僕らふたりの唯一にして最大の目的は、ユイレ亡き後、ストローブ単独で監督した短編映画「アルテミスの膝」を目にし、耳にすること。「あの彼らの出会い」同様、パヴェーゼの『レウコとの対話』を映像にした本作品は必然的に、ユイレの死の前後の作品の比較を要求するが、僕らの結論はこうである。「ストローブ=ユイレの映画の叙事性は、ユイレの死後失われてしまった」。たったの一作からすべてを判断するのは危険だろうが、そう判断せざるを得ないほど、ユイレを失ったストローブはあまりに感傷的で、あまりに甘かったのだ。
(以下、「アルテミスの膝」を未見の方には不適切な内容が含まれますのでご注意を。)
驚くなかれ。真っ暗な画面の中、まず最初に流れるのはなんと、マーラーの『大地の歌』第六楽章「告別」である。
キャスリーン・フェリアの甘く感傷的な歌声を耳にしながら、戸惑いを覚えた聴衆も少なくなかったはずだ。そして始まるのが、『レウコとの対話』の第6話「野獣」から、エンデュミオンと流れ者との間でなされる対話である。パヴェーゼによって1945年12月18日から20日にかけて書かれたこの対話は、『レウコとの対話』全27篇中で二番目に古く、その内容はたとえば1947年に書かれた最新の対話「人間」と比べると、抒情の要素が色濃すぎるため(あの字幕からそれを感じ取るのは困難であるが)、これをストローブがいかなる仕方で、いつものあの叙事性へと高めてゆけるのか注目していたが、僕らの目にする限り、ストローブは、ストローブ=ユイレの遺産をただひたすら食いつぶすだけで、結局は抒情性のなかに飲み込まれていってしまったように思えた。もちろんユイレを失ったストローブが、ひどく感傷的な気持ちになっているのは無理のないことだ(ちなみに彼の最新の舞台[映画ではない点にご注意!]は『レウコ』の第18話「魔女」を題材にしているが、1945年12月13日から15日にかけて書かれた『レウコ』最古の対話は、涙なしでは読めないほど感傷的な内容である)。ただ『レウコ』そのものを愛したユイレにとって(彼女にはパヴェーゼ個人の心情、たとえば自死に至る過程など全く関心の外である。彼女はパヴェーゼの作品を愛し、作品に含まれる「抵抗」を愛し、「抵抗」を生き、「抵抗」を口にする民衆を愛したのだ)、ストローブの極めて個人的な素材の選択は、妻への深い愛情の表れであるにしても、決して喜ばしいものではないはずだ。その意味で、一見ユイレであふれる「アルテミスの膝」の中にユイレはいない。訂正。一見ストローブ=ユイレの作品と思われる「アルテミスの膝」はストローブ=ユイレの作品ではない。逆説的ではあるが、その事実を経験するためにも、ストローブ=ユイレ夫妻を愛するものだけではなく、彼らの作品を愛するものたちもあえて「アルテミスの膝」を目にすべきだろう。
(持田 睦)


大変重要なレビューだと思いますので、こちらでふたたび紹介させていただきました。
パヴェーゼもストローブ=ユイレも、トポロジーとクロノロジーの両輪でこの世界を新しくとらえ直そうと努力していたのだと思います。それが「対話」や「永遠/このいま」といった形であらわれてくる。その深く厳密な探求には驚かされるばかりです。
『レウコ』翻訳はご苦労多いでしょうが、がんばってください。応援しています。