルカメラが使用されている。第一部の現在はモノクロです。ここでのデジタルカメラの映像は、これは単なる死んだ過去ではないことを意味します。むしろこのままでは死んでいるのは現在なのです。これは異常な過去、ベンヤミン的に言うなら、新生が出来する過去の生起なのです。だから、いかにデジタルカメラが使われるかが問題なのです。それを理解せず、ゴダールがデジタルカメラを使ったことをあげつらうことは不毛です。ゆえにそのような問いに答えはないのです。
Posted by nos at 2009年11月07日 22:26
平倉圭さんは楽しみな研究者ですね。分析の精緻さでは群を抜いているでしょう。このあいだの博論も本になるようで、期待しています。
ただオルガ/ジュディットの分身関係というのは必ずしもそうではない。ユダヤ/イスラエルという表層的な対置もありますが、ジュディットには「犠牲」が無いのです。「死んだ蜂に刺されたことはあるかね?」という問いに彼女は答えられない。むろん答えなどない。いかに対面するかが問われるレジスタンスの問いなのです。ダーウィッシュへのインタビューでは彼女選任のカメラマンはピンポンとしての「切り返しショット」を撮ろうとするばかりです。モスタルではインディアンたちを撮ることができない。彼女はレヴィナスを読む。しかしオルガは本に対して命を賭す。

平倉さんへの批判のようになってはいますが、僕なりの切り返しショット理解の一部はこちらでメモしました。
http://angel.ap.teacup.com/applet/unspiritualized/20090208/archive
Posted by nos at 2009年11月07日 22:41
>ただオルガ/ジュディットの分身関係というのは必ずしもそうではない。(...)
>ジュディットには「犠牲」が無い(後略)

たしかに。私の中ではジュディットって存在感が一段落ちるんですよね。なんかこう、対等の分身というよりはサブユニット程度っていうかw 外見上の見分けのつきにくさの仕掛けという以上に、行動の筋があまり鮮明ではないという気がするし。オルガと対比すると、前段階的なステージって感じの扱いなのかな。

>「デジタルビデオは映画を救うか?』への沈黙について
 これはねぇ、文字通りの問いとして扱うと、「どう使うかの問題であって、そんな質問は意味が無い」ぐらいにしか言えないわけだし、デジタルだろうとアナログだろうとそれ自体でどうこうって問題じゃないでしょう、という話になる。
 あのシーンって、「でも何であんなシーンをゴダールは入れたんだろうね」ぐらいの話にしかできないと思うんですよね。私はそこに平倉のようにゴダールの特別な挙措を見出すのはどうもうなづけなくて(そもそもムーゼルマンとつなげる発想自体が、彼の類似性読解の路線に根拠付けられているし)、「無言+表情不明確」の顔でもって対峙させる、という試みをやってみたかったのか? ぐらいにしか感じないというか。質疑応答の場にあって穴を空ける行為を持ち込みたいという――見ようによっては三篇間のつながりの謎と同じようなタイプの間隙を持ち込むという――意志ぐらいなのかな、と。

>ゴダールのインタビューというのはすごくおもしろくて、つまりおもしろく語られていて、7の韜晦に3の本音という感じ。
 これは同感ですね。嘘言ってるんじゃないかって思うときはかなりあるし。彼のインタヴューで一番得られるのって制作進行の経緯とか、脇のことが多い気がする。あと、作品についてのコンセプトというよりは、彼自身の雑談を聞いているうちにふと漏れる1割ぐらいの心境告白的な独白というか思考の癖みたいなのをつかめるっていう感じかな。話している時点で、彼の体質的な思考の定型句をブリコラージュ的に用いてその場その場で作ってるような言い回しが多いと感じるというか(大半については「またこの話か」と思う)、即興でそれっぽいことを言ってるように思えることが多いというか。

>『男と女のいる舗道』でアンナ・カリーナが『裁かるゝジャンヌ』を観ている。ジャンヌ/セバーグ/ジャンヌ/カリーナ/ジャンヌ/オルガ、という切り返しショットが織られている。
これはねぇ、カリーナがドライヤーの晩年期のイエス伝みたいな作品を撮ろうとしたときにマリア役をカリーナにやらせる話があった(が、たしか着手するまもなくドライヤーが死んだ)とか、その手の接点はあちこちにあるんだけど、言い出したら切りがなくなるし、作品として提示された、イメージとしてそこに提示された、という良かれ悪しかれ輪郭や一定の構成がある範囲から外れすぎちゃうんで、波及させない方がいいと思うんですよ。セバーグを喚起させた私が言うのも何だけどw
 まあ、ショットの特性としての話法の一時中断的視線、視線の帰属先の抹消線の刻印、といった意味で『勝手にしやがれ』ラストショットの可能性とその発展的継承、ということであって、「裏切り者/死者の顔であり、名も無き人々の顔であり」というのは、『21世紀の起源』ではある程度合致するかもしれないけど、アワーミュージックでこれを絡めてもあまり面白くならないでしょうね。むしろ、一旦『勝手にしやがれ』ラストショットを序章的に引き合いに出しつつ、アワーミュージックでのオルガを見つめるあの二つのショットを精緻に分析する……といったシフトをした方がいいと思う。

 まあ、平倉については、ちょっといいところもあるけれど、現時点では「うーん、困ったな」ってなることの方が多いですね。いずれドゥルーズ『シネマ』をじっくり読み解いた際には、私は彼のシネマ読解を批判するかたちで突っ込む可能性もあるし。
Posted by ttt at 2009年11月08日 01:58
 たった今『ノートル・ミュズィック』のDVDを見終えました。このコメント欄における対話のお陰で、見どころ満載、充実した時間を過ごすことができました。ただ依然としてすっきりしない気持ちが残っているのは事実で、とりわけ「天国」の場面に関しては、「天国」の語に自分は惑わされていたのではないかと急激に不安になっています。天国の水辺で男が手にしている「Sans espoir de retour(=Street of no return)」の書名が示しているのは、オルガが「不死の世界」にたどり着き、もはや「生から死へ」そして「死から生へ」戻ることがない(=ノー・リターン)ということなのだろうか。しかしオルガが望む「天国」がそうした単一で単調な「天国」などということがありえるだろうか。あの「天国」を支配しているのは、この世界を支配している「あのものたち」、ティタンを征服した「新しい神々」であるとすると、オルガの「自死=犠牲」は無益であったということになるのではないだろうか。その入り口で、合衆国の「海兵隊賛歌」が実際に流れている「天国」はやはり、薄気味が悪いように感じるのです。

 tttさんにご教示いただいたYouTube上のペレシャンの『始まり』、

http://www.youtube.com/watch?v=Ff3j9d8K17c&feature=PlayList&p=499D823A0CFA8FEE&index=3

 とても勉強になりました。「地獄篇」よりも出来が良いと感じたのは私だけでしょうか。

 ゴダールの講義の場面で「ショット」と「切り返しショット」の具体例として、「イスラエル」のカラー写真と「パレスチナ」のモノクロ写真が交互に挙げられているのを見て、nosさんの『愛の世紀』についての言葉を思い出しました。この場面、英語字幕ではこうなっています(私の所蔵するDVDは英語版です)。

For example, in 1948 the Israelites walked in the water to reach the Holy Land. The Palestinians walked in the water to drown. Shot and reverse shot. The Jews become the stuff of fiction, the Palestinians, of documentary.

(例えば1948年に、イスラエル人たちは聖地にたどり着くために、足を水に浸した。パレスチナ人たちは溺れるために、足を水に浸した。ショットと切り返しショット。ユダヤ人たちはフィクションの題材になり、パレスチナ人たちはドキュメンタリーの題材になる。)

 カラーとモノクロは、フィクションとドキュメンタリーに対応するのではないかと想定するのはやはり安易でしょうか。

 オルガとジュディット、前者はフィクションで、後者はドキュメンタリーと言うことができるかと思います。ゴダールのインタヴューでは、オルガはジュディットの切り返しショットかもしれない、などと口にしていますので、なるほどそうかと思いたくなりますが、これを真に受けるのは危険なのでしょう。オルガとジュディットの役割が最初の予定通り、サラ・アドラーひとりによって演じられていたらと想像すると、「オルガ=ジュディット」は、「ゴダール」の切り返しショットとみなすのが適切ではないかと考えはじめてみています。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月08日 03:55
先のウィットによるインタヴューですが、さくっと訳しておきました。
「ゴダール・インタビュー:私、イメージの男」
http://nn-nico.blogspot.com/2009/11/blog-post.html
わざわざ訳すほどのものか? という疑問もなきにしもあらずでしたが、ちらほら「へー」って箇所もあるんで敢行。
「――あなたの作品では自殺の主題が定期的に繰り返し登場します。(後略)」への応答箇所の英文理解がところどころ自信なし。

>「天国」はやはり、薄気味が悪い
 いろいろ奇妙な要素を故意に入れているのは間違いないのですが、しかし面白く展開して読めるかっていうと、なんか構成が今ひとつな気がするんですよね。ただ、言えるのは、あれはユートピアというよりはディストピアで、ほとんどアイロニーだっていうことでしょう。

>ペレシャンの『始まり』
 簡単にまとめると、十月革命→レーニン死去→計画経済開始→驀進するドイツ軍→独ソ戦争→もろもろ みたいな感じで振り返られる1918〜1945って感じですよね。革命も労働も戦争も犠牲も、すべてはもはや粒子の運動のごとき群集の力能/犠牲なのである! みたいな。
 地獄篇の場合、注意して見ると、戦争が機械兵器に移行していくとか、大雑把な時系列があったりするのですが、映像が多彩になってしまった分、締まりをどう構築するかに迷った感がある。

>"ユダヤ人たちはフィクションの題材になり、パレスチナ人たちはドキュメンタリーの題材になる。"
 それは『JLG/JLG』以来あるモチーフですよね(『ヒア&ゼア』は知らないのでここでは除外)。表象の光学があり、national identificationとしての表象が生じて、その光ゆえに敵(パレスチナ側)もまた同じ道を辿る…という。『愛の讃歌』におけるその箇所の「フィクション」の意味合いは、表象されているイメージってことでしょう。対置されている「ドキュメンタリー」とは対抗的な事実、ってことでしょうね。

 ただ、何だろう。こういうくだりについて一々大げさに、あるいは軽率にゴダールを称賛するのは率直に言って少々馬鹿らしく感じていましてね。これって一次的/二次的、直接的/間接的、本質的/派生的といった序列を喚起させやすい含みがあるでしょう。フィクション=表象で、ドキュメント=真性? ふざんけんな、と。ドキュメントかつフィクションであるような絡み合いは避けられないし、フィクションの生成力とか創出性とかもあるわけだし(「かくもドキュメンタリーであるがゆえに可能になる創造」といった口ぶりは容易に浮かびますよね)。ウィットによるインタヴューでの読む/見るにも言えることですが、単純な二元論や固有性の称揚をやりすぎなんですよ、ゴダールは。少なくとも、台詞や発言ではその種の甘さがあちこちにある。

 たとえば、じゃあ『愛の讃歌』におけるカラー/モノクロ/デジタル加工カラーは何らかの本質(真性)からの距離から序列になるのか、というと、そう考えても面白くならないでしょうし、むしろ、自然=カラーみたいなのを一旦崩すために色彩加工カラーを持ち込み、カラーとモノクロをともにフィクションの別々の相のもとに置こうとした、ってところでしょう。そしてそれは、単に順序の問題にとどまらない時制の複合状況と重なるわけです。
 ちょっとなあ、ゴダールは奮闘してるので、一定の好意はもちながら模索における可能性を選択して問うわけではありますが、実際のところ、ナイーブな二元論などもちらほらあるわけですよ。かつてゴダールファンがそういった二元論に平気でのっかかり、さらに馬鹿になった、というのを散々見てきたので、そういう警戒は適宜必要ですよ。結局、自分にとって何の糧にするために読むのか、ってのが重要になるわけです。

 なんだか蛇足というか無関係な話に飛ばして愚痴ってしまったようですが…
Posted by ttt at 2009年11月08日 19:40
持田 睦さん tttさん

「天国」についてはお二人の見解には反対です。あれは「犠牲」を実行した人間が行く処です。もし「犠牲」ではなく「テロ」だったならばそこは「地獄」だったのです。そして「地獄」はあの「煉獄」を通り抜けることで「天国」へと変わりうる。そしてまた「天国」は過去でもあります。要はエデンの園なのです。エデンを出た人間が「地獄」を為したのだが、それが新生してこそ「天国」となるのです(林檎に注意)。
『Sans espoir de retour』はデビッド・グーディスの本であり、ゴダールが愛するサミュエル・フラーの同名作の原作ではありませんか。あの映画は、黒人と白人が暴力で対峙する街で真実の愛を求める男の物語です。もちろん、そこを通ればもはや戻ることはできない。しかし、そこを通ることでしか救済はありえないのだ、と僕はとらえます。
Posted by nos at 2009年11月08日 23:27
ちなみに『アワーミュージック』の授業シーンにおけるオルガの顔とドライヤー『裁かるゝジャンヌ』の一シーンのジャンヌの顔とは、コマレベルで厳密に対応するように重ねられているのです。
Posted by nos at 2009年11月08日 23:38
>『Sans espoir de retour』はデビッド・グーディスの本であり、ゴダールが愛するサミュエル・フラーの同名作の原作ではありませんか。

 ああ、フラーってほとんど見てないからそれはわかんなかった。私はSans espoir de retourについて作中で出てきたのを完全に忘れてたんだけど、要はnon retourable pointとってことかと。「決定的移行」の言い換えと理解できる範囲の語彙かと思った。移行ののち、survie(残余/余生)が無いかと言うと、そういうわけでもなく、むしろ移行ゆえにsurvieが可能になるのでは、と思ってたので。というわけで、retourの語は、survieの運動としてのretourでありそれが不可能になる、という意味ではなく、survieを可能にするretourの「以後」に置かれていますよ、ってことかと。fatalなmomentによってsurvieが可能になるということでしょう。

>あれは「犠牲」を実行した人間が行く処です。もし「犠牲」ではなく「テロ」だったならばそこは「地獄」だったのです。
 なるほど。その差が大きいという読解がありえるわけか。ほとんど偶然みたいな死に方なのに、同時に犠牲でもある(平和運動でもあるんだし)というのがキーになるんですね。

ただ、なんでアメリカ海兵隊がいるのか、そこが結局すっきりしないんですよ。あれは何なんだろう。ここが腑に落ちなくて、視線とオルガの関係に焦点を絞ってたんですよね。
Posted by ttt at 2009年11月09日 01:08
補足
 で、あの海兵隊の要素がよくわからなかったんで、天国の位置づけの多義性を高めるため、または多義的な喚起性をさらに強化するための工夫として盛り込んだ、ということだったのかな、と思ったわけです。
 移行の後にあっても軍事的な力関係の不均衡もまた残る、ということなのか、海兵隊もまた天国の住人であって、ある意味で対等にそこにあるのだ、ということなのか。単に出てくるだけ、という扱いに見えたので、それ以上読解を進ませる契機を見つけ出せなかったのです。
Posted by ttt at 2009年11月09日 01:13
>オルガの顔とドライヤー『裁かるゝジャンヌ』の一シーンのジャンヌの顔とは、コマレベルで厳密に対応するように重ねられている

なるほど。というか、上記のようにsurvieの論旨を整えてやっと受難・殉教の扱い方が腑に落ちた。suriveを可能にするmomentを、受難・殉教でもって作っているわけだ。デリダのブランショ論みたいな話だな。

無理矢理世俗的に翻訳すると、passionの経験やpassivilityがもたらす時間-空間がmomentとなり、fatalな出来事が生じ、以後はsurvieが作動し始める、といったような。でもこう抽出すると、平和運動とかパレスチナとかもろもろの内容面が薄まりすぎるかな。
Posted by ttt at 2009年11月09日 01:26
 「天国」について、もう少し。

 やはり「アメリカ海兵隊」が気にかかるのです。最初は私も、tttさんのおっしゃる「多義性を高める」ために必要な要素と理解しており、4年半前には以下のように、「アンチ・アメリカ」を軽やかに飛び越えた場面として『ノートル・ミュズィック』の「天国」を評価したのでした。

http://moz-art.blog.ocn.ne.jp/index/2004/08/post_3.html#comment-1238743

 この評価はつい最近まで変わらなかったのですが、今回のお二方との有り難い対話を通じて『ノートル・ミュズィック』を見直しているうちに、楽観的だった私の「天国」観は、オルガの悲観的(=ロシア的?)あり方に引きずりこまれているようなのです。

 簡単に申し上げると、『ノートル・ミュズィック』の「天国」は、パヴェーゼの『レウコとの対話』における「不死の生」の概念、「死にたくても死ねず、生きたくても生きられない」に極めてよく似ているのです。例えば私があの「天国」から思い出すのは、『レウコ』第16話の「島」です。

カリュプソー: オデュッセウス、ちがいなんて大してありゃしない。あなただってわたしと同じで、ひとつの島にずっといたいのよ。あなたはありとあらゆるもの目にし、ありとあらゆることに苦しんできた。わたしもきっといつか、わたしが苦しんできたことをあなたに話してあげる。わたしたちはふたりとも、とんでもない運命にはもううんざりじゃない。どうして旅をつづけなきゃならないのよ。この島があなたの探し求めていた島でないからと言って、それがなんなのよ。ここだったら、なんにも起こらないのよ。あるのは地べたがほんの少しと水平線だけ。ここだったら、あなたはいつまでも生きていられるのよ。
オデュッセウス: 不死なるものの暮らしか。

 この島には「アメリカ海兵隊」がいることが、今の私には分かります。そしてオルガは、オデュッセウスと同様に、目に映る水平線が受け入れられず、まぶたを閉じて、かつて自分が生きた島(=地獄? 煉獄?)に思いを凝らすのです。

 そういえばオルガはゴダールの講義を受けている時もまぶたを閉じていました。あの時は、恐らく「天国」に思いを凝らしていたのでしょう。彼女の周囲の学生たちの不真面目ぶりは、彼女に「自死」を決意させるに十分なほどでしたが、天国の若者たちも、あのオルガの生真面目ぶりとはかけ離れているように思います。仮に私が「自死」の後にあの「天国」に足を踏み入れることになったとしたら、オルガのように、結局は居場所を求めてまぶたを閉じることになるのだと思います。

 サミュエル・フラーの『ストリート・オブ・ノー・リターン』は数年前に『ノートル・ミュズィック』理解の手がかりを求めてビデオで見ましたが、当時の私には収穫がありませんでした(今見たら気付く点はあるかもしれません)。昨夜の鑑賞では、グリーンの『真夜中』が気にかかりましたので、地域の図書館で借りて読んでみようと思っています。

 tttさんの「インタヴュー」翻訳、仕事の速さに驚嘆しています。大いに参考にさせていただきます!
Posted by 持田 睦 at 2009年11月09日 02:34
出先からなので手短になりますがご容赦ください。

海兵隊ですが、まずエデンの守護天使ケルビムであるということ。ケルビムは剣と炎で戦う天使です。皮肉も込められているでしょうが、重要なのはあの兵士もまた「犠牲」によってあそこにやってきたのであろうということではないかと思います。
Posted by nos at 2009年11月09日 09:39
 久しぶりに『私たちの音楽』を見ています。通しで見たのは、今までに3度もないのですが。――というのも、私はゴダールの作品構成では、積極的な意味でphrasesというかエクリチュールとなっている、すなわち断片やその負荷から問うことができるものになっているし、ゴダールが成し遂げた成果の一面はそれだと思っているからでもあるのですが。と同時にこの見方は、作品の全体構成としての線の収束と展開を時には見捨てる、読解放棄することにもつながちかねないリスクがある――というわけで今回も途中から唐突に見始めるのですが、1:01:36-あたりの〔PAL方式DVDではない海外盤では1:04:20-あたり〕キュルニエ/マイヤール/ゴダールの会話がちょっと面白い。

 インタヴューでもダルウィーシュの発言はかつて別のインタヴューで言われたことの再演だと言われているように、おそらくゴダールはその筆者たちを起用させるに至った関心の出所だったテキストなり思考なりをピックアップし、それを再上演するというかたちで喋らせているのでしょう。その意味では、オルガやジュディットといったfictionalな登場人物では「一体何を彼女らは考えていたのか」という問いかけが可能であるのとはまた別に、彼ら著者は「なぜ・どのように再上演(演奏、翻訳)されたのか」という問いがありえている。

 そこでこの三者シーンですが、証言者の話になった後では"絡みがない"。ルフォールのくだりと証言者のくだりである程度は別箇の話題に移行しちゃってますね。ゴダールの発言ないので実質二者シーンと言っていいのですが、その後のマイヤール/キュルニエが順々に喋ってる箇所では、応答として台詞が続いていない。二人ともがそれぞれ、一繋ぎの文章を再上演的に交代で話しているだけのようになっている(ここはちょっと『ウイークエンド』終わりごろの黒人労働者と白人労働者の分断的な併行語りを思わせる)。

 で、言われていることは、
・マイヤール「私が信じるのは、死を前にした証言者だ」
英訳srt:I only believe stories whose witnesses
would have their throats cut.
 英訳srtと対比する限りどうも採録邦訳は訳し下しすぎてる。histoire d'on temoine...とか言ってる。重訳すると「自らの首をかき切るであろうことを証言/目撃[witnesses]する物語/歴史だけを、私は信じる」。
・キュルニエ「よほど皮肉な人でなければ、その意図と関係なく、怒りを表さない被害者は耐え難いものだ」
英訳srt:Without getting so cynical. It's virtually intolerable...to hear victims without anger or disgust be reduced to this. Due to, or despite, oneself.
 「シニカルにならずとも、犠牲者(被害者)が犠牲を怒りや不満へと還元することなく話すのを聞くのは、潜在的には耐えがたい。その人に基くにせよそうではないにせよ」ぐらいの意味か。ああ、仏語採録欲しい。
・キュルニエ「目の前にあるのは不可能な意志を受け継ぐ、思考なき物語のようだ。かつてないほどの空虚さだ」
英訳srt:What lies ahead of us now... is like a story without thought... as if bequeathed by an impossible will. More than ever, we're faced with the void.
 「私たちの前に今あるのは、思考のない物語/歴史に似たものだ。まるで不可能な意志によって遺贈される/後世に残される[bequeathed]物語/歴史。今までになく私たちは〔思考のない物語/歴史という〕空隙・間隙[void]に直面している」
ということです。

 これはまさに犠牲と証言と、それについての不可能性をめぐる語りの話で、作品におけるオルガのモチーフへの言及になってるんじゃないかな。ここまで明確に作中言及するのも珍しい。ほとんど「解題」に近いし、レヴィナスの引用箇所を継いでいる線でも読める。テクストの上演劇の最後尾にこれが置かれているという点でも、オルガが自殺の話をした後に配されているという意味でも、大きな重要性があると思う。
 この3つで言われているのは、自殺についての証言の物語は特異性を持ち、その特異性は聞く人を限界に追いやるし、その怒りや不満に回収することなく話されたときにとりわけ開示され、それは語りや思考にとっての引き金にも決定的移行点にもなる不可能性-空隙として遺される、ということでしょう。survieについてほとんどもろに語ってるし。
Posted by ttt at 2009年11月09日 18:44
>海兵隊ですが、まずエデンの守護天使ケルビムであるということ。
 それは鮮烈な読解ですね。エデンだっていうのは何となく連想してはいたんですが…(『21世紀の起源』でも出てきているしこの作品でも重要なんですが、あれはセリーヌ的な俗語表記仏語を朗読するギヨタが把握できないのでちょっと放り投げている)。見返してみると、黒人海兵隊が出てくるのは3つの場所ですよね。川辺(での釣り)と、海辺あるいは湖畔(での防衛)と、同じく湖畔/海辺(でラジオのそばで子供と佇む検問役)。川はエデンにとっての外との境界ではなく、湖畔/海辺が境界になるんでしょう。そして検問を超えて通過した途端に「弟が生まれた」の声があがり、その後のシーンで黒人海兵隊は出てこなくなる。Sans espoir de retourが強調されるのも、リンゴを食べあうのも、この通過の後にある。

 蛇足的にいうと、アイロニーと言ったのは、皮肉という意味ではなく、多義性のことです。ソクラテス/シュレーゲルあたりで形成された意味におけるアイロニーであって、意味A/意味Bの同居がそこから生じる。ズレを可能にする振動体として、一つのユニットとして機能するのではと。

 私は天使について必要なはずの基本的知見がごっそり欠けていたりしているんですが(いつかしっかりやらんとと思いながら先延ばしにしてきている)、ミシェル・セールの『天使の伝説』をたまにざっと読むわけです。この本は対話体で進行する物語みたいなつくりになってるんですが、セールにあってはケルビムは「インターチェンジとしてのケルビム(...)ケルビムは水陸両棲なので、自分のなかのふたつの世界を接続している」(邦訳p.135)、「彼はその中に〔二つの世界のあいだ〕にさまざまの媒介物を統合している」(p.137)とされる。これはこれで整合的につながるような話ですね。おそらく防衛しているだけではなく、天国の外と内をつなぐ者なのでしょう。

 『神曲』はいまだ読み通してないのですが、聞くところによると、『神曲』では煉獄山の山頂にエデンがあるそうですね。天国に一番近くはあるのでしょうが、天国そのものではない。エデンは地上にあるものとされているわけですが、検問の手前(の海兵隊)と向こう(回帰不能点以後[apre non-retourable point])というのは、この場合どうなっているのだろう。エデンの東にケルビムと炎の剣を神は置いたわけで、(エデンの)境界の外にあって防衛しているという意味であの海兵隊がケルビウだというのは筋が通りますね。

 ただし、あの海兵隊がケルビムだとして、「なぜケルビムがアメリカ海兵隊なのか」。これは依然として多義的な作用のなかにあり続けているのではないでしょうか。
Posted by ttt at 2009年11月09日 18:56
持田 睦さん tttさん

