2017年04月27日

論集『戦うことに意味はあるのか』の発売が開始されました

 私の論文とコラムが掲載された『戦うことに意味はあるのか――倫理学的横断への試み――』(クリックしますと、弘前大学出版会のホームページにつながり、目次が確認できます)の発売が開始されました。

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 常磐線が走る初秋の福島沿岸を表紙絵にした『戦うことに意味はあるのか』は、福島県夜ノ森駅の桜が表紙絵の前作『生きることに責任はあるのか――現象学的倫理学への試み――』につづく、政治哲学論集です。

 この論集の中で私が発表しているのは以下の2本の論文と1本のコラムです。

  (論文)悲劇の果てにある悲劇 ――ヘルダーリンの『アンティゴネーへの註解』の核心
  (論文)「傷跡」の光景 ――ユイレとストローブの映画『ロートリンゲン!』の分析
  (コラム)「デグラスって何かしら?」 ――ゴダールの『勝手にしやがれ』におけるパトリシアの闘い

 「悲劇の果てにある悲劇」に関しては、その難解さゆえに曲解されがちなヘルダーリンの『アンティゴネーへの註解』の、より自然で、より適切な解釈を提示した論文になっていると思います。この『註解』と出会ってから20年以上が経過し、ようやくその核心に近付くことができました。

 「〈傷跡〉の光景」に関しては、ユイレとストローブの映画研究の水準を、一段引き上げることができた論文であると自負しています。彼らの映画が「厳格」であり「厳密」であるとはよく言われることですが、私の論文を読んでいただけると、彼らの映画は「厳格」や「厳密」といった言葉を超え、ただひたすら「凄まじい」ことを実感していただけるのではないかと思います。
 
 コラムに関しては、1959年という時代から見えてくる、ゴダールの『勝手にしやがれ』について、ドキュメンタリーの視点から述べてみたものです。引用したシナリオの翻訳が、なかなかうまく行っているのではないかと思います。

 他の論者の魅力的な論文やコラムと合わせ、ぜひご一読ください!

 現在、ウェブ上では、Honya Clubhonto紀伊國屋書店などで発売が開始されています。

 実店舗では、ジュンク堂の池袋本店、吉祥寺店、MARUZEN&ジュンク堂の渋谷店、紀伊國屋書店の新宿本店、三省堂書店の神保町本店などでお取り扱いいただいているようです。これらの店舗を利用する機会のございます方は、『戦うことに意味はあるのか』をお手に取り、その中身を確認していただけると幸いです。
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2017年04月14日

「とどまってくれ、お前はこんなにも美しい!」(2010年のストローブの活動を記録した映像より)

 YouTubeに、2010年のストローブの活動を記録した映像が、Barbara OLSZEWSKA氏によって投稿されていたので紹介しよう。




 1つ目の映像の後半部には、驚くべきことに、ブーティのフランチェスコ・ディ・バルトロ劇場での『慰めようのない者』の公演映像がフルで含まれていた!

 公演終了後のストローブのイタリア語の挨拶が素晴らしかったので、以下に記しておく(イタリア語を聴き取るのは久し振りだったので、細かいミスがあってもどうぞご容赦を。ストローブによるゲーテの『ファウスト』からの引用は、これまでになかったような気がする)。
La vita su questa terra, madre terra, è supreme, supreme, eh, ogni tanto, non sempre, la madre terra è qualche volta crudele. Ma, c'è sempre il momento che arriva della tentazione di, come si chiama, Mefisto..., Mefistofele, Mefisto..., Mefistofele, e dice siamo tentati di dire al momento che passa, Verbleibe doch, du bist so schön! Fermati, sei cosi bello! Fermati, attardarti, sei cosi bello! Questo è una cosa. L'altra cosa è che la vita, dio mio, può essere molto crudele.

(この大地、母なる大地の上で生きることは、至上のことなんだ、至上のこと、うーん、時々だ、いつもではない、母なる大地は時には残酷だ。でも、いつだって、何と言う名前だったか、メフィスト…、メフィストフェレス、メフィスト…、メフィストフェレスの誘惑の瞬間があり、彼は言うんだ、俺たちは、過ぎゆく瞬間に、こう口にしたい誘惑にかられると。とどまってくれ、お前はこんなにも美しい! とどまってくれ、お前はこんなにも美しい! とどまってくれ、いつまでもいてくれ、お前はこんなにも美しい! これが一面だ。もう一面はと言うと、生きることは、やれやれ、非常に残酷なことでもありえるんだ。)
 この言葉は、ストローブの『慰めようのない者』だけでなく、ユイレとストローブの全映画を理解する上でも、大切な言葉だと思う。また、感傷的に解釈するならば、ユイレの生と死について述べている言葉とみなすこともできるかもしれない(彼が『レウコとの対話』の中から「慰めようのない者」を選んで、演劇化、さらには映画化したことの背景には確実に、ユイレの死がある。「慰めようのない者」を未読の方は、こちらに僕の翻訳があるのでどうぞ)。

 Barbara OLSZEWSKA氏がどのような方なのか、まったく存じ上げないのだけれど、こうした投稿がこれからも続くようなので、注目したい。

(持田 睦)
posted by Uoh! at 01:25| Comment(0) | ユイレとストローブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

サリー・シャフトウ氏のブレッソン論の紹介

 アメリカの映画批評家サリー・シャフトウ氏から、ブレッソンに取り組んでいることをおうかがいしたのは昨年末のこと。

 それからおよそ3カ月後、彼女から「Prodigal」という雑誌が届き、この雑誌には、「Modernism and Postmodernism in the Streets of Paris in the Summer of 1959: Bresson’s Pickpocket and Godard’s Breathless(1959年夏のパリの路上におけるモダニズムとポストモダニズム:ブレッソンの『スリ』とゴダールの『勝手にしやがれ』)」という、なんとも魅力的なタイトルの彼女の論文が掲載されていた。

 塾の春期講習会の真っただ中、通勤の電車の中で読み進めたため、読み終えるまでに数日かかってしまったが、現代芸術と絡めて映画を論じるシャフトウ氏の論述のスタイルは今回も健在で、最後まで興味深く読ませていただいた。

 とりわけ面白かったのが、ブレッソンの謎の青年時代を、シュルレアリストとの結びつきから暴露してみせる前半部分で、シュルレアリスムの運動がフランスの映画(ユイレとストローブの映画も当然含むだろう)に与えた影響の巨大さに、改めて気付かされずにはいられなかった(シュルレアリスムの巨大な影響が及んでいるのは映画だけではないだろう。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』も、見方によってはシュルレアリスムの書として読むことができるのではないか。)

 1959年夏のパリの路上で、ブレッソンの『スリ』とゴダールの『勝手にしやがれ』の撮影が同時になされていたことに着眼し、ポストモダニストとしてのゴダールと対比しながら、モダニストととしてのブレッソンについて論じるシャフトウ氏のブレッソン論に興味を覚えた方は、「Prodigal」にアクセスしていただきたい。その冒頭部分のみ、こちらで試し読みできるようになっている。

(持田 睦)
posted by Uoh! at 00:25| Comment(0) | 舞台・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする