2017年10月11日

ドライヤーの『ゲアトルーズ』で語られる「自由意志」について

 一昨日は大仕事を終えた安堵もあり、これまで本棚に立てかけたまま、手に取ることがなかなかできずにいた、カール・テオドア・ドライヤーの『ゲアトルーズ』をついに鑑賞することができた。

 過去に僕が目にしてきたドライヤーの作品(『裁かるるジャンヌ』『怒りの日』『吸血鬼』)はどれも傑作ばかり。

 彼の遺作となる『ゲアトルーズ』も、期待に違わない傑作だった。

 その映像美にはいつもながら感銘を受けたけれど、今回感心せずにはいられなかったのは、役者の台詞回しと視線の使い方だ。

 現在、自分たちが演劇を作っているからよく分かるのだが、あれだけのレベルで台詞と視線をコントロールするためには、役者は相当の努力が必要だし、演出家の能力も極めて高いものでなければならない。

 その意味では、『ゲアトルーズ』は、演劇関係者にこそ見ていただきたい映画だ。

 話の内容もとても素晴らしく、僕は主人公の女性ゲアトルーズとその友人アクセルとの間で交わされた以下の会話を耳に(同時に英語字幕上で目に)した瞬間、あっと思わずにはいられなかった(以下、日本語訳は僕)。
Gertrud: When we last met, you were working on a book.
ゲアトルーズ: 私たちが最後に会った時、あなたは本を書いていたわね。

Axel: About free will; I'm still at it.
アクセル: 自由意志について。僕はまだそれに取り組んでいるんだ。

Gertrud: I'm glad you still believe in free will. My father was a mournful fatalist. He taught us that everything in life was predestined. I remember you once said: to want is to choose. But my father said there's no such thing as choice. You choose neither your wife nor children, he said. They are given to you, you don't choose. Destiny controls everything.
ゲアトルーズ: あなたがまだ自由意志を信じていてくれて嬉しいわ。私の父は陰鬱な運命論者だった。彼は人生のすべてがあらかじめ定められていると私たちに教えたの。私はあなたが以前、こう言ったのを覚えているわ。欲することは選ぶことである。でも私の父は選択のようなものは存在しないと言ったの。妻も子供も選べない。それらは与えられるのであって、選ぶわけではない。運命がすべてを支配するんだって。

Axel: Then you know what to go by.
アクセル: すると君は何に従ったらいいか、分かっているんだね。

Gertrud: I prefer to choose my husbands myself, thank you.
ゲアトルーズ:私は私の夫たちを自分で選ぶ方がいいの、ありがとう。

Axel: In plural?
アクセル: 複数形かい?
 本ブログをお読みいただいている方々には、上記の対話の引用が、「國分功一郎氏のの批判的検討」の延長線上にあることがお分かりいただけるだろう。

 ゲアトルーズの台詞が明確に示しているように、「陰鬱な運命論者」によってなされる「自由意志」批判は、家父長制的な社会システムの中で強者として生きる者たちにとってのみ都合の良い、極めて保守的な思想の表れである。僕にはそう思われてならない。

 僕の印象に残ったもう一つの対話は、ゲアトルーズが若い恋人エルランドと最後に交わす、以下の対話である。
Gertrud: If i believed in some god, I'd ask him to protect you.
ゲアトルーズ: もし私が何らかの神を信じていたら、あなたをお守りくださいますようにとお願いするでしょうに。

Erland: Don't you believe in God?
エルランド: 君は神を信じていないのかい?

Gertrud: And you?
ゲアトルーズ: あなたは?