海兵隊がケルビムであるなどということは、皮肉であり、ユーモアでもあります。例えばイスラエルの和平はアメリカの武力なくしては(いま)ありえない。アメリカが正義などではまったくないにもかかわらず、です。同時に、アメリカの世界戦略の最前線で戦っているのは誰なのか。そこで死んでいる兵士は何のために誰のために死んでいるのか。そこには若い黒人兵がいる。こうしたところにも『ストリート・オブ・ノーリターン』の主題もかかわってくるかもしれません。そして境界をくぐることが「弟が生まれたよ!」の告知と重なるということ。オルガの魂が、過去(エデン)が新生した未来(天国)へと到達した瞬間に現在(煉獄)に命が生まれるということ。

tttさん、ギヨタと言えばまさに『エデン エデン エデン』ではありませんか。
Posted by nos at 2009年11月10日 23:52
>例えばイスラエルの和平はアメリカの武力なくしては(いま)ありえない。アメリカが正義などではまったくないにもかかわらず、です。同時に、アメリカの世界戦略の最前線で戦っているのは誰なのか。そこで死んでいる兵士は何のために誰のために死んでいるのか。そこには若い黒人兵がいる。

 なるほどなあ。つまり、アメリカ軍事戦略・政治の尖兵ってだけじゃなくて、アメリカの軍事力・政治力そのものに宿るアンビヴァレンスとしても読めるのだと。登場、防衛、検閲ぐらいの要素しかない海兵隊の身振りなので、読み込むのが難しいのですが、少ない描写のなかにあっても海兵服・黒人というふうにアメリカ軍そのものに多義性を充填させたりして、切り出そうとしたんでしょうね。説得的な読解だと思います。

>ギヨタと言えばまさに『エデン エデン エデン』ではありませんか。
 いやあ、まだ読んでないんですよ。いろいろあって入手しないままに放置してて。『ヒア&ゼア』状態ですね。

持田さんへ
 レウコ読解はおろかパヴェーゼ読解がろくに進んでないので、それではさすがに申し訳がない、せめて「月とかがり火」ぐらいは読んで応えよう…と思ったはいいけど、集英社版選集が見つからない。仕方ないので、持田さんの前述の引用箇所と持田さんの主旨からだけで話します。
 ちょうどこのコメント欄でのnosさんと持田さんのやりとりが始まったときの不死者と死すべき運命をめぐる線が回帰し、唐突に始まったはずのForEver Mozartについてのやり取りだったはずがつながってきました。

>オルガの悲観的(=ロシア的?)あり方(...)
>パヴェーゼの『レウコとの対話』における「不死の生」の概念、「死にたくても死ねず、生きたくても生きられない」(...)
>カリュプソー: (...)ここだったら、なんにも起こらないのよ。(...)ここだったら、あなたはいつまでも生きていられるのよ。
>オデュッセウス: 不死なるものの暮らしか。

 これは死の契機を失って、本来的な死への切迫性がなくなって停滞し、かつ、「閉じ込められている」みたいな意味合いが出てきているってことかな。境界の外にいるのが海兵隊なので、逆手に取れは、見ようによっては海兵隊によって封鎖されたゲットーにも読めちゃうんですよね。

 パヴェーゼにおけるミュトスにかかわる対話、死の問題、oui/nonと出来事、という問題が絡み合いながら再浮上してきた感があるので、唐突に提起しますが、思うに、この問題に足を突っ込み始めると、ブランショのattende(『期待 忘却』)と、ハイデガーの言う本来的な死に対する現存在の「己自身への切迫」[steht sich bevor]を翻訳するかたちでデリダが取り上げて論じたs'attendre(『アポリア』)のそれぞれの議論系をまずまとめ、かつ、ForEverMozartがそれとは違うものとしてどういった可能性として読めるのか、はたしてそこまでいけてるのかどうか、というのを議論しなくちゃいけなくなる。しかも、ブランショにおけるヘーゲルとハイデガーの扱いと、デリダにおけるそれを吟味しなおし、かつ…、という矢鱈しんどい作業になります。さらにはそれらと、ミュトス、神話的なるものと、それについての作品とは何か、というパヴェーゼからヘルダーリン、『アワーミュージック』まで含む巨大な問題が出てきちゃうはずなんですが(キュルニエのいう思考なき歴史-物語というのは、要はロゴスを超えるミュトス、という昔ながらの議論の変奏でしょう)、私はヘルダーリンとハイデガーのヘルダーリン読解、パヴェーゼに、ほとんど触れてない段階なので、まだやれてない。ですが、一応言わないよりは言うべきことなのかな、と思い、拙速ながら書き込んでおきます。

 ヘルダーリンからパヴェーゼへと、ミュトスをめぐる主題系として継承的に移行したと思われる持田さんは、おそらくこのへんの、やり出せば相当厄介な問題系に気づきつつも、半ば暗示的にウィとノンの相補性というところで一旦は議論を終え、「字幕の不備とそれに基づく読解(浅田)の不備の指摘」というかたちで文章を締めたのではないか、と思っていました。
Posted by ttt at 2009年11月11日 06:53
 しばらくコメントを残すことができず、失礼いたしました。

 tttさんの引用されているキュルニエの台詞、私も見直してみたのですが極めて難解で、フランス語採録が入手できない限り正確な意味は把握できないのではないかという気持ちに私もなっています。たとえば、

 「Without getting so cynical.」

 は何故ピリオドで終わっているのか。

 「It's virtually intolerable to hear victims without anger or disgust be reduced to this.」

 の「this」は何を指しているのか。

「Due to, or despite, oneself.」

 の一文は前文とどういったつながりがあるのか。

 ちなみに私の試訳は以下のようになります。

 「それほどひねくれたものの見方をするわけではないんだけれど。ただ表向きは認めることができないだけなのさ。怒ったり、むかついてみせたりすることのない犠牲者たちが、自分たちのせい、とか、やむをえず、なんて言葉で片付けられているのを耳にするのをね。」

 そしてこの後に、以下の台詞がつづくのです。

 「俺たちが犠牲者たちに発言の機会を与えるのはそういう理由さ。犠牲者として何か言うように頼んでいるんだ。世界は今、真っ二つに割れちまってる。自分たちの惨めな状況を声にするために列をなすものたちと、公開陳列された犠牲者を目にするものたちとにね。そうやって自分たちの支配に対する心の慰めを一服、日々提供されているってわけさ。」

 英語字幕は以下の通り。

 「That's why we give the floor to victims who are invited to speak as victims. The world is now split in two between those who line up to voice their misery and those for whom this public display provides a daily dose of moral comfort to their domination.」

 こうした強烈にシニカルな一文を目にすると、最後の「天国」も、nosさんの理解に心動かされながらも、そのまま「天国」として受け入れることが私には困難になってしまうのです(あのフランスの知識人たちは本当に嫌なやつらなのです!)。

 たとえば私が「天国」で気にかかるのは、金網で封鎖された「天国」の中で目立つのは、特定の人種かつフランス語を口にするものたちだと言う点です。『ストリート・オブ・ノー・リターン』のフランス語版を読んでいる男ははっきり「ボン・ジュール」とオルガに挨拶していますし、バレーボールを楽しむ若者も口にしているのはフランス語のような…。アメリカ兵は「天国」に収容された若者たちとは距離を取っており(黒人兵に関しては金網の外です)、最後にオルガとリンゴをかじりあうのもアメリカ兵ではないでしょう(帽子をかぶっていませんので)。となるとあの「天国」は、tttさんのいう「海兵隊によって封鎖されたゲットー」にほかならないのではないかと、私には思えてくるのです。

 あるいは、あの「天国」にいるのが日本の若者だけであったとしたらどうでしょう。あるいは、あの「天国」を防衛するのが日本国軍の軍人で、例えば韓国の少女が自死=犠牲の果てに、あの「天国」に到達したとき、検問所から流れているのは「軍歌」だとしたら。

 nosさん、キュルニエの影響か、ずいぶんシニカルな物言いになって申し訳ございません。「天国」の理解に関しては日々心が揺れているのが実際のところですが、もうしばらくひねくれたものの見方を続けたいと思っています。

 tttさん、『Divagation』の文章は、最初はストローブ=ユイレの『アンティゴネー』について書く予定だったのが、気がついたらゴダールの世界に引きずり込まれていた次第です。議論が半ば、というのはおっしゃるとおりで、その続きが今、こうしたぜいたくなスタイルで展開されていると思っています。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月11日 13:16
 おそらくはあの作品で出てくる著者たちの発言には、露骨に彼ら自身の著書や発言などという出典があるにもかかわらず、採録および(とりあえず国内の)『私たちの音楽』読解において誰もこの点を明確にできていないんですよね。朗読・再上演という意味では、ストローブ&ユイレ的なやり方をゴダールなりに取り込んでるんじゃないの? って読み方も可能だと思うんですよ。インタヴュー中のウィットの発言で「え、そうなの?」と驚いたものでした。
 特に、内容が内容だけにキュルニエとマイヤールの文章は出典を特定したいところなんですが、よくわからない。キュルニエは、タイトルからして
著書ならば:
・Jean-Paul Curnier『La culture, suicidee par ses spectres, Editions (Sens & Tonka, 1998)か
・Jean-Paul Curnier『Montrer l’invisible. Ecrits sur l’image』(ed. Jacqueline Chambon, janvier 2009)、
雑誌寄稿であれば:
・Jean-Paul Curnier, "Il faut cesser d'etre contemporain", revue Lignes n° 36, Editions Hazan, janvier 1999.
・Jean-Paul Curnier, "Le noir du vivant, la cruaute, encore", revue Lignes n° 03, Editions Leo Scheer, octobre 2000.
・Jean-Paul Curnier, "Oui", revue Lignes n° 04, fevrier 2001.
あたりかとも思ったのですが。時期からして著書ならば前者の可能性が高い。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean-Paul_Curnier
国内公開時冊子の二つ目のフロドンによるインタヴューでは「例えば、ジャン=ポール・キュルニエは、彼が雑誌「Lignesリーニュ」に寄稿したテキストに興味を持ち、出演してもらいました」とあり、Lignes寄稿記事が出典である可能性が高い。ゴイティソーロの『包囲状態』、ダルウィーシュ『メタファーとしてのパレスチナ』を使ってるのだとほのめかしていますしね。『包囲状態』とは包囲下サラエヴォの経験をもとにした小説『包囲の包囲』(『El sitio de los sitios』, Alfaguara, 1995, 未邦訳)の仏訳書だと思います。
 採録が出たとしても、Phrasesシリーズは句読点を剥ぎ取って改行しまくった、まさしくPhrases(楽句群・詩句群)といった類なので、文章の区切りの確定という意味ではそれぞれの著書に当たるしかないのでしょう。

>特定の人種かつフランス語を口にするものたちだと言う点です。『ストリート・オブ・ノー・リターン』のフランス語版を読んでいる男ははっきり「ボン・ジュール」とオルガに挨拶しています
 ああ、そこは確かに重要だと思う。煉獄最初の空港あたりとか、ダルウィーシュインタヴューとか、完全に多言語空間と並行的関係、翻訳という問題があったはずなのに、対比されるようにしてそれらが消えてしまっている。ペシミスティックでシニカルな線として一度きっちり読み込む必要もあるでしょうね。

>自分たちのせい、とか、やむをえず、なんて言葉で片付けられているのを(...)
 ああ、そっちのほうが的確な理解かもしれないですね。due to oneselfというのは、「犠牲者自身の自己責任」って意味か。
>自分たちの惨めな状況を声にするために列をなすものたちと、公開陳列された犠牲者を目にするものたちとにね。
 これは、要するに証言者の語りが、第三者にとって利用されちゃうってことですよね。「不可能な意志によって遺贈される/後世に残される[bequeathed]物語/歴史」というのは、いわばそれを真摯に見つめるときの局面であり、という方だと思い、つまり、証言というのはかなり翻訳者・読解者側にとって左右されてしまう危うげなものだってことだろうと思い、とりあえずこっちの線を重視したわけですが。

 しかし、持田さんの訳文は、語彙の孕む広がりを損なうことなくそれでいてうまく口語的にすっと読めるようになっていて、すげーと思いながら読んだんですが(私は基本的に逐語的に、奇妙なバラック小屋みたいな路線になる)、そもそもテキストを朗読させているシーンなだけに、いかにして訳すのかが、ストローブ&ユイレと同様に微妙な問題をつねに伴いますね。堅く訳せばいいってもんでもないだけに、つねに戸惑う問題なんですが。

 まあ、ヘーゲル/ハイデガー〜ブランショ/デリダ/ラクーラバルトにのみこだわるべき、というわけではないのですが、概念的な背景を最大限に出すと、どうしてもこのようなプレッシャーが出てくると思うんですよ。「思考なき物語」としての歴史・語り、ロゴスなき思考としての神話、これは結構面倒な問題で、たとえばカッシーラーにあっては神話とは結合と分離である、しかし悟性による結合ではない、とか言う。新カント派的な発想だとこうなるし、バフチンにせよ神話を題材に始めたロシア・フォルマリズムにせよ、新カント派とのつながりが結構色濃い(まああの時代はどこを向いても新カント派がいるんですが)。ラクーラバルトなら神話はタイポグラフィック(類型記述的)な機能があり、存在-類型論によって裏打ちされている、といった議論を展開する(『ハイデガー 詩と政治』)。政治と神話という問題圏は、かなり厄介で、その神話の全体性とは何か、とかやりだすと、先に提起した歴史の問いやヨーロッパの全体性といった問題はまたしても密接な問題となって浮上する。多言語、他民族、という主題が出ている以上は、どうしてもこの種の込み入った難問になるんじゃないかな、と思いまして。
Posted by ttt at 2009年11月11日 15:12
 あまりに素朴な疑問ゆえか、誰も言ってないのですが、「なぜ、カトリックと無縁ではない『神曲』なのか」「その上なぜエデンなのか」という問題もありますよね。ユダヤ教やカトリックならばまだエデンでも話は通りますが――といっても、ユダヤ教でのエデンは神曲のそれはとは別物らしいですが――インディアン、パレスチナ人(つまりアラブ)、ムスリムなどともつながるはずのゴイティソーロを持ち出しておきながら、エデンでまとめあげる、あるいはエデンにはもはやインディアンもムスリムもいやしない、っていう。この点にこだわると、どうしてもシニカルな位置づけなのかなあ、と思えてしまいますね。誰もが「まあゴダールだし、そのへんはかなり適当なんだろう」と済ませがちですが、よく考えたら無茶苦茶ですよねw

 フランスでは、ゴダールは反ユダヤではないか云々という論争じみたものが去年ぐらいからずっとあって、昨日もLe mondeの記事になっていたりするんですが、何気に微妙な問題なんですよね。
http://www.lemonde.fr/archives/article/2009/11/10/godard-et-la-question-juive_1265204_0.html
アラン・フライシャーのゴダール記録映画は、ゴダール自身はぼろくそにけなしているらしいのですが、一体どういう映画なんだろう。

 ちょっと余談気味に脱線してみました。
Posted by ttt at 2009年11月12日 00:40
持田 睦さん tttさん

お二人の翻訳と前向きな懐疑のおかげでいままで見えなかった細部まで、細部の影の部分までがよく見えるようになってきました。ありがとうございます。

『天国篇』について。持田さんは、仰られるように、オルガのロシア的な部分にやや引きずられておられるように思います。「不死の生」とは、まさにオルガの中にある負のロシア性=キリーロフが体現するものなのです。ひとは死を選ぶことができない。死を克服することができない。ゆえに、キリーロフは、自ら死を選ぶことこそが、人間を超え、神に至る方法だと考える。 これが自殺であり、テロです。
「生きても生きなくても同じになった人が、新人なのです。 苦痛と恐怖を征服した人は自ら神となる」(『悪霊』)
オルガがうつむき目を瞑るのは、ジャンヌ・ダルクとの隠された切り返しショットにおいてなのです。そこでまぶたの裏で想いをこらしていることは「犠牲」なのです。それは周囲の不真面目な学生たちゆえではまったくない。もしそうならばオルガの死は自殺、それも爆弾テロであったはずなのです。
「天国」でなぜフランス語だけが話されているのか。それはー海兵隊の解釈と同様単純ですがーバベルの分裂以前だからです。もちろん、ゴダールは聖書を規範にしているのではない。むしろ逆です。ユダヤーキリスト教に規定されたヨーロッパを新生によって解き放とうと画策しているのです。
(ちなみに、サラエボが舞台なのに、この映画にはセルビア人もムスリム人もクロアチア人も出てきません。出てくるのは、ユダヤ人、パレスチナ人、フランス人、インディアン・・・。つまりボスニアは、サラエボは、世界の煉獄なのですね。そこに煉獄の住人たちが一瞬交差する。ここで唯一「犠牲」を果たすオルガのみが「天国」に至る。)

>あるいは、あの「天国」を防衛するのが日本国軍の軍人で、例えば韓国の少女が自死=犠牲の果てに、あの「天国」に到達したとき、検問所から流れているのは「軍歌」だとしたら。

それは絶対にありません。ただし、朝鮮を守るために特攻した日本軍青年兵がいたとしたら、彼はまさにいまそこに立っているでしょう。
Posted by nos at 2009年11月12日 01:24
持田 睦さん tttさん

キュルニエの翻訳、ありがとうございます。ちなみに僕はキュルニエやマイヨールやペクーやダーウィッシュのことを、煉獄の「賢者たち」と呼んでいます。彼らが言っているのは、非対称の二つの側のことです。それはドイツとユダやであり、イスラエルとパレスチナであり、ヨーロッパとバルカンです。そう、この二つの間の切り返しショットは不可能であるかのようです。
ペクーは言います。
「私と他者との関係は非対称だ」
「私が責任を持つ他者とは、ここではムスリムとクロアチア人だ」
ジュディットはこれに付け加える。
「すべての人間たちが互いに責任を負っているが、私が誰よりも負っている”」
これらはレヴィナスやドストエフスキーの引用と思われる。これらの言葉を実行したのが、本当に責任を負ったのが、オルガだったのではないか。僕はそう思います。問題はシニシズムではないのです。
Posted by nos at 2009年11月12日 01:33
tttさん

『アワーミュージック』の思想的背景というのは僕はすべてはとても読めてはいませんが、ある線はなんとか感得しているつもりです。それはレヴィナスーハイデッガーです。

地獄篇の末尾には、次のような言葉が引用されます。

「死については二つの考え方がある。
死とはありうることが起こらないのではなく、
むしろありえないことが起こることなのだ。」

「とはいえ、”私は一個の他者である”」

前者はレヴィナス、後者はランボー。 そして前者はハイデッガーの死の解釈を乗りこえて「犠牲」について語ろうとしている。そのためには後者のありようが必要になるのです。
Posted by nos at 2009年11月12日 01:41
屈しないnosさんが眩しい。やはり読解の確信とは、かくあらねばなりませんね。釣られて何かと説得されてしまいそうになる。「いや、これでいいんだよ!」と強烈に整合性が築き上げられていくとは思わなかった。

>バベルの分裂以前だからです
この発想には至らなかった。ってことは、バベル以前/以後〜一言語/多言語となり、地獄/煉獄/天国もまたほとんど構成形式だけが抽出されて、カトリック性などとは無関係に構築されている、となるわけか。

>そこに煉獄の住人たちが一瞬交差する。ここで唯一「犠牲」を果たすオルガのみが「天国」に至る
 なるほどね。たしかに、オルガだけ、なんですよね。他に死人出てないというのもあるけども。
 ミュトスの問題系を接合させ、天国のオルガと聖なるものをつなげていくのはかなり筋違いだったかな。

 でもですね、天国編直前の、「オルガ視点」としか思えない、瞳状に切り取られた戦争傷痍者のショットがあるのはいろいろと謎めいていますよ。煉獄のオルガあるいは天国のオルガは、目をつぶって傷痍者たちを見つめている。この視線は一体何なんだろうかと。
Posted by ttt at 2009年11月12日 01:59
 私は『ノートル・ミュズィック』の日本語字幕を目にしたことがないので正確なことは言えないのですが、nosさんのコメント内の引用から判断する限り、日本語字幕には字幕製作者の解釈が大幅に加えられているように思いました。もちろん字幕ですので、語数制限があり、簡潔に、核心のみ伝えなければならないのは分かるのですが、英語字幕、および私のつたないフランス語力で聴きとった原語と比べると、誤解を招く点が多々あるようなのです。

 たとえば、

 「死については二つの考え方がある。
 死とはありうることが起こらないのではなく、
 むしろありえないことが起こることなのだ。」

 の箇所。ここは英語字幕では、

 「We can consider death in two ways
 the impossible of the possible
 or the possible of the impossible」

 となっており、日本語字幕の「むしろ」が登場する余地はないように思います。実際に口にされているフランス語でも「l'une...l'autre...(一方は〜で、他方は〜)」の仕方で、二つの死の在り方が並置されています。字幕製作者は恐らくはレヴィナスの原典を参照してこの箇所の翻訳をしたのでしょうが、その結果、かえって誤解を招く字幕になってしまったのではないかと思います。ここでゴダールが言わんとしているのは「対立する二者の相補性」であり、これに続くランボーの「je est un autre(="I" is someone else) 」も「一人称と三人称の相補性」を表しているかと思います。「不可能か可能か」、「私か他者」か「地獄かそれとも天国か」の二者択一でもなければ弁証法的合一でもなく、「地獄と天国の相補性」、そしてそうした世界としての「煉獄」を、ここでは準備しようとしているのかと思います。

 「私が責任を持つ他者とは、ここではムスリムとクロアチア人だ」

 の字幕に関しては、あたかも「私」であるペクー自身が、「他者」である「ムスリムとクロアチア人」に対して責任を持つように読めるのですが、ここで用いられている「私と他者」は、あくまでもレヴィナスの文脈の中の「私と他者」であり、ペクーは「ムスリムとクロアチア人」の相補性をここで言おうとしているのではないかと思います(ジュディットの口にする「私」も同様です)。英語字幕を翻訳するとこうなるでしょう。

 「私にとって、彼(=他者)とは私が責任を負う者のことなのだ。ここでは、ムスリムとクロアチア人の関係がそれにあたる。」

 「For me, he's the one I'm responsible for. Here, a Muslim and a Croatian.」

 『ノートル・ミュズィック』においてゴダールがサラエヴォの街で耳にしようとしている音楽とは、融合不可能なものたちが相補い合う中から生まれてくる音楽なのかと思います。その意味ではジュディットのあのオプティミスティックなあり方は、実は肯定的にとらえるべきものではないかと思い始めています。彼女が訪問する地元の小学校の子どもたちの可愛らしさと言ったら! それに引き替え、オルガのなんて重苦しいこと! ゴダールの講義を受ける前は、あんなに爽快にサラエヴォの街を駆け抜けていた彼女だったと言うのに。

 !!!

 そうです。オルガはゴダールに変えられたのです。彼は講義の中でセリーヌの名を挙げ、次のように語っています。

 「事実はおのずと明らかになるもの、と僕らは言うよね。でもセリーヌは書いているんだ。「悲しいことだが、じきにそういうわけにはいかなくなるだろう」って。1936年のことさ。だってテキストの領域は、ヴィジョンの領域をすでに覆ってしまっているんだものね。」

 「We say the facts speak for themselves. But Celine said:"Sadly, not for much longer." And that was in 1936. Because the field of text had already covered the field of vision.」

 そしてゴダールが彼女に与えるのは「殉教」の言葉…。

 再建中のモスタルの橋が写しだされるオプティミスティックな場面が終わると、ピントのずれた映像の中から陰鬱なオルガが登場し、私たちは次の不快な言葉を耳にすることになります。

 「J'en ai rien a foutre.」

 以下のサイトで確認する限り、これはかなり口汚い言葉のようです。

 http://forum.wordreference.com/showthread.php?t=529200

 英語字幕では「I don't give a damn!」。日本語にすると「私の知ったことじゃないわ。」あるいはもっとひどい口調でしょうか。これを口にしているのは果たして誰? オルガのようにも聞こえるけれど確信は持てない。持てないけれど、この「J'en ai rien a foutre.」の口調に怒りが現われているのは間違いないでしょう。でも怒りって、何に対する怒り?

 「テキストの領域」が「ヴィジョンの領域」を覆い、「事実」を目にすることができなくなっていることに対する怒り?

 あるいはそうした状況をを解消するために、「犠牲」が求められていることに対する?

 「ヴィジョン」の女である彼女が果たす「自死」が「テキスト」との心中であることは、彼女が本を抱えて死んだことからも明らかでしょう。つまるところ彼女は、自らを「犠牲」にすることによって「テキストとヴィジョンの相補性」の可能性をこの世に残していくのです。その結果、彼女が行き着く先が「天国=テキストの領域によってヴィジョンの領域が完璧に覆い尽くされている場所」なのだとしたら! (「海兵隊賛歌」のテキストがそのままヴィジョンと化している天国なのです!)