Erland: I don't know. There must be some higher being somewhere. Otherwise so many things would be inexplicable.
エルランド: さあ。より高次な存在がどこかに絶対いるんじゃないかな。さもないと、あまりに多くのことが説明不可能になるからね。

Gertrud: Now you must go.
ゲアトルーズ: もう行ってちょうだい。
 ゲアトルーズにとっては、人間よりも高次の存在を信じる者は「陰鬱な運命論者」であり、人間の「自由意志」を信じる彼女の愛の対象にはならない。
定理15 自分自身や自分の感情を明瞭・判明に認識する人は、神を愛する。そして自分自身や自分の感情をより多く認識するにつれて、それだけ多く神を愛する。(スピノザ『エティカ』(第5部)、中央公論社、1980年)
 神を愛する「陰鬱な運命論者」たちに、人間を愛するゲアトルーズは、次の仕方で問いかけることだろう。
Gertrud: When will we speak the same language?
ゲアトルーズ: 私たちはいつ、同じ言語を話すようになるのかしら?
 その問いかけに、僕であれば、次のように返答するだろう。

 ――同じ映画に心打たれた瞬間に。

 (これでようやく「ストローブが選んだ映画10作品のリスト」)のうち、「ジョン・フォードの全作品」を除くすべてを見終えることができた。素晴らしい映画を数多く教えてくれたストローブに感謝したい。)
(持田 睦)
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2017年09月30日

「共産主義的であることbeing communist からくる抑えがたい軽やかさと喜び」について

 『聖フランチェスコの小さい花』を読んだことがないのはもちろんのこと、ロッセリーニの映画『神の道化師、フランチェスコ』を見たこともなければ、ジョットの28面の壁画「聖フランチェスコの生涯」の存在すら知らない、この世の「政治家」どもには、植村邦彦氏が『マルクスのアクチュアリティ』(新泉社)で引用する、以下のハートとネグリの言葉の魅力は絶対に理解できないだろう。
「アッシジの聖フランチェスコは、生まれつつある資本主義に反対してあらゆる道具的規律を拒絶し、(貧困と構成された秩序の中での)肉の禁欲に反対して、あらゆる存在と自然、動物、われらが兄弟たる月と太陽、野の鳥、貧しい搾取されている人間を含む喜ばしい生を、権力意志と腐敗に対置した。ポストモダニティの中でもう一度われわれは、権力の惨めさに存在の喜びを対置しつつ、フランチェスコの状況にあることに気づく。これはどんな権力も管理できない革命である――愛と素朴さと無垢の中には、生―権力と共産主義、協同と革命がともにあるからである。これは共産主義的であることbeing communist からくる抑えがたい軽やかさと喜びである」
 そうだ。

 真の共産主義者は、この馬鹿げた政治的な混乱の中で、「喜ばしい生」を、奴らの「権力意志と腐敗」に対置するのだ。

 どのようにして?

 まずはテレビを消すことから始めてみようか。

 新聞だって読まなくていい。

 選挙?

 そんなものに足を運んで世の中が改善された試しがあるだろうか?

 気が付けば20年近く、非正規の労働を真面目に続けてきて、選挙がある度に、わずかな希望とともに投票を行ってきたけれど、失職におびえて生きる僕の状況は残念ながら、何一つ変わらなかった。

 そんな僕が、それでも毎日嬉々として生きていられるのは、「存在の喜び」を僕に教えてくれる人たちが過去にいたから、今もいるから、そしてこれからもいるに違いないからだ。

 明日は久しぶりに演劇の練習がある。

 ここには「共産主義的であることbeing communist からくる抑えがたい軽やかさ」があることを、「政治家」でない皆さんならば、ご理解くださるのではないだろうか。
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2017年09月25日

関係代名詞の目的格「whom」は本当に死語なのか

 先日塾で行った関係代名詞の授業の後、生徒から、先行詞が人である場合の関係代名詞の目的格の形は「whom」よりも「who」の方が良いと、中学校の先生に言われたのですが、という質問を受けた。

 ちなみに僕は、現在の中学校の教科書では、関係代名詞の目的格の形として「whom」が取り上げられていないことを知った上で、「whom」の用法をしっかり教えている。

 そんな僕には、「whom」の代わりに「who」を用いた方が良いという指導があるなんて、ほとんど信じることができなかったのだけれど、帰宅後、インターネット上であれこれ調べてみたところ、関係代名詞の目的格の「who」に抵抗を覚える僕は、完全に時代遅れの英語指導者であることが分かった。