 私はもはや『ノートル・ミュズィック』の「天国」が皮肉だと思っていません。そしてあの天国は、ただ「オルガのためだけの天国」ではないかと予感しています。ジュディットが、あるいはゴダールが、絶望することなく二項対立にあふれるこの「煉獄」をカメラで写し取りつづけることができるのだとしたら、それは天国にいるオルガの犠牲のおかげなのです。オルガは、ダンテ=ゴダールにとってのベアトリーチェである、などと口にしたら陳腐な物言いでしょうか。ただゴダールが、あの学生たちを前にした講義において、「映画」のために殉教する女を求めていたのは間違いないのではないかと思います。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月12日 14:00
ややこしくなってきたと同時に力量不足に悩みつつありますが…

まず、個々の論点の前に
>二者択一でもなければ弁証法的合一でもなく
 ヘーゲル、全体性の問いと言いましたが、まず、ヘーゲルには誤解が、誤解とまではいかなくとも少なくとも単純な理解が蔓延りすぎているんです。アドルノにせよ、デリダにせよ、彼らにあってはヘーゲルの全体性というのは、調和や和解じゃないんですよ。
 たしかマーティン・ジェイの『アドルノ』でも、ベンヤミンとアドルノの別離のきっかけは、ベンヤミンがブレヒトに傾倒したことと、アドルノがベンヤミンのヘーゲル批判が素朴だったことにあって、というくだりがありましたが、ここでベンヤミンの名が出てくるのはやや示唆的で、ドゥルーズやフーコー、アルチュセール(マシュレーとともにヘーゲルからスピノザと提唱)、ベンヤミンが広く読まれるようになったとき、ヘーゲルは彼らのヘーゲル批判によって実質埋葬されてしまった感があるんです。フーコーに関してはよくわからないのですが、ドゥルーズにあってはこの契機がどこにあったのかがフランソワ・ドスの評伝でいくらか掴めるようになったのですが、「ジャン・ヴァールの「多様体」「と」かイポリットのヘーゲルか」という選択の結果だったように思うわけです。『差異と反復』の序文で「現在、反ヘーゲルの潮流が活発なわけだが」みたいに言うわけですが、念頭に置かれているのはクロソウスキーやバタイユ、ブランショでしょう。彼らが親しんだコジェーヴのヘーゲルとの相克の系譜ですよね。フランスにおけるコジェーヴとイポリットという、「ヘーゲル読解」の地層と無縁に成り立ってないくだりなんですよ。おそらくはフーコーも近い系譜にいるんでしょうけども、あとは、ブランショのヘーゲル理解とそれに基づく自らの批判的・対抗的立場、という対立あたりに感化されている可能性が高い。単純なヘーゲル措定とそれへの批判、という図式が何度も繰り返されているわけで、この罠は何気に厄介です。スピノザ/ヘーゲル、カント/ヘーゲルというのは、実質的に偽の対立として「便利」に使われていることがしばしばあって、あまり鵜呑みにしてはいけないところがあるんです(第一、シェリングとヘーゲルは当時のドイツにおけるスピノザ=運命論説を批判した側であり、スピノザ発掘者であり、また、ヘーゲルはカントに対して脱構築的に振舞ってるようにも見える)。

 アドルノとデリダにおけるヘーゲルにちょっと戻りますが、いや……どうしよう、デリダについて満足な返答ができる自信がない…。初期の「暴力と形而上学」であれ「限定エコノミーから一般エコノミーへ」でもそうですが、デリダはヘーゲルを再発掘するような議論が多く、ヘーゲルがいかに厄介か、というのを結構言うんですよ。顔と顔をめぐる議論しかり、レヴィナスは彼が外見的にはヘーゲルに対立するとき、彼自身が考えるよりもヘーゲルに近いのだ、と割と痛烈にやったり。というのも、デリダはヘーゲルとハイデガーとレヴィナスのずっと傍らにいたような感じの人で、その意味で、「単に乗り越えた」とかの関係では全然ないんですよ。ハイデガーは「ほとんど」デリダであり、レヴィナスもまた「ほとんど」ハイデガー、であり、みたいな局面が絡み合ってるわけです。
 アドルノについては、『否定弁証法』を読んでないのでそれについては言及できませんが(しかしこれは「弁証法の否定」といった意味ではなく、そもそも弁証法というのはズレ、差異化としての否定による運動のプロセスなんだから、それこそ弁証法なのだが)、とりあえずアドルノ「ヘーゲル哲学の視点」(『三つのヘーゲル研究』)から引くと、
「総じて彼の全体は、それぞれが自分以外の他の契機を指示していて、しかも個々に産出される部分的諸契機の相対としてのみ<存在>する。これらの部分的契機を超えた彼方には何も存在しない。これがTotaliat(統合性)というヘーゲルのカテゴリーの担っているものである。このカテゴリーは、どんな種類の調和主義的な思想傾向とも相容れない。たとえ壮年期のヘーゲルが、主観的にはそのような思想傾向をいだいていたにしても。(...)各契機のあいだの関係は、暫時的移行の関係ではなく、Umschlag(転化)の関係だ(...)。この過程は各契機が接近する時に生じるのではない。それは断絶によってすら生じるのである」(邦訳、pp.19-20)
「ヘーゲルは、カントの批判哲学をその本来の姿に変えようとした。このために彼は、カントの形式と内容の二元論そのものを批判し、またカントが使った――ヘーゲルの解釈によれば、フィヒテも使っている――さまざまの硬直した差異規定を力動化した。だが、それでも彼は、これらの契機をけっしてなくすことができないという事実を犠牲にしてまで、直接的な平明な同一性を求めはしなかった。(...)ヘーゲルの「Vermittelung(媒介)」という概念は、キェルケゴール以来の宿命的な誤解が思い描くような、二つの極の中間を意味するものではない。媒介はむしろ両極を通って、それぞれの極のそのもののうちに生じるのである。これがヘーゲルのRadical Aspect(根っからの考え方)であって、これはどんな穏健主義とも相容れないものである」(pp.26-27)。

まあ、前にここでヘーゲル近辺はいまだにいろいろ面倒なことになってるとやりとりしましたが、今なお私も考察が進行しているといいがたいので、なかなか…。
http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/1802/
Posted by ttt at 2009年11月12日 16:50
続き
 そういうわけで、「相補性」と言うだけだと、まだ話が簡単というか、二重性、混交性を言ってとまっちゃうんじゃないかな、と。いや、「融合不可能なものたちが相補い合う中から生まれてくる」というあたりの話の大筋には不満はないのですが。

2. 気づいたこと
 持田さんが取り上げなおしたペクー/ジュディットの前の箇所に、レヴィナスのEntre nousをジュディットが取り出すとき、ペクーが(おそらくテキストを)話していますね。ここ、よく仏語を聞いてみて、英訳srtとも対照しましたが、邦訳字幕・邦訳採録(これは同一文章です)が間違ってます、あるいは訳し下しすぎです。

「苦しみと罪悪感とを結びつける」云々の後、ペクーはこう言う。「二つの岸と一つの真実。それが橋だ」(採録邦訳)。
仏語では、"Deux visages et une verite. Le pont."
英訳srtでは"Two faces and one truth.: the bridge."
橋じゃなくて顔ですね。だからこそ、レヴィナスがつなげられている。ペクー起用の動機は、レヴィナスへの接続のためでしょう。

 で、その後で
>「For me, he's the one I'm responsible for. Here, a Muslim and a Croatian.」[英訳srt]
と、ムスリムとクロアチアの間の非対称的な関係(が「私」/「他者」間の非対称性と同じであるとして)提起されるわけで、つまりここで言っているのは、ムスリムの顔、クロアチアの顔、そして真理、という話です。
 そのため、ジュディットは「どうやって石たちに顔を向けることができるのか?」[英訳"how can we make a face with stones?"]と問うわけで、採録の「石は何を表すのか?」はもはや誤訳でしょう。この英訳を読むかぎり、石は橋として紐帯になる、というよりは、むしろ鏡のような媒介性をなしていて、二つの顔のそれぞれが、石に顔を向け、そこに「一つの真理・真実」があるという話をしているわけですから。
 ”responsible for”を責任と訳すのも、このときやはり微妙です。「”私”にとって、”彼”は私が答可能性=責任を負う者です」でいいと思う。鏡=石を介した応答可能性の責務を負うわけです。

そのあとのペクーの言葉で、こうある。”Each stone was identified on a card... on which each detail was noted. Its position in the water, its position in the structure... and a description of each face...”[英訳srt]。
「それぞれの石は、カードに同定=身分照合され[identified]、詳細を書きこまれた。水中での位置、構造上の位置、それぞれの顔の記述といった詳細を。」
 これ、たぶん、アウシュヴィッツの名簿と同じですよ。顔や特徴をまとめあげ、それをカルテにし、ダビデの星をつけるようにカードを作ったわけでしょう。ナンバリングされた石たちはほとんど死体じゃないですか。オルガではなく、大使にドイツ軍から逃げるユダヤ人の話を蒸し返すジュディットがこのシーンを担当しているのは、必然的なつながりがあるんじゃないかな。
 で、そんな石が、橋の修復に使われるわけで、「過去の修復」という言葉にはかなりの負荷がこめられている。クロアチア/セルビアをドイツ/ユダヤの延長線上に見ているわけで、だから「(被害者側の)苦しみと(加害者側の)罪を結びつける」となるわけです。結びつけるのは死体であり、死者たちの遺された記憶でしょうね。したがって、「どうやって(そんな痛ましい)石たちに顔を向けることができるのか?」なわけです。答えはないわけですが、応答可能性という/の責任を「私」となって負うしかない、ということでしょう。
Posted by ttt at 2009年11月12日 17:34
さて、その石の説明の後に、ペクーはシュメール人は過去はavant、未来はapresと呼んでいたと言うわけですが(英訳ではそれぞれafter、before)、nosさんはこれを「後」「前」と訳しては逆だ、「前」「後」で訳さなくてはいけない、と言っていたわけですね。私はその見解に不満はないのですが、visage[face]の話がある以上、ここでは「眼前」「背後」がより適訳なのではないか、と思います。つまり、front/backの方に近いと思うんですね。過去(石=死体・記憶)が、眼前にあって、顔向けする対象になっている、という話なので。こうして読むとき、教室の後の川面からインディアンが出てくるまでの一続きのシークエンスは、しっかりと一つの主題で構築されているわけです。アメリカン・インディアンは、
こうしてみると、オルガとジュディットというのは、別の動的作用や別の経路をもつ観測機となって同じものをとらえている、みたいな関係なのかもしれませんね。犠牲と天国にまでいたるオルガがどうしても主線に見えちゃうから、ジュディットの影が薄くなっちゃいますけども。

3a. もろもろの返答
 返しやすいものから順にいこう
>「We can consider death in two ways / the impossible of the possible / or the possible of the impossible」
ここですが、邦訳採録では出典を明らかにできていない箇所でして、『時間と他者』第3章のなかの「苦しみと死」の注3の文章を変形したのではないか、というふうに補注がつけられているだけです。
「ハイデッガーにおける死は、ジャン・ヴァール氏の言うように「可能性の不可能性」であるのではなく、「不可能性の可能性」なのである。一見したところ些末な区別であるように見えるが、この区別は根本的な重要性をもつものである」(原田訳、p.105)
 ※ちなみに合田正人訳が『レヴィナス・コレクション』にも入ってますが、いまざっと確認したかぎりでは、なぜか注が訳されていないし、原田よりも訳し下しすぎているので、大筋において原田版の方がいいと思います。

 で、この可能性の不可能性、というのは、生という可能性―尽きる、死ぬ、という不可能性、という話で、要はコメント欄の最初にnosさんが言った本来的-固有なる死という契機を、契機として見ない発想ということなんですよ。レヴィナスはそれに対置して、不可能性の可能性、つまり、死による契機にはじまる可能性、を言うわけですね。この論脈はレヴィナス/デリダにあっては非常に重要で、「翻訳不可能性ゆえの翻訳可能性」というような「不可能性ゆえの可能性」みたいな議論となって継承されていくわけです。行為遂行性にとっての契機でもあるわけですね。

 で、それはそれとして、ゴダールがここでやっているのは、文章からして、むしろ単なる併置ではなかろうか、というのは、説得的な読解ではあるんですが、それって果たして面白くなる読解なのかという疑問が…。

まあ、訳としてはまずいですね。「私たちは二通りで死を考える。可能性の不可能性として、あるいは、不可能性の可能性として」ぐらいでいい。レヴィナスの線に沿うにしても「死とはありうることが起こらないのではなく、むしろありえないことが起こることなのだ」じゃあ誤訳でしょう。レヴィナスの線で訳し下すなら、「死を生という可能性の終わりであり不可能性とする考えと、逆説的にではあるが、不可能性としての死の切迫性による可能性の始まりとする考え」とかになるんじゃないかな。

 さて、ここでまた一つ付け加えると…どうやらautreの負荷がかかってますねこれw 英訳でorにあたる箇所が、", d'autre, "って区切りになってる。まあ普通に訳すと、「もう一つは」なわけですが、その直後に"Or, Je "est" un "autre"."なわけで、これはestへのランボー的負荷、かつ、autreへの負荷から、「不可能性の可能性として考える方だ」という二重の言い回しじゃないですかね。訳し下せば、「さて、私は一個の非人称的な他者であり、不可能性の可能性として死を考える側である」でしょう。
 こうして考えると、ランボーを持ち出したのは、「不可能性の可能性として死を考える者」「非人称的(あるいは三人称的)他者」「"私"はそれである」が絡まっていて、この地獄篇の映像を見つめている・編んでいる話者である、ということでしょう。話者の立場規定をここでしている。ほとんど発話人称化された亡霊です。
Posted by ttt at 2009年11月12日 18:39
訂正
アメリカン・インディアンが、

おそらくは過去のインディアンが、ふと「眼前」にいる、という。

3b. もろもろの返答
>『アワーミュージック』の思想的背景というのは僕はすべてはとても読めてはいませんが、ある線はなんとか感得しているつもりです。それはレヴィナスーハイデッガーです。
 それはおおむねそうだと思うし、あと感じられるのは「昔は結構バタイユだったんじゃないか?」ぐらいの直感かな。『呪われた部分』とか意外に読んでるんじゃないかな、と。戦争と供犠(sacrifice)の議論とか結構あるんですよ。バタイユからヘーゲル、バタイユからハイデガー/レヴィナスに移ったのではないか……というのが私が抱いてる妄想です。
 ただ、マッケイブがいろいろな人の発言を引いて、ゴランやゴダールの家族などの証言、初期作品の引用分析の結果から考える限り、ゴダールは必ずしもまともに読み込んでない、冒頭と終わりごろだけを読んで引用しているケースが多く、下手な推測ができない、と言ってるような危うさがあり、また、ゴダールの批評文も出典などを明確にするものではないですからね。つまるところ、読み手自身が決定し、それに基づいて問えばいいんじゃないか。そう割り切るしかないと思うんですよ。その上で、バタイユ/ヘーゲル/ハイデガー/レヴィナスは、変な読み方ではあるにせよ、ある程度以上は読んでいるだろう……と思います。1994年に、歴史とモンタージュについて語ったときに言った「私はかなりのヘーゲリアンです」(全評論・全発言III, p.464)、これは冗談じゃないと思う。

> そうです。オルガはゴダールに変えられたのです。
>ゴダールが、絶望することなく二項対立にあふれるこの「煉獄」をカメラで写し取りつづけることができるのだとしたら、それは天国にいるオルガの犠牲のおかげ
 オルガを、ゴダールが自らのために供儀にかけているのだとw イサク奉献みたいな。ヴィッキーとカミーユの関係も言わば自らのために供儀にかけちゃう話でもありますし、ゴダールにおいては大抵、誰かが死んで、不可能性が生じるというのが多いんですよ。『JLG/JLG』ではこれといって誰も死んでないけど、記憶や幼年期の自分がまわりに旋回する亡霊みたいになってますしね。で、最後に「いまこそ私は蘇生した」とかで終わる。蓮実が言う指摘や下世話な話に近づいちゃうんですが、己の潜勢力やその引き金のために劇中で誰かを殺す、というのが多いんですよね。ただ、これは単に個人史・個人的心情というよりは、何かを生かすためにおこなう手続きみたいなところもあって、「じゃあ何が余生-生存するものとされているのか」が重要になるんじゃないかと。継承のかたちで遂行性が出てくるので、そのために死が配され、移行点を作るのでしょう。

 ただ、ヴィッキーとカミーユは劇中人物としての父子ですが、オルガとゴダールではかつてなく露骨に「ゴダールとの接点」として出てくるだけに、怪しさが濃いんですよね。ヴィッキー/カミーユとは何だったのかが露骨になってしまう作品でして、まあ前から「僕に娘がいなくてよかった。いたら、近親相姦になっていたかも」と危ういこと言ってる人なんですが…。これは「オルガの射殺が劇中、特に意味がない、何の成果も挙げていない」って面があるので、無駄死じみてるから、ゴダールとの接点が今度は不穏に見えてくる、というのもある。

ところで、前にnosさんが
>ダーウィッシュへのインタビューでは彼女選任のカメラマンはピンポンとしての「切り返しショット」を撮ろうとするばかりです。モスタルではインディアンたちを撮ることができない。彼女はレヴィナスを読む。しかしオルガは本に対して命を賭す。
と対比したわけですが、上記のように顔、顔向けの主題をジュディットが担当しているにもかかわらず、そして講義で言及されたデジカメを持っているにもかかわらず、彼女は何も応答できていないわけですね。石の話をした後で、その石ではないのでしょうが、観光客だかヒッピーだかわからない怪しげな連中が川に投石してるのに、制止できず眺めてしまう。カメラまで持ってるのに、カメラが議題になってるのに、彼女の行動線の弱さは異様な欠落で、ちょっと不気味ですよ。インディアン出現とともにちょっとホラーっぽいBGMがかかった途端、ジュディットの存在は、作中ではインディアンとともにもう消滅してしまったかのようにいなくなってしまう。インディアンへのリアクションのショットすらない。そして、ジュディットがピンボケショットに映るのは、この直後でしょう。あたかもジュディットはインディアン出現の時点ですでに即死し、オルガに憑依したみたいな…w

 よく考えると、何が契機となってオルガがあのピンボケショットのような視線の対象になったのかは不明なわけです。講義によって「ジャンヌへの生成」を遂げたから、とも考えられますが、ジュディットが消えたから、みたいにも思える。

続く
(あのピンボケショットのくだり、現在仏語聞き書き、英訳srtと対照していますが、おかしいです。「ぼんやりしてる」(邦訳採録)イメージじゃない。「離れている」イメージです。イメージとイメージが顔を向け合ってる。だから、向こうには二人いる、こちらには彼女と「私」がいる、なのです。文章だけで読むと、語り手の「私(オルガ声)」を含めて4人いる。おそらくは、ジャンヌ(ファルコネッティ)、ジュディット、オルガでしょう。オルガはジュディットと会ってないわけですから、「見たことがない」のも筋が通る。まあ向こう側のもう一人である4人目はセバーグでも誰でもいいけど…。)
Posted by ttt at 2009年11月12日 20:54
続き

 「1492年」にさまざまな局面を器のように盛り込んだ(かもしれなかった)のと同様に、サラエヴォに煉獄の住人を盛り込んだのと同様に、オルガはここで器のようにジャンヌやジュディットを盛り付けられていってるんじゃないか。それまでパレスチナやイスラエルの話なんてオルガは一度もしてわけで、ジュディットが消えた後で、彼女は平和運動を単独敢行しちゃう。ジュディットが消える前のオルガは恋人と諍いしてるだけで、かぎりなく白紙状態なんじゃないかな。

拙訳
「それは...まるで..イメージ。だが離れた・遠くの[loin]ところの。隣り合う二人がいる。彼女の横にいるのは私だ。彼女、これは見たことがない。自分、これはわかってる。だが何も思い出せない。ここからずっと離れている・遠いはずだ。あるいは後の。」
仏語
"C'est... comme... une image, mais qu'il'y a loin. Elles sont deux cote a cote. A cote d'elle, c'est moi. Elle, je n'ai jamais vu. Moi, Je me connais. Mais tout ---Je ne souvient pas. Ce doit etre loin d'ici? Ou plus tard." [---は聴き取りできなかった箇所。Ils sontかとも思ったけど、Elles sontだと思う]
英訳srt
"It is... like... an image, but a distant one.There are two people side by side. / I'm next to her. I never saw her before. I recognize myself. But I have no memory of all that. It must be far from here. Or later on."
[英訳は英訳でloinをdistantやfarに分けちゃってるので微妙]
邦訳採録・字幕
「それは何かのイメージだ。ぼんやりしている。二人が横に並んでる。私の横に女性がいる。見知らぬ彼女だ。自分は分かる。だが私には覚えがない。はるか彼方の出来事? もっと先の?」
[「ぼんやりしている」は映像に引きずられすぎ。「自分は分かる」だと、Je la connaisかと思ってしまう。「彼女のことは知ってる」の意味で。Moi, Je me connaisでは「他方、自分のことはわかる」という意味合い。「だが私には覚えがない」では彼女についての記憶のように意味が限定されてしまう。「はるか彼方の出来事」では、loinであるはずのCe[It]をショットに近づけすぎ。「もっと先の」だと、時間軸だとわかりにくいし、plusを強調だと勘違いしている。plus tardはこれ一つで「後日「後刻」「のちに」「将来」「あとで」といった慣用語。]

●A説 イメージとイメージが対岸のように向き合ってる、と仮定して読む場合
 (Elles sont deux cote a cote.のElleに、A cote d'elle, c'est moi.のelleが含まれていないとする場合。この「私」は此岸にいて、一文目で対岸について語り、一文目で此岸の「彼女」と「私」について語っている。この仮定では、ペクー/ジュディットの顔と媒介をめぐっているのだと継ぐことができる)
 向こうにイメージがある。離れていて人影の数しかわからない。こちらにはもう一人女性がいる。併せて4人がいる。ただ、その場合、「ここからずっと離れている・遠いはずだ」のCeとの距離が、向こうのイメージとの距離を言ってるのか、「彼女」と「私」のいる「此岸」と話者の視点との距離を言っているのか、対岸と此岸の両方との視点との距離を言っているのか、わからない。
●B説 あるイメージがある。そこでは「私」の姿と「彼女」の姿がある、と仮定して読む場合
 (二人のEllesを「私」と「彼女」とする場合。姿と発話視点が幽体離脱的に分離している。この仮定では、オルガ/ジュディットあるいはオルガ/ジャンヌといった憑依的二重性によって、像と視点が分離しているのだと継ぐことができる)
 向こうにイメージがある。離れているが、顔立ちぐらいならわかる。「彼女」と像の「私」と視点の「私」の3人がいる。視点の「私」は、「だが何も思い出せない。ここからずっと離れている・遠いはずだ。あるいは後の。」からわかるように、記憶も失い、時間軸も遠く離れたところにいる。

大雑把に、二通りの読み方ができると思います。ただし、A説、B説のどちらであれ、「オルガの声」が語っているからといって、A説の「私」、B説での視点「私」のどちらも、私=オルガ、とはかぎりません。オルガの声を借りて別の誰かが言ってるという路線でも読めるのだから。再生したジャンヌが? ジュディットが? とも。

なんかこんがらがってきたので、一旦は連続投稿を打ち切り。
Posted by ttt at 2009年11月12日 21:55
 短いコメントになってしまいますがお許しください。

 「相補性」につきましては、私はこの語の持つ魅力(魔力?)を、ペーター・ソンディの『ヘルダーリン研究』の中の「ジャンル詩学と歴史哲学」というタイトルの論文を通じて知りました。ソンディは「相補性の法則」という言葉を用いている箇所で(邦訳125頁)、

 「Ist doch keines nichts ohne das andere!(それらのどれであれ、他のものなしには存在しないはずではないか。)」

 と注釈を加えていますが、彼の論全体がこの「相補性の法則」に基づいて組み立てられていると私は思っています(続きはまた後ほど)。

 tttさんの「それは...まるで..イメージ。」以降のシーンの解釈、大きな刺激を受けました。私はこの台詞が登場する二つの場面を漠然とした理解で受け流していましたが、やはり真剣に考えなければなりません。

 私はこの啓示的な台詞は、少なくともその一部に関しては、天国でリンゴをかじる男の言葉と理解したほうが良いのではないかと思っています。

 「Elles sont deux cote a cote.」

 は、私には「elles」 ではなく「ils」と聞こえます。となると、隣り合う二人は男と女であり、つまるところこの台詞は、あの天国でリンゴをかじり合う場面の予告になっているのです。

 「隣り合う二人の男と女がいる。彼女の隣にいるのは、僕。彼女は、僕が見たこともない女。僕は、自分が自分であることを知っている。でも何ひとつ、記憶には残っていない。」

 が私の対案です。

 天国のオルガは、誘われたにもかかわらず「テキスト」を手にした男の隣には腰かけず、「リンゴ」を手にした男の隣に自ら腰かけているのも興味深い点です。やはりオルガは「ヴィジョン」の女(あるいは「イメージの女」?)なのでしょう。ただし「リンゴをかじり合う男女」という「ヴィジョン」も、「テキスト」の領域に完璧に覆い尽くされてはいるのですが。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月13日 13:00
> 「相補性」につきましては、私はこの語の持つ魅力(魔力?)を、ペーター・ソンディの『ヘルダーリン研究』の中の「ジャンル詩学と歴史哲学」というタイトルの論文を通じて知りました。
 なるほど。いや、読みたいとは思ってるんですが、ヘルダーリンにあまり触れてない段階で読むのもいかがなものかと思って先延ばししてて…。complementary[逐語訳すると相互完全化・共完全化]に相当する語彙なのかな。相補性って相互根拠付けなのか、"足りない部分"を埋めてるのか、ともに完全[complete]になろうとするのか、結構使い方で意味がばらけちゃうんですよ。私なんかだと、もっぱら「対立意見に見えるその二つのA、Bは、実のところ同じ前提を共有しているのであり、表面上対立しているのは無意識的にその前提を隠蔽する作用からである。そう、彼らは単に相補的な主張なのだ」みたいにこき下ろすときに使うかな。

>私には「elles」 ではなく「ils」と聞こえます。
 そこは私も迷ったんですよね。本当にどっちにも聞こえる。英訳のtwo peopleはそれに迷ったすえに、性別をぼかしてなんとか訳したんだと思う。

>彼女の隣にいるのは、僕。
あの声がオルガ声だからといってオルガだとは限らないんですよね。まず("彼女")(視点"Je")(像"Je")("Je"と語る声の正体)の4項があるんですが、(視点"Je")(像"Je")が同一人間ではないとも限らないし(A説でやってもこれはもちこめる)、(像"Je")("Je"と語る声の正体)が同一人間ではないとも限らない。と憑依的に分裂して錯視してるかもしれないんだから。というわけで、たとえこの4項目を女性キャラクターだけで振り分けて、
・地獄篇のJe-Autre 
・オルガ
・ジュディット
・ジャンヌ
の、(同一重複の可能性のため)重複順列ありで順列で考えても、4の4乗で256通りがあるw 4項がJe-Autreでも、つじつま合わせて説を作ることぐらいできますよたぶん。で、10個ぐらい組み合わせを提示して、それぞれに説得的な読解を付して、多義的な作動をまさに再演してみようかとも思ったんですが、労力的にやる気なくしたw