 日本の英語教育は気が付くと、完全に口語英語に重心を置いた教育に移行していたのだ。

 口語英語…。

 僕が小学校の2年間を過ごしたロンドンの現地校で耳にした英語の響きに、関係代名詞の目的格として機能する「who」が含まれていた記憶は全くないものの、30年以上も前の記憶など今さら当てにならないし、インターネット上で調べる限り、世界各地のネイティヴの方々も、「whom」の代わりに「who」を口にする方が自然であると考えているようだ。僕も生徒たちに、関係代名詞の目的格の形は「who」の方が良いと教えなければならないのだろうか…。

 そう思った瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、音となって耳に入ってきてはいないけれど、文字として僕の目に入り続けている「whom」の存在だ。

 僕の印象では、公的な文章の中で「whom」を用いるネイティヴの方々はまだまだ大勢いらっしゃる(というよりも、関係代名詞の目的格の「who」を使用している公的な文章を目にしたことがない)。

 私的な文章の中でも、彼らが決して「whom」を用いない訳ではないことは、僕がここ一年以内にネイティヴの方からいただいたメールの中の以下の一文が実証している。
One of the persons whom I met is a Japanese filmmaker originally from Tokyo.
 インターネット上では国内外を問わず、「whom」はもはや死語であり、そのような死語を用いる必要はないと主張される方がいらっしゃるようだが、そのような主張が妥当であるのはあくまでも口語としての英語に関してであり、口語にのみ当てはまる主張を書き言葉にまで広げ、「whom」の存在を完全に葬り去ってしまうのは、あまりに乱暴なことではないか。

 BBCのサイトで検索した「whom」が含まれる記事をご覧いただきたい。ここで確認できる書き言葉としての関係代名詞の目的格の「whom」を全て、「who」に置き換えることが本当にできるのだろうか。

 日本のかつての英語教育が書き言葉としての英語を中心としたものであり、それこそが日本の生徒たちの英会話力の低さの元凶だったという説は一見もっともであるが、話し言葉としての英語に重点が置かれた指導を受けている現在の中学生が、僕らの時代の中学生よりも高い英会話力を持っているとは、僕には到底思えない。

 そもそも、話し言葉としての英語に重点を置いて指導をしたら、生徒たちの英会話力が必ず上昇すると言い切れる根拠はどこにあるのだろう。

  思い返せば、英語を全く話せなかった小学4年生の僕が、少しは英語を話せるようになったのは(悲しいことに、帰国後、日本の中高で受けた英語教育によっては、僕の英会話力は1ミリも上昇しなかったのだが…)、現地校に通う非英語話者の生徒のみを集めた「ランゲージ・センター」という名の公的な語学学校のお陰だった。今でもそうした制度があるかどうか分からないが、30年以上前のロンドンの公立小学校では、英語が話せない生徒は午前中のみ、学校から離れたところにある「ランゲージ・センター」で、英語を教わることになっていたのだ。

 かすかに残る僕の記憶によれば、僕はその「ランゲージ・センター」で、魅力的な現地の先生方(彼女たちは人種差別を絶対に許さなかった!)が口にする正しい英語を大量に耳にし、その正しい英語を大量に反復して口にし(彼女たちは崩れた英語を絶対に許さなかった!)、さらには正しい英語の文章をノートに大量に書き記した(彼女たちは韻を踏ませて詩を作ることまで教えてくれた!)。

 当時のロンドンの「ランゲージ・センター」の教育システムを研究したら、日本の初期英語教育のあるべき姿が見えてくるかもしれない、僕はそう夢想している。

 どなたか、そうした研究をなさっている方はいらっしゃらないのだろうか(あるいは、僕にそうした研究の機会を与えてくださる奇特な方はいらっしゃらないだろうか)。

(持田 睦)
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