 で、Ils/Ellesの識別困難性もあって、男女も不確定だし、隣り合うイメージと言えば、なるほどたしかに林檎食ってるあのイメージもある。洒落にならない量の解が想定できちゃうんですよね。ここまで絞る材料が減らされてるのは、たぶん意図的だろうな。

 テキストかヴィジョンか、という対立で考えるのは私は回避したいんですが、あの一つ目のピンボケショット(私は亡霊ショットと呼んでる)は、サイレント映画の映像/文字画面や、アフレコでの声の重ね方ぐらいに分裂してて、たとえば、テキストだけ精読して想起するイメージとはズレていたりと、齟齬が桁違いだと思います。
 ペクー-レヴィナスにかけてる負荷というかトリックを1単位、マイヤール/キュルニエにかけてる負荷を1単位、ぐらいに考えると、3、4個ぶつけてるなーって感じ。相当練って作ってありますね。

 唇が動いて、でもその声が無音になってて、そのあと後ろ向いた途端、"J'en ai rien a foutre."がくるわけでしょう。「誰が」「誰に向かって」「どこで」「いつ」言ってんの、って感じですが。これって、時差とか非同期性、つまり声と姿と発話者の非同期性、あるいは場所と時間の非同期性を明白にしてますね。なんかね、ある人が手紙書いて、その手紙が届くと同時に、当人が家に来て、「あれ、同時に来ちゃった」と面食らって、しかも会話の内容が"一部"重複してる、みたいな感じですよ。ここの箇所のオルガ声と映像は、転送経路が別のものがたまたま同時に並んでる、ぐらいの不均衡がありますね。
Posted by ttt at 2009年11月13日 14:16
旋回しながらそれぞれの差異があらわになり、さらにそのことで核心に近づいていっている感じがします。まこと「有り難い」対話です。

持田さんにもtttさんにも応答したいこと、反駁したいことがたくさんあります。が、私事ながら連日の飛行機移動でくたびれてきちんと意見がまとめられそうにありません。日曜日くらいにあらためて書かせていただこうと思います。

とりいそぎ一点、持田さんが翻訳を手がけられたソンディ『ヘルダーリン研究』は、今年随一の重要な訳業です。この本が「相補性の法則」につらぬかれているとの御指摘は興味深い。僕はこの本は「区別することの倫理」に貫かれていると思っているのです。そしてその区別によって指し示される差異、対立点が跳躍の媒介となるのではないか。このあたり、ゴダールの切り返しショットの問題にもかかわってくるでしょうね。

ではまた、近々。
Posted by nos at 2009年11月13日 23:28
 「We can consider death in two ways
 the impossible of the possible
 or the possible of the impossible」

 の良い日本語訳が思いつきましたので、コメントに残します。

 「私たちは死を二通りの仕方で考えることができる。
 ひとつは、できることができないようになること。
 ひとつは、できないことができるようになること。」

 前者は通俗的な死の理解です。「死んだら好きなことが何もできなくなっちゃうじゃない」とはよく耳にする言い回しです。一方、後者は、ハイデッガーの「先駆的決意性」にほかなりません。人が「本来的な自己」たりうるためには、おのれの死すべき運命を直視する必要があるのです。その直視の結果、日常性に埋没した中では「できないこと」、たとえば「犠牲」が可能となるのでしょう。

 ただし後者の在り方が、前者よりも優れているとみなすのは危険かと思います。前者なくして後者なく、後者なくして前者なし、という相補的な在りようこそが、この世の中なのかと思います。私のハイデッガーの勉強は後期に偏っていたため、前期のハイデッガーに関する知識は乏しいのですが、『存在と時間』から判断する限り、彼は上記の在り方に優劣をはっきりとつけており、可能であれば前者を抹消したいとさえ願っているように思えて仕方がありません。

 tttさん、「転送経路が別のものがたまたま同時に並んでる、ぐらいの不均衡」は言い得て妙です。たまたま並んでいる二者は互いに無関係でありながら無関係でない(これもまた相補的です)。故に一方が他方を抹消することは許し難い暴力となるのです。

 nosさん、どうぞお体を休める時間を十分にお取りください。「跳躍」は『ヘルダーリン研究』のキーワードと把握しています。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月14日 02:00
そろそろ私は妄想的確信でもって、解読作業を止めて論立ての方に踏み出したほうが面白くなりそうだなあ、と感じつつあって、『映画史』と『古い場所』を『私たちの音楽』でのポイントと重ねて主題系をまとめてみたくあるのですが……。下手に読解途中のメモ的抜粋を並べていくと、いざというときに論立てをするときの弾丸や勢いが減っちゃう気がするので、書くべきか書かぬべきか迷ってきました。

いくつか返答しかねていた諸点を返しておきますね。

○テキスト-言葉/ヴィジョン
>「(...)だってテキストの領域は、ヴィジョンの領域をすでに覆ってしまっているんだものね。」
>「(...)Because the field of text had already covered the field of vision.」
 ここですが、何度も仏語を聞きなおし、復元してみました。

"Parce que les champs de[?]... le champ du texte avait recouvert du champ de la vision."
(聴き取りにくいですが、"re"couvertだと思います。「再び覆われている」という意味もありますが、「すっかり覆われている」の意味もあるし、「覆い・包み隠す、秘める」の意味もあります。英訳は二つ目の意味に沿ったのでしょう。大過去なので過去完了で英訳するのは正しい。se couvrirを大過去にしたのかな、とも思いましたが…再帰動詞の大過去ってetre使うし、etreの前にseが来るはずなので、再帰動詞じゃないだろうな。ただ、couvrirは自動詞・他動詞両方使えますが、recouvrirって他動詞のみとあるのですが……。まあ、所詮辞書で確認しただけなので、実際は自動詞でも使われているのかも。
英訳ではalreadyとありますがこれは付加。les champs de[?]は聴き取りに少々自信なし。ただし、この瞬間にBGMが消えるのはちょっと意味深)
 ちなみに私の聴き取り能力は犬猫並なんで、"C'est... comme... une image"以下もそうですが、一応10〜20回聴いて確かめてはいるものの、あんまり信用しすぎてもだめですよ。

<拙訳>
「というのは、光景...テキストによる光景は、ヴィジョンによる光景を、再び/秘めて/すっかり覆ってしまっていたからだ」
邦訳採録・字幕
「すでに映像が言葉によって覆い隠されていた時代だった」
まあいろいろ駄目。ヴィジョン=映像にしてしまっているし、champも無視してしまっている。
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<読解>
1. vision
 visionについては「見者の手紙」を意識してると思う。『私たちの音楽』ではvisionなんて単語はここしか出ない。そもそもJe est un autreは「見者の手紙」で出てくる言葉です。そしてランボーにあっては見者[Voyant]は詩人のことで、二つ目の「見者の手紙」ではこうあるわけです。

"この「詩人」は、「あらゆる感覚tout les sens」の、長く、無制限なimmense、理性的なraisonne「錯乱dereglement」によって「見者」となります。〔tout les sensとは〕愛と苦痛と狂気のあらゆる形態toutes les formesです。自らを探求し、自らの中であらゆる毒を汲みつくしますepuise――精髄quintessencesだけを残すために。あらゆる信念と、あらゆる超人的な力が必要とされる、えも言われぬ拷問であり....."
http://kuniomonji.com/rimbaud/lettres/voyant.html
(手元に詩集がなかったので、この邦訳で代行し、ちょっと訳文変えました。Pocheの詩集を参照しましたが、そんなにおかしな訳文ではないと思います)

 まさに地獄編の話者の使命を彷彿とさせるわけですね。二つ目の手紙の後の箇所では、「詩人は真に火を盗む者です」(これはプロメテウスのことでしょう)、「「彼方」から持ち帰ったものに、形があれば形を与え、形が定かでなければ、定かでない形を与えます。言葉を見つけることです」とあり、言語でありかつテクノロジーの問題となっているわけです。つまり、texte/visionは単に対立でないのだととらえた方がいい、少なくともそっちの方が面白いと思います。

2. champ
 これは「ショット/光景」というchampの多義性を使ってます。shot/fieldやショット/領域、というふうに訳し分けても見えなくなっちゃうんですよ。おそらくはもうちょっと別の話であって、思うに、真理としてのヴィジョン=光景の話でしょう。
Posted by ttt at 2009年11月15日 17:47
3. recouvenir
 たぶんハイデガーです。伏蔵性、覆蔵性、とか訳されるあのへんの訳語の可能性がある。Google Booksが仏語著作も対応してきたので、適当に検索かけてましたが、Verbergung(覆蔵性)の仏訳にはocculation, recelement, dissimulation、Verdeckung(隠蔽性)の仏訳にrecouvrementが、あるのがわかりました。
 つまり、これはヴィジョン=真理を隠蔽するものがテキストなわけで、でも同時に開示もする蝶番的な層、champなのではないでしょうか。

1,3の点で私が関連付けるのは、映画史2Bの10:14-あたりの箇所です。ゴダールはこう言う。
fr.
"Longtemps je me suis couche de bonne heure", "longtemps je me suis couche de bonne heure." Je dis ca et tout a coup c’est Albertine qui disparait. Et c’est le temps qui est retrouve et c’est parce que c’est le romancier qui parle. Mais si c’etait l’homme de cinema, s’il fallait dire sans rien dire. Par exemple, "je me suis reveille de malheur". Il faut le cinema et pour les mots qui restent dans la gorge et pour desensevelir la verite.
http://cri-image.univ-paris1.fr/celine/celinegodard.html

eng.tr
"For a long time, I went to bed early...". I say that and suddenly Albertine disappears. And time is regained. For the novelist is speaking. And the director? If we had to speak without saying anything. For example: "I woke up surly." Cinema must exist for words stuck in the throat and for the truth to be unearthed.

拙訳
「朝の早い時分から長く寝ていた」「朝の早い時分から長く寝ていた」。私がこう言うと、たちまちにアルベルティーヌは姿を消す。これは再び見出された時であり、なぜならこう語るのは小説家だからだ。だが映画の人は言うことなくして言わなくてはならない。たとえば、「朝の遅くに起きてしまった」と。映画は語を喉に残さなくては・留め[restent dans la gorge]なければならないし、真理の覆いを剥ぎ取らなくては・掘り出さ[desensevelir]なくてはならない。

 ここで言われているのは、言葉では駄目だ、ということではなく、「起きた」その瞬間を語ってはならない、ということで、隔たり(loin)のことです。単に否定的関係ではないんですね。dire sans dire(言うなき言う)、ほとんどハイデゲリアンの仏語みたいな、思考なき言葉といったような言い回しになってる。とどめはdesensevelir。こんな仏語、辞書レベルでは載ってない。英訳すると、uncover, unburyということで、ensevelir(包み・覆いをかぶせる/埋める)に否定辞をつけた言葉。おそらく、ハイデガーの仏訳著作かフランス内ハイゲリアンの本から持ってきたのではないかと。「真理をdesensevelirする」なんてもろな使い方ですからね。
 私がゴダールにおけるハイデガーと真理の問題がかなり根深くあちこちにあると確信したのは、この実に両義的な箇所を目にしたときからです。

 先の箇所は、語彙レベルではかなり含意があると思った方がいい。真理としてのvisionの覆蔵性・隠蔽性でしょうね。
 さて、ここに戻ります。
「というのは、光景...テキストによる光景は、ヴィジョンによる光景を、再び/秘めて/すっかり覆ってしまっていたからだ」

 そもそもその直前の箇所は、ハイゼンベルクがそこにある城を見て「たいしたことない」と言い、ボーアが「いや、ハムレット城だ」と言う箇所でしょう。このボーアの言葉は単に滑稽な発言じゃない。ボーアの言葉が馬鹿げているという話なら、真理-ヴィジョンは「実際にそこに行けばある」というものになってしまうからです。真理をrecouvenirしつつ保持しているテキストを介して、真理-ヴィジョンに接近するのではないか。これは対立関係ではなく、媒介関係です。このとき、映像で示されているのが、エルノシア城の写真ではなく絵であったり、霧がかったように粒子の粗いザラついた挿画だったりすることも示唆的です。表象物でありつつ、それを介しなくてはならない、というものとしての真理-ヴィジョンがある。あるいは、現実性(realite)が「そこにある」という素朴なものと「真理・ヴィジョンとしての実在性」の二通りで出てくるわけです。
Posted by ttt at 2009年11月15日 17:49
 したがって、続くゴダールの語り、
拙訳
「エルノシア城、現実のもの[le reel]。ハムレット、想像/イメージのもの[l'imaginare]。champとcontre champ。想像/イメージのもの、確実性。現実のもの、不確実性」
fr.
Elsinore, le reel. Hamlet, l'imaginare. Champ et contre champ. L'imaginaire, certitude. Le reel, unceritude.
eng.tr
Elsinore the real, Hamlet the imaginary. Shot and reverse shot. Imaginary: certainty. Reality: uncertainty.

 ここでの映像である、闇の中で揺れる裸電球と、続く「光[lumiere]で私たちの夜[nuit]を照らす」という含意は結構厄介で、しかも『映画史』での闇からの応答[reponse des tenebres]や『JLG/JLG』の冒頭箇所にもかかわります。
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fr.
 L’Espoir lui appartenait mais voila le garcon ignorait que l’important etait de savoir aqui il appartenait lui, quelles puissances tenebreuses etaient en droit de la reclamer lui.
 D’habitude, cela commence comme cela. Il y a la mort qui arrive. Et puis l’on se met a porter le deuil. Je ne sais exactement pourquoi, mais j’ai fait l’inverse. J’ai porte le deuil, d’abord. Mais la mort n’est pas venue, ni dans les rues de Paris, ni sur les rivages de lac de Geneve.
eng.
 He possessed hope, but the boy didn't know that what counts is to know by whom he was possessed, what dark powers were entitled to lay claim to him.
 Usually, it begins like this: Death arrives, then we put on mourning. I don't know exactly why, but I did the opposite. I first put on mourning, But death never came. Neither on the streets of Paris, nor on the shores of Lake Geneva.
拙訳
 希望は少年のもとに現れたが、少年は肝心なこと、つまり自分が誰のもとに現れているのか知らなかった。彼を求め訴える権利を持つ闇の力がどのようなものかも知らなかった。
 普通はこう始まる――死が到来し、人は喪に服す。だが、なぜか私は逆だった。私はまず喪に服した。だが死はパリの路上にも、ジュネーヴの湖畔にも訪れなかった。
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 ここで、少年、ゴダール少年は闇の下へと現れ、闇の力[puissances tenebreuses]は彼に対してreclamer(訴える・抗議する・騒ぐ)する権利をもつ。直後に服喪の話が出ているように、この闇とは死と深くかかわっています。
Posted by ttt at 2009年11月15日 17:51
 ここで闇と死の話をすると、ある時期以降の闇と死と応答の主題系をまとめる必要が出てくるので、ここではこのぐらいにとどめておきますが、certitude(確実性)も素朴な意味ではありません。同じく『JLG/JLG』ではまさに確実性の問題が触れられるからです。その直前のアトラン『結晶と煙のあいだ』を引用するくだりも含めて引用しましょう。
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00:12:39,560 --> 00:13:46,840
fr.
 Quand on sait que les deux formes d’exiatence entre lesquelles navigue le vivant, cristal et fumee, designent aussi le tragique des morts qui dans la generation de mes parents se sont abattues sur le individus, vehicules de cette tradition. "La nuit de cristal”... et le brouillard de la fumee.
eng.
 When one knows that the two forms of existence between which a being navigates, Crystal and smoke, also signify the tragedy of the dead, which in my parent's generation struck down individuals, vehicles of this tradition. The 'Kristallnacht'... and... the fog of smoke.
拙訳
 水晶と煙という、生命〔生者〕が航行するふたつの存在形態があると知るとき、その二つの存在形態は死者の悲劇を思い起こさせる。私の両親の世代に諸個人を襲った悲劇を。伝統の伝達手段・媒介手段[vehicules]を。「水晶の夜」……そして、煙の霧。
00:14:06,040 --> 00:14:45,319
fr.
 121, Peut-on dire le manifeste des 121? "Peut-on dire ou manque le doute manque aussi le savoir?" 125. Si un aveugle me demandait "as-tu deux mains?", ce n’est pas en regardant que je m’en assurerais? Oui, je ne sais pas pourquoi j’irais faire confiance a mes yeux, si j’en etais a douter. Oui, pourquoi ne serait-ce pas mes yeux que j’irais verifier en regardant, si je vois mes deux mains." Wittgenstein, de la certitude.
(extrait de Ludwig Wittgenstein, de la certitude, traduit de l'allemand par Jacques Fauve, Gallimard, Poche, coll."tel", 1976)
eng.
 121, one might say, ''The Manifesto of 121 ''. "Might we say, that where doubt is lacking, knowledge, too, is lacking?" 125. A blind man asks me, ''Do you have two hands?'' Looking at my two hands would not reassure me. Yes, I do not know why I would trust my eyes, if I were in doubt. Yes, why woudn't I check my eyes by looking at whether I see my two hands?" Wittgenstein, ''On certitude''.
jp.
 121、これは「121人宣言」とも言えるか。疑いのないところには知識もないと言えるだろうか。125、「両手はあるか?」と盲人に聞かれたら、私がそれを確かめるのは、見ることによってではないのではないか? そう、[そして]その目の存在を私が疑っているとしたら、どうして自分のその目を私が信頼しているのかわからない。そう、自分の両手を見ているのなら、私が見て確認している対象は私の視線の方ではないとどうして言えるのだろうか〔私が確認している対象は両手の方ではなく私の視線の方ではないか〕。ウィトゲンシュタイン、『確実性の問題』。
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一つ目:
 「水晶の夜」とある以上、Kristallnacht、ナチスによるという疑惑もある1938年のユダヤ人殺害の暴動ですよね。その死者の悲劇が伝統の伝達手段・媒介手段[vehicules]である。つまり、前に言った石=死体=媒介だというのは、ここから見て妥当性があるわけです。
二つ目:
 確実性はこのとき、素朴に「そこにある」というものではなく、それを見る目すらも疑いの対象となり、対象を確認するとき、そこで起きているのは、見ることによって・見つつ[en regardant]おのれの目を確証する、という行為だ、となる。

 ゴダールにあっては対象の実在性(realite)は最初から揺らいでいて、『私たちの音楽』のこの箇所は、「現実のもの[le reel]、不確実性」であり、媒介として介する表象物が、このとき相対的に確実性、とされている、というくだりなんですよ。ここでのテキストは「それはハムレット(城)である」という表象でしょう。テキストであれ、イメージであれ、l'imaginareとされている。この表象は重要なわけです。伝達・媒介の経路なのだから。
Posted by ttt at 2009年11月15日 17:52
訂正
>ここで言われているのは、言葉では駄目だ、ということではなく、「起きた」その瞬間を語ってはならない、ということで、隔たり(loin)のことです。

 何気に変な間違いをしてますね。ゴダール自身が「起きた」という言い回しをしているので、こう書いてしまうとむしろ逆の意味としか思えなくなるw えーと、「寝ていた」のような持続的時間を語るのではなく、瞬間性を語るべきであり、かつ、その時間性としては"de malheur"のようなタイミングを逸したものとして語らばければならない、その逸し方においてloinがあるのであり、「寝ていたこと」については間接的に示すだけでよいのだ、ということにします。逆のことを言っておいて、"ということにします"と言っちゃうのもアレですがw
 まあ、映画はその語り方ができる、っていうことでしょうが、映画はというよりは、ゴダール自身の資質でしょうね。retardとかlointaineとか、ゴダールが使う遅れ、事後性をめぐる発想だと思う。
Posted by ttt at 2009年11月16日 01:29
 テキストとヴィジョンについて少しだけ。

 一見したところ大したことのない「城」も、「ハムレット」というテキストの文脈の中に置かれた瞬間、何か特別なヴィジョンと化す。なるほど、こうした仕組みは観光地でしばしば見かけるものであり、私も京都の寺田屋で、柱についた傷は「龍馬」襲撃の際のものだと言われた時は「ほぉー」と感心して見たものですが、実際の建物はどうやら鳥羽・伏見の戦いの際に焼失していたようで、そう言われるとあの柱の傷もインチキくさかったような…(後者もまたテキストに支配されているわけですが…)。

 「城」は「ハムレットの城」と名付けられた瞬間、あるはっきりとしたイメージと化してしまい、私たちはもはや「城」を、「ハムレットの城」以外の「城」として見ることができなくなってしまう。同様の例は、tttさんがコメントにてご指摘されている『映画史』の2B「命がけの美」の一場面でも、挙げられているように思います。ゴダールによって唐突に呼びかけられる「アルベルチーヌ」という名前は、

 「長いこと、私は早い時間に(de bonne heure)寝るのがつねであった。」

 というプルーストの小説『失われた時を求めて』の冒頭の一文と結びつけられるや否や、「消え去ったアルベルチーヌ」の「アルベルチーヌ」と化し、私たちはそれ以外の仕方で「アルベルチーヌ」を見ることができなくなる。

 「アルベルチーヌ! 消え去ったアルベルチーヌ。「長いこと、私は早い時間に寝るのがつねであった。」「長いこと、私は早い時間に寝るのがつねであった。」私がこう口にすると突然、消え去るのはアルベルチーヌであり、見出されるのは時間であるのだが、その理由は、話しているのが小説家だからだ。」

 ここで、切り返しショット!

 「だが話しているのがもし映画の人間だとしたら、もし口に出すことなしに言わなければならないのだとしたら。例えば「私は不機嫌に(de malheure)起きるのがつねであった」と言うだろう。映画は、のどから出ない言葉のために必要であり、墓場から真理を掘り起こすために必要なのである。」

 「私は早い時間に寝るのがつねであった。」の一文によって失われるアルベルチーヌは、「私は不機嫌に起きるのがつねであった」という相補的な一文においては失われず、むしろこうした「喉から出ない言葉=詩の言葉」こそが、「テキスト」に支配されることのない「ヴィジョン」を生み出すための契機になると、私は予感しています。

 たとえば『フォーエヴァー・モーツァルト』の冒頭で、「モーツァルトの」ではなく「ベートーヴェンの」ピアノ協奏曲が流れる瞬間!

 私(=一人称)によって、ある一者(=二人称)が完全に期待されている中、他なる一者(=三人称)が不意に現われ出る瞬間、私たちは、テキストの領域に覆われたヴィジョンの領域が崩れ落ちるのを目にすることでしょう。

 tttさん、

 いろいろと考えるきっかけをいただきありがとうございます。

 http://cri-image.univ-paris1.fr/celine/celinegodard.html

 のサイト、知りませんでした。これは素晴らしいです。

 「desensevelir」の語に関しましては、19世紀末の辞書に出ているようです。

 http://fr.wiktionary.org/wiki/d%C3%A9sensevelir

 ゴダールがハイデッガーを強く意識していることを証拠立てるには、「desensevelir」の語ではやや弱いように感じています。
Posted by 持田 睦 at 2009年11月17日 04:07
>> 「長いこと、私は早い時間に(de bonne heure)寝るのがつねであった。」
>>不機嫌に(de malheure)起きる
>というプルーストの小説『失われた時を求めて』の冒頭の一文と結びつけられるや否や、
 あ、冒頭文だったか+そっちの訳のほうがどう考えてもまともだ…。でも、de bonne heure/de malheureで、ゴダールが後者の文を付加することで、前者の意味合いに別のものを持たせ、慣用的な意味合いを外させる作用を狙ってるのはあると思いますよ。

>19世紀末の辞書に出ているようです。
 html版リトレには載ってるから、昔は使われた語彙ではありそうですね。フーコーが「Distance, aspecte, origine」(1963)がdegagerの言い換えの一つで使ってたりして、まれに現代に使う人がいるって程度。
http://francois.gannaz.free.fr/Littre/xmlittre.php?requete=desensevelir&submit=Rechercher
 まあ、証拠にするには弱いのはわかってるので、ほとんどフィクションの勢いでごまかして使う予定だったんですよ。闇、夜の主題にしてもレヴィナスでしばしば出てきますけど、出典であるという言質をとるのも難しいですしねぇ…。recouvenirのハイデガー説を冷静に突っ込まれると困るんですが、ここは強引に押し切りました。割と無理があるんですけどね。

>サイト、知りませんでした。これは素晴らしいです。
 Celine Scemamaは楽譜みたいな資料本『Histoire(s) du cinema de Jean-Luc Godard. La force faible d’un art』(L’Harmattan, Paris, 2006)の著者でして、そのサイトver.がここです。40分以上ある1Aの部分が23分しかなく、あれ?ってな不備があったり、ものすごく細かくチェックするとecritsのタイミングとかもろもろが遺漏があったりしてるんですが、それでも精度はかなり高い。
 desensevelirもs'ensenvenirかどっちなのかと悩んだ挙句、セリーヌシェママ採録に従った、という経緯を辿りました。この本ははたして、ゴダールのチェックを経てるのかどうかは知らないですが。まあでも、POLのやつだって完全ではなかったり、まれに変な誤植あったはずので、気にしないことにしてますが。


 モーツァルトで言うと、前に「私はかなりのヘーゲリアンです」(全評論・全発言III, p.464)を引きましたが、このアンドレ・S・ラバルトとの対談で「映画でモーツァルトに対応するのはチャップリンで」っていう一節がありましてね。そのくだりでは結局チャップリンについてさほど大したことは言ってないし、チャップリンで『フォーエヴァー・モォツアルト』を読めるかっていうといろいろ難しいんですが、「ゴダールにおけるチャップリン」というのはたぶん重要で、『JLG/JLG』読解の際に使える線になるとは思ってる。ロメールもそうなんですが、「キートンからチャップリンへ」という動きをとる人がたまにいて、実際ゴダールもある時期を境に「実はチャップリン、面白くないか?」というふうになっていくんですよね。
Posted by ttt at 2009年11月17日 07:56
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